雨とあなたが揺らす花

 雨は嫌い。

 雨粒が屋根を叩いて、草木を揺らすから、もしかしてあなたが来たかと思ってしまう。
 今日は風も相まって、ポチャン、カタン、どこかから聴こえるあらゆる音に、私の心は晴れ間を見せては土砂降りに振られるのを幾度となく繰り返す。
 雨は、ショータが現れる必要条件で、けれど十分条件じゃない。
 連絡先を知らない私は、雨の日は必ず家にいて、彼が来るかもしれないと窓の外を眺め続けるのだ。

 何者かも知らない。
 雨の日に、小さな怪我をしてやってくる彼を。

 大雨の寒い日、アパートの裏手で座り込んだ彼を見つけたのは、偶然だった。
 びしょ濡れの長い烏羽色はその顔を隠し、降り頻る雨は彼の血を洗い流した。通報するな、少し休んだら消えるから放っておけと私の手を振り払った彼の目は、見ているこっちが切なくなるほど悲しみに暮れていて、無理矢理にでも手を差し伸べずにはいられなかった。
 泥臭い彼を支えて、私も彼の含む水分に侵されながら部屋まで招き、微弱な回復系個性で出血を止めて、お風呂を貸してやり、服を着替えさせ、洗濯をして、一晩の雨宿りをさせたのが、私たちの始まりだった。
 怪我からくる熱にしっとり汗ばんだ額で、潤んだ目で、頼むからこうしてほしい、などと、大の男が、それも無精髭に真っ黒の服着た屈強そうな男が、弱々しく縋るものだから、一晩抱き枕になってあげたのだ。
 無口な男に焼いたお節介は、それはそれは完全なる自己満足。
 当時、恋人と別れた喪失感に苛まれていたせいか、私を抱きしめる逞しい腕が寂しさを埋めて、驚くほどによく眠れたのだから私の危機管理能力はどうなっちゃってるんだか。
 熟睡から覚めた朝には、もうベッドの半分はもぬけの殻で、夢だったのかと思うほど――。

 けれど、それからというもの、たまの雨の日、彼はまたびしょ濡れでどこかしらに怪我をして、私の部屋の戸を叩く。
 怪我は出来立ての打撲から、治りかけの擦り傷まで色々。

 恋とは違う気がしている。だって彼は必要最低限しか話さない。あまりに知らなすぎるのに、何か、魂が惹かれるような、抗いようのない引力があって、それがあまりに私の心の隙間の形に合いすぎている。

 忘れようとしても、忘れられない。

 酷いのだ。彼が必ずひとつ、彼の痕跡を残してここを去るから。

 洗濯乾燥機に入ったままになっていた服にはじまって。真っ黒なだけのヘアゴム。使い古したボールペン。何も書いてないメモ帳。雨を拭ったスポーツタオル。濡れて脱いだ靴下。ライター。タバコ。それから、肌に残る感触。

 来るたびに何かを返し、そして、別の何かが私の部屋に置き去りにされる。
 失くさないように目立つところに保管してるから、嫌でも毎日意識に触れてしまう。
 どんなにくだらない物だとしても、返した方がいいのか、捨てていいのか確認を取る術すらない。
 じっとりと、肌にまとわりつく空気が、雨の香りが、無表情のようで切なげに揺らめく瞳を、ゆっくりと頬を撫でる熱い手を思わせる。

 ショータ。

 忘れっぽいあなたは、もしかして私の事までも、すっかり忘れて置き去りにするの?
 タパタパ、ポタ、ピチョン
 テーブルに頬を預けて、横向きの世界に雨が走るのをぼうっと眺める。
 にゃあ、と小さく寂しげに、野良猫がなく声が聞こえた。
 何がというわけではなく、虫の、いや猫の知らせで、もしかしてと立ち上がる。土砂降りの雨はきっと、扉の外の廊下も濡らしていることだろう。
 期待したところでその分落胆が増すだけなのは確定事項だ。少しの息苦しさを連れて、水の中を進むように緩慢に、けれど淡い予感を感じたら、玄関へと向かわずにはいられない。
 ジリ、とコンクリートを詰る靴音が、ドアポストを通して私の心臓を撃った。
 息も忘れて、ガチャリと鍵を開け、ドアノブを押し開く。
「ショータ」
 どうして帰ろうとするの。
 立ち去ろうと踵を返したはずだった、濡れ鼠の背中。気まずそうに半分振り向いたショータは眉を下げて、ぴたりと閉じられた唇を緩めた。
「……怪我を、してないんだ……」
 掠れた声が雨音に混ざって降る。
 怪我をしていないことの、一体何が問題なのか。怪我をしていなくても、黒髪から雨を滴らせている。そんなことで、ノックを躊躇う必要などなくて、私は嬉しくて。
 そう、けれど私たちは、理由もなく訪ねるほど仲の良い友人でも何でもないのだ。
「……入って」
 怪我をして、家に帰るのを遮る雨に降られ、ようやく、私は彼を家に招く道理を得る。それなくして、私たちの関係を何と言葉にできるのだろう。
「いや……」
 ポケットに突っ込んだ両手は、心を閉ざしている。
「ずぶ濡れで、見つけちゃったら追い返すわけにいかないわ」
 ショータは、三白眼を細めて、眉間に皺を寄せた。アパートの駐車場脇で雨に打たれる紫陽花を睨んで、私を見ようとしない。

