さくら


「先生、春休みですね」
「そうだね」
 プリントの回答欄はまだ半分ほど空白。けれど想定より順調すぎる進捗に、私は我慢できず沈黙を破った。
 爽やかさがカンストしたような教室で、私は机を向かい合わせて相澤先生と二人きり。
 柔らかな日差しが先生の片側を明るく照らして、黒髪黒服は熱を吸収してふわふわ度を増していそう。無精髭も無造作ヘアも服装も、春とマッチしそうな要素は感じられないのに、なんだか先生にはピンクの景色がとても似合う気がした。
「こんな桜が満開のうららかな休日に、どうして私は教室にいるんでしょう……」
「それはおまえがいつまでも課題を提出しないからだろ」
 先生は何かの資料に目を向けたまま、太い指の上でくるりとペンを回した。吸い寄せられるように元通り手に収まるそれは、くるり、すちゃ、くるり、すちゃ、リズムよく繰り返される。その指の先、四角い爪はいつ見ても完璧に綺麗に短く揃えられていて、髪や髭がこんなだけど几帳面な人だと滲み出ていて愛おしい。
 こんなに胸がときめくのに、私たちには先生と生徒という超えられない壁がある。なんて、調子に乗ったモノローグをつけてみるけども、壁なんかなくても先生は私に生徒以上の感情を抱きはしない。辛く切なく、けれど潔癖なそこが、好きなわけで。
「はぁ……世知辛い世の中です」
「ただの怠慢。自己責任だ」
 私も手に持っていたシャーペンを弾いて、先生の真似をして回してみる。けど、コロンと手からこぼれてしまった。先生はノーリアクション。せめて笑ってくれたらいいのにと思いながら、唇を尖らせていそいそとペンを持ち直す。
「先生ぇ、乙女には時として仕方ない事情があるものなんですよ。それなのに有無を言わさず責めるなんて、デリカシーがないです」
「と言いながら、おまえのはわざとだろ」
「バレてましたか?」
 この課題は成績とは関係無いと分かっていた。成績に響くなら出したけど、そうじゃないんだもの。少しだけ悪い子になるにはおあつらえ向きで、つい存在を机の奥に封印してしまったのだ。ちなみに、第一問目をうっかりさらりと解いてしまったから、先生は私の勉強を見るのをやめて自分の仕事を始めてしまった。私痛恨のミス。
「せめてとぼけ通してくれよ」
 余計な時間をとらせやがってと語る目が、ようやく私へ向いた。ちょっと鋭いその視線とダウナーボイス。そんなのにビビって言葉を失う時期は乗り越えたので、私はへらへらした顔のまま。
「わぁ、私、しかられちゃいます?」
 ワクワクと机に両肘ついて身を乗り出すと、ほら、先生の怒る気は風に巻かれて失せるのだ。
「おまえほど強引な生徒ははじめてだよ」
「先生といられる時間は有限ですからネ」
 後一年。けれどその一年いっぱいを先生と過ごせるわけじゃなく。現場での実践が多くなれば、今までより会える日は減る。それに人命に関わるプロヒーローになるために、これからより厳しく現実と向き合う必要がある。だから先生、二年生と三年生の狭間のこの春は甘えさせてください。
 先生の常套句を利用した私に、先生はまた書類に視線を落として、くるりと一度ペンを回した。
「ハァ……教えなくてもすぐ終わらせられるんだろ。ここにいるから、さっさと仕上げろ」
「わかっててこうしてマンツーマンしてくれるんだから、先生って――」
 残酷な人です。
 頭でそう思いながら、おちゃらけて『実は私のこと大好きでしょ』と続けるつもりだった。
「優しさじゃないさ」
 被せるように言い渡された思わぬ否定に、私の唇はバグる。
「残酷と言おうとしたんですよ」
 あ、間違えた。好き好きと言うのはいつもの事だけど、どこか軽さを持たせるのが私の中のルールなのに。親切を残酷だなんて、重い言い方、だめでしょう私。
 焦る刹那。先生は靡かず。
「なら良い」
 と覇気のないで、のんびり瞬きを一つ。
 なら良い。良いとは。優しいは良くなくて、残酷は良い。その心は?
「……どういう意味ですか?」
「さぁね。ほら、まだお勉強の時間だろ」
 はぐらかされた。
 先生は新たに分厚いファイルを開き、まつ毛を下げて視線で文字をなぞりはじめた。話しかけるな集中しろの態度に、私もプリントを解き進める。
 シャープペンシルがするすると文字を紡ぐ。時々ぺらりと紙の捲れる音。時計の秒針と、ふたりぶんの呼吸。
 さぁっと教室の空気を入れ替える風が、青く甘い香りを連れてくる。
 尊い時間を噛み締めながら手を止めずに課題に取り組むと、なんて早く終わってしまうんだろう。もっともっと難解で、先生に助けを頼まなきゃできないやつなら良かったのに。もうあと少しで終わってしまうのが寂しくて、まるで悩んでるふりをして手を止める。
「……桜みたいだな」
「え?」
 ぽつりと溢れた呟きに、ぱっと顔を上げる。いつからか、先生は開いていたファイルを閉じて、私の手元へその視線を注いでいたらしい。
「おまえの爪を見ると桜を思い出す」
 綺麗な形してるよな、なんて、先生。
 また私に忘れられない思い出をくれるんですか。
 そんな事をさらりと言えるのは経験の差ですか。掻き乱してる自覚おありですか。大人ってずるい。
 頬が赤くなりそうなのを誤魔化すみたいに笑って、できるだけ朗らかな声を喉に作る。
「私から他を連想するなんて、嬉しくないですよ先生。桜を見たら、私を思い出すようにしてください」
 驚くようにひょいと上がった平行の眉が、蕩けるようにゆるりと降りてゆく。三白眼は呆れてるくせに口元は微笑んだ器用な表情で、先生はふっと鼻から息を吐いた。
「おまえには敵わないね――嫌でも思い出しそうだ」
 外から吹き込む春に優しく低く混ざる声。
 靡いた黒髪が先生の顔半分を曖昧にして、それを嫌うように先生は風の方へ顔を向けた。
 正面から吹かれてさらりと剥き出したおでこと鼻筋。綺麗で、心臓がきゅうっとなる。この香りを、温度を、光を、目に映る景色の全てを、忘れたくない。
 春を浴びる横顔は、悪戯な流し目で私を弄ぶ。
「五分たったら俺は行くよ。誰が別のやつに見てもらえ」
「えっ?! うそ、急ぎますっ」
 現実と夢が交互に頭の中で騒がしい。簡単な最後の一問に、たっぷり五分かけてやる。
 そして、明日は桜のバレッタをつけて、桜のクッキーを先生に持って行こう。
 来春卒業しても、その後別のクラスを持っても、桜が咲けばきっと私を思い出して。

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