フルネームで覚えてたんで

「かーんぱーい」
「おつかれ」
 ビールのジョッキを軽くぶつけ合い、ぐっと喉に流し込む。冷たい液体がぐびぐびと喉を通り疲労を少しばかり流してくれて、はぁと大きく息を吐いた。
 対面の山田も、くぅぅと高い声を上げて泡の髭をぺろりと舐めると早速箸を持つ。
 最近流行りの創作料理がウリの居酒屋は、カクテルの種類も豊富で女性客も多い、と山田から聞いてはいた。試しに行ってみよーぜと誘われるまま仕事帰りの男二人飲み。通された小上がりは隣と仕切られているものの、薄いロールカーテン一枚では女性グループの盛り上がりは筒抜けだった。
「あー、もう。今日ももうダメかと思いました!」
 盗み聞くつもりはないが、すぐ背中合わせで言われたらどうしたって耳に届いてしまう。困ったような怒ったような女性の声は、聞き覚えのあるような、ないような気がして。
 ふっと最近気になっている事務の子を思いだしたが、いや違う。彼女はもっと大人しい喋り方をするはずだ。
「だってちょっと、見ました?! なにあのポニーテール! もぉ! ほんと迷惑ですっ」
 背中でその声を聴いた俺は、かぶりつこうとした唐揚げを口の手前で止めた。
 なにせ俺は今日、突然の暑さで髪を一つに結んでいたから。
 迷惑と嘆く女性に「あー」とか「はいはい」とか同意のようなあしらい慣れた相槌が聞こえる。よく迷惑被ってるのか。可哀想に。
「しかも名前呼ばれたんですよ!」
 とんでもなく嫌な相手なんだろう。髪型を変えれば迷惑で、名前を呼ぶだけで悲劇のように語られるなんて。
 他人からの好感度を意識した事はあまりないが、業務に支障が出るほど嫌われることがないように俺も気をつけなければ。
「盛り上がってンね。オトナリサン」
 山田も、普段ならべらべらと喋るところ、珍しく隣を気にしている。
「居酒屋ならこんなもんだろ」
「なーんかさぁ、聞いた事ねェ? この声」
「おい。盗み聞きは趣味が悪いぞ」
 気にしないのが一番だし、知り合いだったら尚気まずさしかないだろ。というか雄英関係者だとしたらポニーテールなんて俺の事確定じゃないか。やめてくれ。
「あの声で……名前を……やだもう……思い出したら動悸が…」
 女性がううっと唸り、グループの他の声が飲め飲めと彼女に飲酒を促す様子が伝わってくる。
 山田は枝豆をぴょこんと鞘から口に飛ばして噛みながら、記憶を辿るように上向いていた視線をぱっと俺に向けた。
「あ、ほらほら、あの子だぜ。絶対! 俺の耳に間違いねぇよ」
 声のボリュームを落とした山田は満面の笑みで口元に手を添えて身を乗り出して来た。
「事務の……ミョウジサン、じゃね?」
 そうだろう、と確信に満ちた緑の目が憎い。俺もさっき彼女の存在を思い出していたんだから。
 二人の意見が一致してしまえば信憑性は跳ね上がるが、俺が先に気付いたのに、というわけのわからん悔しさが込み上げて素直に同意できない。
 ひひひ、と山田は面白そうに笑って、もう一粒枝豆を口に放り込んだ。
「まず顔がヤバいのに声もヤバいって……相澤さんは罪深いです……」
「ふっ、ひひ、あいざー言われてンぜ」
 俺の名前が出たら、もう疑いようもない。
 山田が目の前で口を押さえて声を殺して笑っている。開きかけた恋の蕾は、花咲く前に枯れたわけだ。くそ。誘いに乗って飲みになんて来るんじゃなかった。
「笑うな」
 居心地が悪すぎる。
 せめてこの後顔を合わせてしまった時に不快感を与えないよう、髪を解いておこう。
 俺がぐいっとゴムを取るのを見て、山田は涙を浮かべながら笑いを噛み殺していやがる。ギロリと睨んでみるが余計に肩を震わせるだけ。
 彼女は確かにいつも落ち着いていて、愛想を振り撒くタイプの子ではないと思っていたが、なるほど俺は嫌われていたのか。罪を問われる程にヤバい奴認定されていたのか。なぜだ。
 余計な事を言わずに仕事は出際よくミスなくこなすところに好感を持っていたし、付箋一枚からも感じられる細かな気遣いにいつも癒されていたのに。
 別に片想いというほど恋に燃えていたかと言われればそうではないが、これはこれでまぁ結構堪えるもんだ。いや、素直に言えばショックを受けている。
「うるさい、山田」
 たとえボリュームゼロでもモーションがうるさい。八つ当たりだ。やけになってビールを煽ったその時に。
「好きすぎて辛い……」
「ブッ」
 すき?
