なんて幸せな、プルスウルトラ

 なだらかな山のてっぺんで、砂を山盛りにしたスコップがひっくり返される。
 さらさらと雪崩れる細やかな粒を、小さな手がパタと邪魔をした。邪魔をしたとて遮れるわけもなく、砂は土留の傍から更に筋を書くように滑り落ちる。
「あぅ」
 がっかりとした感嘆は愛らしく高い。
 スコップを握るのすらサイズ感の合わない小さか手は、必死のあまり山を削ってしまっている。
「ちゅじゅれちゃう」
「くずれちゃうね」
 舌の足らない、期間限定の不器用に頬が緩む。
 何度砂丘に砂をかけても、表面を流れてゆくのが気に食わないらしい。それでも僅かずつ、着実に山は大きくなっているのに、彼女はそれを実感できないようだ。
「そろそろ帰らないか」
 もう一時間近く、この砂の砦から出る事を許されないでいる。すぐそこに見えているブランコも滑り台も、目の前で砂ばかり構われて見向きもされずいじけている事だろう。
「〇〇ちゃんよりおっちくする」
「そんなに高くしたいのか」
 俺の膝に抱きついてちょうどいい、こんな低い背にしたって、砂の山をその高さにするのは至難の業だろう。
 プラスチックの丸いスコップで、またひと匙がさらりと延べられた。この調子では、いつになることやら。途方もない計画。頓挫は免れない。
 しかし、そんな不可能に思い至らない彼女は、大きな大きな山を夢見て真剣に、しゃがんでは立ち、しゃがんでは立ち、上から薄く砂を流すのだ。
 この集中力は誰に似たのか。脇目も振らずストイックに砂に挑んでいる。
 ふと公園に聳え立つ時計を見上げる。そろそろ帰ってきてと妻から連絡が来てもおかしくない時間。ふむ。どうやってこのサークルから脱出しようか。
 最近彼女が喜ぶことを考えてみる。お菓子、テレビ、必ず一緒に寝るぬいぐるみ? あぁ。ふと思い当たる解答には、俺の希望も多分に含まれている。
「帰って、お父さんとお風呂入ろう」
 ぴたりと止まった背中が、くるり振り返る。
「え?」
 キラリと輝いた瞳に、俺は勝利を確信した。
「ふりかけして?」
 ふりかけとは、入浴剤の事だ。彼女がはじめての入浴剤をふりかけと呼んで以降、我が家ではその呼び方が定着してしまった。
「しよう。何色にする?」
 手を差し出せば、ぴょんと揺れるツインテール。
 可愛い猫のキャラクターがついたピンクのバケツに、放り投げられたスコップを拾い入れる頃には、彼女は砂と芝生の境界を飛び越えていた。俺には似合わないバケツを片手に、もう片手には、小さく柔らかな手を握った。

「おかえりー!」
「ちがう、帰ってきたらただいまだよ」
 玄関に座り、足からぽんと抜かれた靴はひっくり返っている。こらこらと思いながらも、自分で脱げるようになったことに成長を感じて、注意する気になどならないから不思議だ。
 夕ご飯の支度をしていた妻は、俺たちを迎えに玄関に顔を覗かせ、わっと笑顔になった。砂だらけの娘から山の話を聞き、たくさん遊んで偉いと褒めちぎる。
「お風呂ね、入っておいで」
 直行で押し込まれた脱衣室は、もう湯気の匂いがした。
 小さな頭が服の襟に埋まってもがいているのも、おむつがぱんぱんに膨らんでいたのも、泡で出るボディソープを出し続けるのも、微笑ましくて仕方がない。
 これが我が子か。親バカの炸裂具合は、マイクには絶対に言いたくないほどだ。いや、既に写真など見せてしまって、自慢したい心を隠せていない。
「あ」
「ん?」
 ちゃぷんと二人で肩まで入る、湯船の中。タオルで風船を作って、ぶくぶくと沈めて遊んでいると、彼女は何か思いついたようにぱっと目を見開いた。
 まん丸の大きな目が、はっきりと、油断しきった俺の顔を写し込んでいる。
「おふろもっていくの」
 ふむ。出た。幼い子供の暗号のような会話。主語もなにもあったもんじゃない。
「どこに?」
「おふろを!」
「お風呂を、どこに持っていく?」
「しゅばなに」
「しゅばな?」
 そう、と言うが分からない。
 お風呂を、恐らく砂場、に? 湯船で大量の砂でも運ぼうというのか?
 とんちきなまま、風呂を上がり、着替えて、牛乳を飲み、夕食の席。
「あぁ、砂場にね、お風呂ね。とっても素敵ね」
 妻はその話を、一瞬で理解して微笑んだ。

 後日、休日の昼下がり。
 砂場は公園中の子供たちの注目を浴びていた。何人もの小さな手が、水を運び、砂を固め、山を大きく育ててゆく。
 不可能などと決めたのは俺の間違いだった。
 濡らした砂は確かに、低くて高い娘の背と並び、堂々と山になっていた。
「でちたっ」
「ね」
 ふたつの顔が振り向いて、そっくりに得意げに微笑む。
「天才だな」
 不可能を可能に。さらに、大きく。
 なんて幸せな、プルスウルトラ。

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