トリップとリップ
「はぁ?!?! なっななななに?! なに?!」
マンションに響き渡る声量に、相澤はぎゅっと顔を顰めた。
ナマエは、漫画で見た通りの推しが突然三次元の自室に現れて混乱し、相澤の頭から爪先まで視線で何往復もさせて現実を確認する。
「すまない、ここはどこだ?」
相澤も相澤で、背後のドア、目の前の床に敷かれた布団、それから、ナマエが今使っているパソコンへと部屋中にぐるりと視線を巡らせた。危険は無さそう、だけれども戸惑う。次のヒーロー情報学の授業のため、A組の教室へ向かって雄英の廊下を歩いていたはずだったのに、なぜ見知らぬ場所にいるのかと。
あ、とか、う、とか口をぱくぱくさせていたナマエは、リアルな相澤の姿に卒倒しそうになるのをギリギリ堪えて、ペンタブのペンを壊れそうなほど握って震えた声を絞り出した。
「こっ、こっ、ココッ、私の部屋ですけど」
「そうか。突然邪魔して悪い。十中八九個性事故だな」
面倒な事態になった、と相澤はため息を吐いて、口元を手で覆った。一般市民からすれば立派な不法侵入であり、不可抗力とはいえ彼女には被害届を出す権利がある。それを説明して、連絡先を教えて、さっさと出口へ案内してもらおうと頭の中で算段を練る。
斜め下へ落ちた真剣な眼差しと、素早い状況判断、冷静な振る舞いに、ガチ相澤じゃんってなったナマエの脳はショート寸前。
「夢……?」
「そうだといいが、現実だろうな」
逃避を始め空虚を見るのも許さず、相澤はスッパリと言い放つ。
しかし相澤消太とはナマエの生きる世界では漫画の登場人物で、こうして目の前にいて会話するなんてありえるはずがない。
いや、だから個性事故なのか。本人が現実と言ってるのだから現実なのかもしれない。六時間も寝たのに幻覚なんておかしい。
ナマエの頭の中はぐるぐるして、そして一つの結論に辿り着く。
「ま、って、まって、とりま、ツラが良すぎてムリ。心臓が痛い」
「何かの病気か?」
「いえいえいえあの病気じゃなくて! ある意味病気だけど! だって、え、マジで現実でも夢でも役得すぎて無理! ちょ、ビックリしすぎて吹っ飛んでたけど待って、部屋に相澤消太いるのナニコレ?!」
「……どうして俺の名前を知っている」
キッと警戒を表情に出して、相澤はナマエの挙動不審さや周辺を注意深く観察した。
ナマエは、ひぇーん、と奇天烈な悲鳴をあげて持っていたペンを手からカランと落として、あうあう狼狽えている。
相澤の鋭い視線が、ナマエの座るパソコンデスクに飾られたフィギュアを注視し、彼は驚いて固まった。だって、生徒もヴィランも、相澤自身のフィギュアも並んでいたのだから。
「なんだこの、俺の、フィギュア?」
「ファーーーッ見ないで!」
「いや、何なんだここ……」
「ごっめんなさい、とりあえず、後ろ向いてもらっていいですか! 過呼吸なって死ぬ!」
訝しげにフィギュアを見つめていた相澤は、あまりにゼェハァしているナマエの勢いに押されて、あぁ、とドアの方を向いた。この状況で死なれては困る。
敵意を感じないからトラップも無いと想定し、ドアから普通に出られるのでは、とノブに手をかけたが、ピクリとも動かない。この部屋のドアはこれ一つなのに、困った。
ナマエは両手で顔を覆って、未だにバクバクうるさい心臓をなんとか落ち着けようと、ひっひっふーを繰り返した。