 冷静を装った唇の内側で奥歯を噛み締めているような、そんな気がした。

「泣いてるの?」

 頬を流れる水が、雨なのか、涙なのか分からないけれど。たとえ涙を流していないにしても、心が泣いているような顔をしていた。

 小さく左右に揺れて否定を示し、ようやく、ショータはつま先を私に向ける。
 やっと大きく開かれた扉から彼を招き、かちゃんと外から閉ざされて、私は無意識に胸を撫で下ろした。


 心地よい大雨の音がバスルームにくぐもって響く。同じ水の降る音なのにこんなにも違う。ぼんやりと過ごす時間より、心がぎゅうっと搾られる今はとても生きている心地がした。
 キュ、ガラ、バタ、と立て続けに彼の湯上りが鳴る。床を打つ流水は止み静まった室内で、私は跳ねるように立ち上がって、キッチンへ。グラスにミネラルウォータを注いでいると、みすぼらしい濡れ鼠は、水も滴る、になるのだから驚きだ。
「どうぞ」
 グラスを受け取った彼が丁度よく着こなす、元彼の服。クローゼットで主人を失くしたこれらを見ても胸が痛まなくなったのは、ショータのおかげだと思う。
「……風呂、ありがとう」
 コトリ、空になったグラスをシンクに置いて、ショータはぽつりと言った。
「ショータ、また忘れ物していたの。今度はイヤホン」
 ぱたぱたとキッチンから出て、リビングのチェストの上に鎮座した遺失物を持ち主へ返還しようと手に取って、私は。
「どうしたの、ショータ」
 声は驚きに震えていた。
 背中に張り付いた温もり。イヤホンを持った手を動かせない強い抱擁。
 耳元で、小さく鼻を啜る湿った音。
「あんたが……優しいから……」
 雨粒のようにしとしと、低く、藍色の絵の具のような声が耳元で揺れる。
「……優しくなんか、ない」
 彼が何を抱えているのかを、私は知らない。
 悪い人なのか、良い人なのかも、何も。
 なのに下心を持って、また、雨の日に彼が怪我をしていたら、と思ってしまう酷い人間だ。

「ナマエ」

 名前を呼ばれた。
 喉から絞り出すような、苦しさを孕んで震えた声で。

 鼻の奥がツンと痛んで、じんわりと眼の潤いが増す。

 大きな、温まった手が、そっと頬を撫でて私の唇を誘導する。

 振り向いてはいけないような、振り向かなくてはいけないような、その判断を下す前に、横を向いた私の唇は彼のそれに塞がれていた。
 やんわりと包み込むような口付けは、次第に、徐々に強くなる雨のように、激しさを増して崩れる。

 ねぇ、ショータ。

 私はこれを、知っている。
 知らないのに、知っている。
 そんなわけないのに。ねぇ。


「――俺のこと、何も知らないのに、こんなこと許していいのか」

 ようやく触れ合った温もりを手放したくないとでもいうように、鼻先をくっつけたまま彼は問う。
 くしゃりと今にも降り出しそうな曇天の瞳が、綺麗。

「わからない、けど、私……ショータを知りたい」

 僅かに微笑んだ口元は、キスに濡れて見えなくなる。
 頬を、耳を、首を滑る指が熱を生む。

「二度と離さない」

 心がこれでいいと叫んだから、激しい雨音に混じって肌を撫でる宣言に、疑問を持つことはなかった。
 
 一枚、一枚、焦れたように、けれど優しく服が私を離れて行く度に、私から抜け落ちた何かを、取り戻せる気がした。





* *




「だれ?」
 聞き慣れた声が、よそよそしさで俺を殴る。
 俺は、俺を知らない他人として見つめる瞳に耐えられなくなって逃げ出した。

 なのに、酷いミスをしてボロボロになった時に、身体は勝手に彼女を求めてその住処へと這っていた。
 大丈夫ですか、と、雨と一緒に降り注いだ声は、やはり俺を覚えていない。
 苦しいだけだ。
 彼女は何の苦しみも疑問もなく生きている。
 何が悪い。
 怪我と不安の絶えない俺より、彼女に相応しい男はたくさんいるだろう。
 逃げたかった。
 会いたかった。
 抱きしめたかった。
 もう一度俺を好きになってくれるかなんて分からない。けど差し伸べられた手に縋るだけは許されてくれないだろうか。

 故意の邂逅は、俺を欲深くした。

 お前に他の男の影が無いことに安堵して、俺は、他の男が入り込まないように、そして俺を忘れないように、痕跡を置き去りにする。
 記念日にくれたペン。作戦で必要で吸い始めたタバコ。お前のくれたジッポ。お揃いのイヤホン。明らかに男物の衣服。

 忘れたから、お前は俺を待つ。

 俺は、孤独で震えた男になって、お前に頼ることができる。
 
 雨の日に、怪我さえしていれば。

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