浮気の定義

「先生、浮気って良くないと思うんです」
 消灯時間の少し前、寮の見回りに行くと、エントランスの階段で彼女はひとり座って星を眺めていた。俺の存在を一瞥して、また晴れ渡る星空へと視線を向けた彼女は、藪から棒にそんな事を言い始めた。
 その表情は固く、真剣なのか怒っているのか判別がつかない。
「そうだな」
 俺の返事を聞いて、眉間に皺を寄せてウンウンと頷いているその様子は、まるで気難しい評論家のようだ。
「相手を裏切る行為ですからね」
「そうだな」
 自分のボキャブラリーの貧困さ、不器用さに呆れてしまう。話の意図がまだ見えないので、下手なことは言えないと思うとどうにもコメントし難く、簡素な相槌のみになってしまうのだ。
 それでも彼女は、俺が話を聞く姿勢を見せた事で安心したようにふうと息を吐いて、視線をつま先に向けた。怒っているような表情は、眉間に寄った皺は変わらないのに、どこか悲しみを帯びる。
「けれどね、人によって浮気の定義って違うと思うんです」
「……そうだな」
「だって自分が浮気だと思ってなくても、相澤先生にとってアウトならそれは裏切りじゃあないですか」
 以前すでにお互い気持ちを吐露してしまった俺たちは、けれど恋人という関係を結んでいない。だから俺は、あくまでただの先生と生徒である事を守らなくてはいけない。
「なぜ俺の想定なんだ」
 突き放すような俺の言葉に、彼女は儚げに微笑んだ。どろりと申し訳なさが心を重くする。
「つまりね、一般的に、恋人同士のあいだでは、浮気の定義の擦り合わせが必要だと思うんです」
 一般的に、を強調した彼女は、これでご満足ですかと眉を上げた。
「合理的だな」
 そう言いながら、俺は何か彼女の浮気の定義に抵触したのだろうかと考える。女性との接点などほぼ無いが、生徒との接点は多分にあるので、何かが彼女の気に障った可能性はある。しかしここまで完璧にお互いの気持ちを周囲に漏らさずいられたこの聡明な少女が、そんな事を気にするだろうか。
「ところで先生、浮気って、どこからが浮気だと思いますか?」
 きょろりと丸い目が俺を覗き込む。怒りも悲しみもない、純粋なる興味とといった風な、それでいてどこか俺を茶化すような目が返事を待って瞬きをした。
 まだ恋人になる前に、まさかこれは価値観の違いというやつの確認だろうか。ここで大きく解釈がずれていたら、先生とはやっていけませんなんて言われるのか?
「俺とお前で擦り合わせは必要か?」
「当たり前じゃないですか、先生は私のなんだと思ってるんですか?」
「担任」
「であり?」
「……」
 言えるわけない、どころか本当に何でもない。それに誰かに聞こえているかもしれない、いつ人が出てくるかもしれないこの場所で、そんな話をするわけにいかない。
 全て分かりきってるはずの彼女の様子のおかしさに、俺は胸のざわめきを感じていた。
 きっと何かあったのだ。彼女自身に。最初の強張った表情の方がまだ素直だったのだ。今弧を描いた口元は、きっと何かを隠している。
「まぁ、いいでしょう、ここ学校ですもんね、言えないでしょう」
 彼女はわざと冗談めかして肩をすくめ、大きくため息をついて見せた。側から見れば、担任に無謀なラブコールを送る生徒と、取り付く島もない担任といった風に見えるだろう。そうでなくちゃ困る。
「いや、担任でしかないが」
 まだ、を高らかに言いたい気持ちを押し込める。
 彼女はそれを察したようにニコリと笑って、それから、胸の前で両手をぱんと合わせて繋いで見せた。
「私は手を繋ぐだけにしても、気持ちがあったら浮気だと思うんです」
「そうか」
「だから、任務上とか、事故とか、そういうのは浮気じゃないと思うんですよ」
 微笑みは微笑みの形のまま、悲しさを押し出している。まだ隠し切れていると思っているのか。
「……何があった」
 まつ毛が震えて、彼女は俺から顔が見えないように俯いた。
「……。先生はどこから浮気だと思いますか?」
 何かあったのは明白だが、それがどの程度のものなのか分からない。それは気の迷いで彼女がやらかした何かなのか、それとも彼女の意思に反して強引に行われた何かなのか。
 最悪を想像してしまって、腹の中が煮えくりかえる。いや、そんな事態なら、とっくに相談されているだろうけれど。
 スン、と鼻をすする音が聞こえて、俺は既に冷静ではなくて。
「俺のことを好きだと泣くやつが、何したって浮気になるわけないだろ」
 ぽん、とつむじに手を置くと、彼女はぱっと顔を上げて俺を見つめた。泣いてはいなかったものの、泣いていると言っていいくらいの顔だった。
 その瞳は数秒俺の様子を伺って、小さく唇を噛んでから息を吸った。
「……ラッキーすけべ的にファーストキスが奪われました」
 正直、その程度でほっとした。しかしファーストキスと聞くと、必然的に面白くない感情が湧いてくる。
 泣いてはいなかったのに、黙った俺を見る丸い瞳に、みるみる涙が溜まって宇宙を写す。
「……そんなの、ノーカウントだよ」
 ただ、溢れるのを、止めてやりたかった。
「これは」
「カウントしとけ」
 寮に入れる顔じゃない。俺も、彼女も。
「落ち着いたら、皆んなに消灯を伝えておいてくれ」
「先生は」
「……ランニングして帰る」
 くすりと彼女が笑ったので、頭に置いていた手でチョップして背を向けた。
 なんだって、こんな所で。空を見上げても気持ちが落ち着くどころか、星空を写した彼女の瞳を思い浮かべ、一瞬の唇の感触が連想されてしまうのだから、どうしようもない。
 さっさと卒業してくれ。

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