「え、え、無理、無理なんだけど……」
マジ現実ここにいんの? 幻覚? と恐る恐る指の隙間から覗いた相澤の後ろ姿。重心の置き方ガチ好きすぎて後ろ姿ですらかっこいいって何……と思いながらガン見していると、真っ黒の背中に、文字が書いてあるのを発見して、ぱりちと瞬きした。
「あ
、え
?」
「そろそろ落ち着いたか?」
「ヒッ」
文字を読みたいけどパソコンに向かいすぎてピントが、とまじまじ目を細めていたら、突如聞こえた相澤の声に、ナマエはビクッと体を揺らして顔を顰めた。
「はひ、ふぇ、あの! 軽率に喋らないでもらっていいですか……!」
どエロいバリトンボイスが何の前触れもなしに耳に飛び込んでくることに耐えられず、今度は顔じゃなくて耳を塞いで、かといって直視も出来なくて目を閉じる。いや、勿体無いのでつま先くらい見れるように開ける。
「理由が不明すぎるんだが」
「理由なんて! はぁぁ! 存在がっ!」
できるだけ穏便にと思っていた相澤も、話が進展しなさすぎて、そして帰る方法もわからずじまいでうんざりしはじめていた。
耳を塞いだナマエは、明瞭になった視界にその黒い背中をとらえてハッとする。そうだ、文字。どエロボイスでうっかり飛びかけていた。
「あっ、そうだ、あの、き、き、キスしないと帰れないって書いてるんですけど」
「は?」
「背中に……あ゛ぁぁぁ脱がない! ダメ! 絶対! いやいいけど! むしろ見せてくれてありがとうございますなんだけどね?! 心の準備がっ!」
背中に文字があると言われて確認しないわけにもいかない。相澤はツナギのファスナーを下ろして、袖を抜いて背中を確認し、ぎゃふぎゃふ言ってるナマエを横目に、しっかりと首元まで閉め直した。得体の知れないゾワリとした嫌悪感で顔が引き攣る。
「……わかった。大かた把握した。ドアが開かなかったのはそのせいだな」
「開かないの!?」
驚くナマエと、大きなため息を隠せない相澤は、お互いに目を合わせることなく微妙に視線をずらしながら向かい合った。
「びくともしなかった」
「ひえ
出られない部屋的なアレ? えっ、創作っ、いや相澤自体が、えっ、夢と現実わからなくなってきた……え、電波無いんだけど!」
ナマエはスマホを見て悲鳴を上げた。これでは助けも呼べない。
「一応聞くが、そこの窓は?」
相澤は悪いと思いながら、布団を踏まないように窓へ近づく。当然、ナマエとの距離も縮まってしまう。
「はぁ?! 距離まっ、まってまって! 鉄柵ついてて無理だから! 確かめなくても無理だから!」
ムリムリ言いつつ止めることなく、むしろ立ち上がって、距離を取ろうとドア側へ移動する。
「それ以前にやっぱり開きもしないな」
ガタガタと窓を確認するけれど、鍵も動かない。すっかり場所を入れ替えた二人は、お互い全く別の理由で眉根を寄せた。
「開いたらそっから出る気だったの? 目撃されたら完全にヤバいやつじゃん、不審者だからまじやめて? けど捕縛布使ってるところは見たい」
ナマエの早口の戯言を、相澤は右から左へ華麗に聞き流す。けれど、その通り道の脳は頭痛を起こしはじめていた。とにもかくにも、時間は有限。可能性の高いものから試すべきだ。
相澤は、窓に向かって深呼吸を一つ。背中に聞こえる荒い呼吸には不安しかないが、誠心誠意頼む他ないと覚悟を決めて、ナマエを怖がらせないようにゆったりと振り返った。