「おっわ?! 芸術的な吹き出しだなオイオイ高かったんだぜこのジャケット……つーかそれより、今、好きって」
 ぽたり、顎からビールが垂れる。
 山田はおしぼりでジャケットを拭きつつ、俺の背後へと目を向けた。最早盗み聞きうんぬん言ってたのも忘れて二人でロールカーテンの向こうへ意識を集中する。
「書類のミスを指摘しに行くのがこんなに嬉しいことある……?」
 なんだって?
 スンと澄ました顔で『相澤さんココなんですけど』と書類を指差す姿を思い出す。今の熱量のとギャップが大きすぎて信じられないが、なんだ、それ。つまり髪を結んでいたのも、名前を呼んだのも、嬉しすぎたという解釈でいいのか?
「ひゅ! 髪、結び直しとけばァ?」
 と限界までニヤニヤした山田が目に煩い。本来なら揶揄うなと苦い顔をしたいところだが、彼女からの好意をほのめかされては、苛立つどころか手が素直に髪を束ねてしまう。
「声かけない……とか言わねーよな?」
 片眉上げて口の端を吊り上げて、山田はちょいちょいと俺の背後を指差した。
 言わねーよ。目の前に転がってきたチャンスは須く掴みにかかるべきだ。
「マイク、メニュー取ってくれないか」
「OK相澤、はいよ」
 わざとらしく大きめの声で、手の届くところにあるメニューを要求すると、山田も合わせて俺の名前を呼んでくれた。
「ひっ」
 背中で息を呑むのがハッキリと聞こえて笑いそうになる。水を打ったように静まった隣の卓は、すぐに黄色い悲鳴で沸き立った。
「えっ、えっ、マイク先生と相澤先生?!」
「ハァイ。事務のレディーズ。騒がせちゃってわりぃな」
 さっとスリッパをはいた山田が二歩先のテーブルへ。続いて俺もロールカーテンの端から身を乗り出して顔を覗かせる。
「どうも」
「きゃあ相澤先生だよ! お疲れ様です!」
 そう元気に返してくれたのは事務課で顔馴染みの女性陣。いけいけチャンスだとばかりに盛り上がる彼女たちに反して、ミョウジさんはカチンコチンに固まっていた。
 視線がかち合うと、さぁっと血の気が引いていくのが目に見えて分かる。
「随分俺の話題で盛り上がってましたね」
「ご、ごめんなさい……」
 強張った声が途中でひっくり返るのも、いつもは見られない姿で新鮮だ。
「いえ、まぁ、嫌われてるわけじゃなさそうで、嬉しかったです」
「あ、あぁぁぁ」
 今度は言葉を失って「あ」だけを口から溢しながら真っ赤になっていくから、楽しくなってしまう。
「もしご迷惑でなければ、山田と席取り替えてこっちで話ませんか」
 きゃーっと賑やかになる他の面々とは裏腹に、ミョウジさんだけ信じられないと言うように目を見開いた。
「女子会邪魔した分は、俺のトークで帳消しにしてくんね?」
「マイク先生と飲めるなんて光栄です! ミョウジのことよろしくお願いします!」
 行け行けと押し付ける勢いで背中を押され、ミョウジさんは蚊の鳴くような声で「よろしくお願いします」と言った。
「あいざぁ、貸しひとつな」
「ん」
 内緒話を耳元に置いて、ウインクしてひらりと手を振った山田に今日は感謝しかない。
 おぼつかない足取りでなんとか場所を移動して、ふらふらと俺の向かいにへたりこんだ姿は、雄英で会う時とは全く違う彼女だ。
「どうも。とりあえず、乾杯」
 喉をひゅっといわせながらギリギリ持ち上がったカシスオレンジに、チンとジョッキをぶつける。
 真顔に近い表情は普段通りなのに、真っ赤に頬を染めて涙目のアンマッチが堪らなくかわいらしい。今までどれだけ俺の前で平静を装っていたのか。
 イェーイ! と隣で元気に宴が始まるのを聴きながら、さて、何から話そうかと思考を巡らせる。
 ひとまず――
「ミョウジさん」
 名前を読んだ途端、心臓でも撃ち抜かれたかのようにビクッと全身で跳ねた。
 一挙一動がかわいい。
 蕾なんて嘘だ。猛烈に加速する好きを声に変えて、俺はもう一度、彼女の名前を呼んだ。

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