「……悪いが、今はこれを信じるしかなさそうだ。協力してくれないか」
見返り美人かよ、と思いながらその様に目を奪われていたナマエは、相澤の言葉が飲み込めない。
「つっ、つまり?」
三白眼は気まずさと不本意さと悔しさと羞恥と背に腹はかえられなさをないまぜにして鋭くナマエを射抜く。
「つまり、キ……キスさせてもらってもいいだろうか」
「ぐはっ」
膝から崩れ落ちたナマエに、手を触れて良いものか迷いながら一歩近づく。
「こんなおっさん相手で嫌な気持ちはわかるが、蚊に刺されたとでも思って、我慢してくれ」
「よ、寄らないで! ってか何で蚊!? 普通犬に噛まれたじゃない!?」
「犬だと大怪我だろ」
「甘噛みとかでいいじゃん! ご自分をどんな大型犬だとお思いで!?」
「そんなに嫌か」
「アナフィラキシー起こすくらいには!」
「俺で?」
「いや好きなんです! うわぁ! 本人に! なんてこった!」
「初対面だろうが」
「いや漫画の、あの、こっちだと漫画の中の人なんです」
「は?」
「ひーーん怖い顔かっこよすぎる! もうわけがわからない!」
「こっちのセリフだ。時間は有限、おまえもこれ以上わけがわからない事に時間を奪われたくないだろ」
埒が開かない、と距離をつめる。ここまでくると、どうやら相澤は嫌われているわけではなく、むしろかなり好かれていてこの反応なのだと理解していた。理由はどうあれ彼女は俺のことを知っていて、好きらしい、と。それを完全に自覚して強気に攻め寄る。
床に座り込んだままのナマエは、ドタバタと後退りして逃げてみるけれど、背中はすぐに壁について阻まれる。
「まっっ!! 来ないで!」
逃げ道は無く、相澤がナマエの目の前で膝をついた。目線が近くなり、黒曜石の瞳に(半ば意図的に)縋るように見つめられて、ナマエの心臓は爆発寸前。
「頼む、一瞬だ」
ナマエは息を止めて、ブンブン顔と手を振りながら拒絶するけれど、その手はぱしっとキャッチされてしまった。
「さわ、さ、さわってるぅぅ!!」
「そうだな」
顔を隠すこともできないけど目を閉じたらキス待ちみたいになるじゃん、と行動すら選べず、目に涙を浮かべてあわあわと小刻みに首を振る。
「まっじで! まって! キャパオーバーだから!」
パニックだし顔は熱いし、掴まれた手首が相澤の体温と皮膚の感触を感じ取って、あまりの事態に嬉しいけど無理すぎて吐き気がする。にやけたいのか泣きたいのか怒りたいのか、表情筋もバグり散らかしてる。
「なにが?」
「は? わかんないの!? 顔が! ……ある!」
「あるが……」
「いやもう無理、マジで無理、尊い超えてるいい匂いする声やばい」
へにょへにょ力を失ってか細い鳴き声で、過激に好きを表現されて、相澤はむず痒さを感じると同時に面白くなってくる。
赤面して泣きそうなナマエが「三次元すぎる!」と叫んだところで、相澤はついに吹き出した。
「ふっ……おもしろいやつだな」
「ぴっ!![](//img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
![](//img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
っ!」
笑った――!
フリーズしたナマエの頬を、さっと相澤の手が捉える。真っ白な頭で完全に虚を突かれ、ナマエはされるがまま顎をあげた。無精髭の口元がナマエに迫る。相澤はそっとまつ毛を伏せて、息を止めた。
かっさらう、というのが相応しいほどに鮮やかに奪われた唇。
ナマエは目を丸くして、呼吸も忘れて、叫び声すら声にならない。
「強引で申し訳ないが、生徒が待ってるんで」
相澤は困ったように眉尻を下げ、柔らかく微笑んだ。
そして――まるで夢のように、一度の瞬きの間に、相澤は目の前から消えてしまった。
掴まれていたはずの手は、いまだその場で固まったまま動かせない。ナマエの止まったみたいだった心臓がバクバク暴れ出す。
「そっ、そっ、そういうところだぞ相澤消太ー!」
ナマエは混乱したまま、ネットに繋がったスマホでツイッターを開く。相澤が部屋に来た! と叫ぶが、TLは『ナマエついに過労で幻覚見はじめた』『寝なさい』『病院いこ…?』と流れるだけ、誰一人として信じてくれませんでしたとさ。ちゃんちゃん。
マンションに響き渡る声量に、相澤はぎゅっと顔を顰めた。
ナマエは、漫画で見た通りの推しが突然三次元の自室に現れて混乱し、相澤の頭から爪先まで視線で何往復もさせて現実を確認する。
「すまない、ここはどこだ?」
相澤も相澤で、背後のドア、目の前の床に敷かれた布団、それから、ナマエが今使っているパソコンへと部屋中にぐるりと視線を巡らせた。危険は無さそう、だけれども戸惑う。次のヒーロー情報学の授業のため、A組の教室へ向かって雄英の廊下を歩いていたはずだったのに、なぜ見知らぬ場所にいるのかと。
あ、とか、う、とか口をぱくぱくさせていたナマエは、リアルな相澤の姿に卒倒しそうになるのをギリギリ堪えて、ペンタブのペンを壊れそうなほど握って震えた声を絞り出した。
「こっ、こっ、ココッ、私の部屋ですけど」
「そうか。突然邪魔して悪い。十中八九個性事故だな」
面倒な事態になった、と相澤はため息を吐いて、口元を手で覆った。一般市民からすれば立派な不法侵入であり、不可抗力とはいえ彼女には被害届を出す権利がある。それを説明して、連絡先を教えて、さっさと出口へ案内してもらおうと頭の中で算段を練る。
斜め下へ落ちた真剣な眼差しと、素早い状況判断、冷静な振る舞いに、ガチ相澤じゃんってなったナマエの脳はショート寸前。
「夢……?」
「そうだといいが、現実だろうな」
逃避を始め空虚を見るのも許さず、相澤はスッパリと言い放つ。
しかし相澤消太とはナマエの生きる世界では漫画の登場人物で、こうして目の前にいて会話するなんてありえるはずがない。
いや、だから個性事故なのか。本人が現実と言ってるのだから現実なのかもしれない。六時間も寝たのに幻覚なんておかしい。
ナマエの頭の中はぐるぐるして、そして一つの結論に辿り着く。
「ま、って、まって、とりま、ツラが良すぎてムリ。心臓が痛い」
「何かの病気か?」
「いえいえいえあの病気じゃなくて! ある意味病気だけど! だって、え、マジで現実でも夢でも役得すぎて無理! ちょ、ビックリしすぎて吹っ飛んでたけど待って、部屋に相澤消太いるのナニコレ?!」
「……どうして俺の名前を知っている」
キッと警戒を表情に出して、相澤はナマエの挙動不審さや周辺を注意深く観察した。
ナマエは、ひぇーん、と奇天烈な悲鳴をあげて持っていたペンを手からカランと落として、あうあう狼狽えている。
相澤の鋭い視線が、ナマエの座るパソコンデスクに飾られたフィギュアを注視し、彼は驚いて固まった。だって、生徒もヴィランも、相澤自身のフィギュアも並んでいたのだから。
「なんだこの、俺の、フィギュア?」
「ファーーーッ見ないで!」
「いや、何なんだここ……」
「ごっめんなさい、とりあえず、後ろ向いてもらっていいですか! 過呼吸なって死ぬ!」
訝しげにフィギュアを見つめていた相澤は、あまりにゼェハァしているナマエの勢いに押されて、あぁ、とドアの方を向いた。この状況で死なれては困る。
敵意を感じないからトラップも無いと想定し、ドアから普通に出られるのでは、とノブに手をかけたが、ピクリとも動かない。この部屋のドアはこれ一つなのに、困った。
ナマエは両手で顔を覆って、未だにバクバクうるさい心臓をなんとか落ち着けようと、ひっひっふーを繰り返した。
「え、え、無理、無理なんだけど……」
マジ現実ここにいんの? 幻覚? と恐る恐る指の隙間から覗いた相澤の後ろ姿。重心の置き方ガチ好きすぎて後ろ姿ですらかっこいいって何……と思いながらガン見していると、真っ黒の背中に、文字が書いてあるのを発見して、ぱりちと瞬きした。
「あ
![](http://img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
![](http://img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
「そろそろ落ち着いたか?」
「ヒッ」
文字を読みたいけどパソコンに向かいすぎてピントが、とまじまじ目を細めていたら、突如聞こえた相澤の声に、ナマエはビクッと体を揺らして顔を顰めた。
「はひ、ふぇ、あの! 軽率に喋らないでもらっていいですか……!」
どエロいバリトンボイスが何の前触れもなしに耳に飛び込んでくることに耐えられず、今度は顔じゃなくて耳を塞いで、かといって直視も出来なくて目を閉じる。いや、勿体無いのでつま先くらい見れるように開ける。
「理由が不明すぎるんだが」
「理由なんて! はぁぁ! 存在がっ!」
できるだけ穏便にと思っていた相澤も、話が進展しなさすぎて、そして帰る方法もわからずじまいでうんざりしはじめていた。
耳を塞いだナマエは、明瞭になった視界にその黒い背中をとらえてハッとする。そうだ、文字。どエロボイスでうっかり飛びかけていた。
「あっ、そうだ、あの、き、き、キスしないと帰れないって書いてるんですけど」
「は?」
「背中に……あ゛ぁぁぁ脱がない! ダメ! 絶対! いやいいけど! むしろ見せてくれてありがとうございますなんだけどね?! 心の準備がっ!」
背中に文字があると言われて確認しないわけにもいかない。相澤はツナギのファスナーを下ろして、袖を抜いて背中を確認し、ぎゃふぎゃふ言ってるナマエを横目に、しっかりと首元まで閉め直した。得体の知れないゾワリとした嫌悪感で顔が引き攣る。
「……わかった。大かた把握した。ドアが開かなかったのはそのせいだな」
「開かないの!?」
驚くナマエと、大きなため息を隠せない相澤は、お互いに目を合わせることなく微妙に視線をずらしながら向かい合った。
「びくともしなかった」
「ひえ
![](http://img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
ナマエはスマホを見て悲鳴を上げた。これでは助けも呼べない。
「一応聞くが、そこの窓は?」
相澤は悪いと思いながら、布団を踏まないように窓へ近づく。当然、ナマエとの距離も縮まってしまう。
「はぁ?! 距離まっ、まってまって! 鉄柵ついてて無理だから! 確かめなくても無理だから!」
ムリムリ言いつつ止めることなく、むしろ立ち上がって、距離を取ろうとドア側へ移動する。
「それ以前にやっぱり開きもしないな」
ガタガタと窓を確認するけれど、鍵も動かない。すっかり場所を入れ替えた二人は、お互い全く別の理由で眉根を寄せた。
「開いたらそっから出る気だったの? 目撃されたら完全にヤバいやつじゃん、不審者だからまじやめて? けど捕縛布使ってるところは見たい」
ナマエの早口の戯言を、相澤は右から左へ華麗に聞き流す。けれど、その通り道の脳は頭痛を起こしはじめていた。とにもかくにも、時間は有限。可能性の高いものから試すべきだ。
相澤は、窓に向かって深呼吸を一つ。背中に聞こえる荒い呼吸には不安しかないが、誠心誠意頼む他ないと覚悟を決めて、ナマエを怖がらせないようにゆったりと振り返った。
「……悪いが、今はこれを信じるしかなさそうだ。協力してくれないか」
見返り美人かよ、と思いながらその様に目を奪われていたナマエは、相澤の言葉が飲み込めない。
「つっ、つまり?」
三白眼は気まずさと不本意さと悔しさと羞恥と背に腹はかえられなさをないまぜにして鋭くナマエを射抜く。
「つまり、キ……キスさせてもらってもいいだろうか」
「ぐはっ」
膝から崩れ落ちたナマエに、手を触れて良いものか迷いながら一歩近づく。
「こんなおっさん相手で嫌な気持ちはわかるが、蚊に刺されたとでも思って、我慢してくれ」
「よ、寄らないで! ってか何で蚊!? 普通犬に噛まれたじゃない!?」
「犬だと大怪我だろ」
「甘噛みとかでいいじゃん! ご自分をどんな大型犬だとお思いで!?」
「そんなに嫌か」
「アナフィラキシー起こすくらいには!」
「俺で?」
「いや好きなんです! うわぁ! 本人に! なんてこった!」
「初対面だろうが」
「いや漫画の、あの、こっちだと漫画の中の人なんです」
「は?」
「ひーーん怖い顔かっこよすぎる! もうわけがわからない!」
「こっちのセリフだ。時間は有限、おまえもこれ以上わけがわからない事に時間を奪われたくないだろ」
埒が開かない、と距離をつめる。ここまでくると、どうやら相澤は嫌われているわけではなく、むしろかなり好かれていてこの反応なのだと理解していた。理由はどうあれ彼女は俺のことを知っていて、好きらしい、と。それを完全に自覚して強気に攻め寄る。
床に座り込んだままのナマエは、ドタバタと後退りして逃げてみるけれど、背中はすぐに壁について阻まれる。
「まっっ!! 来ないで!」
逃げ道は無く、相澤がナマエの目の前で膝をついた。目線が近くなり、黒曜石の瞳に(半ば意図的に)縋るように見つめられて、ナマエの心臓は爆発寸前。
「頼む、一瞬だ」
ナマエは息を止めて、ブンブン顔と手を振りながら拒絶するけれど、その手はぱしっとキャッチされてしまった。
「さわ、さ、さわってるぅぅ!!」
「そうだな」
顔を隠すこともできないけど目を閉じたらキス待ちみたいになるじゃん、と行動すら選べず、目に涙を浮かべてあわあわと小刻みに首を振る。
「まっじで! まって! キャパオーバーだから!」
パニックだし顔は熱いし、掴まれた手首が相澤の体温と皮膚の感触を感じ取って、あまりの事態に嬉しいけど無理すぎて吐き気がする。にやけたいのか泣きたいのか怒りたいのか、表情筋もバグり散らかしてる。
「なにが?」
「は? わかんないの!? 顔が! ……ある!」
「あるが……」
「いやもう無理、マジで無理、尊い超えてるいい匂いする声やばい」
へにょへにょ力を失ってか細い鳴き声で、過激に好きを表現されて、相澤はむず痒さを感じると同時に面白くなってくる。
赤面して泣きそうなナマエが「三次元すぎる!」と叫んだところで、相澤はついに吹き出した。
「ふっ……おもしろいやつだな」
「ぴっ!
![](http://img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
![](http://img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
![](http://img.mobilerz.net/img/i/12316.gif)
笑った――!
フリーズしたナマエの頬を、さっと相澤の手が捉える。真っ白な頭で完全に虚を突かれ、ナマエはされるがまま顎をあげた。無精髭の口元がナマエに迫る。相澤はそっとまつ毛を伏せて、息を止めた。
かっさらう、というのが相応しいほどに鮮やかに奪われた唇。
ナマエは目を丸くして、呼吸も忘れて、叫び声すら声にならない。
「強引で申し訳ないが、生徒が待ってるんで」
相澤は困ったように眉尻を下げ、柔らかく微笑んだ。
そして――まるで夢のように、一度の瞬きの間に、相澤は目の前から消えてしまった。
掴まれていたはずの手は、いまだその場で固まったまま動かせない。ナマエの止まったみたいだった心臓がバクバク暴れ出す。
「そっ、そっ、そういうところだぞ相澤消太ー!」
ナマエは混乱したまま、ネットに繋がったスマホでツイッターを開く。相澤が部屋に来た! と叫ぶが、TLは『ナマエついに過労で幻覚見はじめた』『寝なさい』『病院いこ…?』と流れるだけ、誰一人として信じてくれませんでしたとさ。ちゃんちゃん。
-BACK-