いってらっしゃいのキスがなかった日の話

 ふと、仕事の最中に窓を見やる。
 晴れ渡る澄んだ青は冬らしく遠い。穴を開ける方向を間違えた書類を持って、私は、ついに今日一日分のため息を吐いた。
 穴を開ける場所が違ったのは、印刷し直せばいい話。そうなんだけど。
 さっき取引先に2回目の電話をしたのに、また担当者不在だった事。昼になってから今日中の案件にミスが見つかった事。コンビニで食べたかったパンが売り切れだった事。午前中、集中できなくて何度もタイプミスをした事。出社直後から後輩に質問されて通算5回目の同じ説明をした事。信号がことごとく赤だった事。電車で隣に立ってたおじさんが臭かった事。お化粧をする時、頬に吹き出物を見つけた事。
 どうでもいい、普段なら何でもないことすら、ひとつひとつが私の気分を沈ませた。
 その全ての原因は消太だ。
 朝、まだベッドに潜っていた私の頭を撫でて、微睡の中で「いってきます」を聞いた。それが夢じゃないって気付いたのはアラームが鳴ってからだ。
 消太はベッドにもいなくて、リビングにもいなくて、靴も無かった。
 今日早く出る日だったんだ。知ってたらな。知ってたら――。
 同棲を始めてから、生活に消太が溶け込みすぎている。毎日のルーティンの中に消太がいる。それは幸せで、幸せで、だけど私のリズムを乱す。
 いってらっしゃいのキスが無かっただけで、どうしてこんなに気分がもったりと粘度を増して重たくなるんだろう。
 もし、今日、消太が帰って来なかったら、私は今朝しなかった"いってらっしゃい"とキスのことを一生後悔するんだろうなって、そんな想像ばかりが頭の中にふっと形作っては、煙のように消えて、だけど臭いだけはずっと纏わりついている。
 考えちゃだめ。考えちゃダメ。
 今日はいつもと同じ、普通の一日。
 トラブルもミスも、仕事のことは消太には関係ない。
 私はなんとか今日の仕事を終わらせるだろう。残業だって、2時間もしないで終わらせられる。
 ミスした書類は自分用にしてしまおう。両側に穴があるからってなんだっていうの。大丈夫。さっさと全部終わらせよう。
 そして、消太のところに帰ろう。


「ただいま」
 ぐったりと、だけど足取り軽く帰宅すると、部屋はどこもかしこも真っ暗で、消太は居なかった。
 今日、遅くなる日だったかな。何か予定言ってたっけ。壁にかかるカレンダーには、何も書き込まれて居ない。
 とりあえず、帰ってくるだろうから夕食を準備しよう。
 生姜焼きにするって決めて材料も買ってきた。玉ねぎをすりおろして、涙が出るのは当然の事なので、何も言い訳する必要は無い。
 鼻を啜りながら、合わせ調味料に生姜をたっぷり混ぜたて、おろし玉ねぎもたっぷり入れた。生姜焼きは出来立てを食べたいから、先に他をやってしまおう。お味噌汁用の小鍋を沸かしつつ、その間にキャベツを千切りにする。
 お鍋には、最近ハマっているあご出汁のパックをぽんと放り込んで、くつくつさせて、豆腐、わかめ、長ネギをてきとうに入れて、味噌を溶く。ふわんと香る、日本人の故郷の匂い。私のちょっと赤くなってるかもしれない目を、優しい湯気が慰めてくれる。
 ちょっと重たいフライパンを棚から取り出して、火にかけて米油を垂らす。
 熱されるにつれて、自然と広がっていく油が生き物みたいで面白い。
 小麦粉をバットに入れて、豚ロース肉のパックを開ける。薄切りを丁寧に広げて、粉をはたいて、そっとフライパンに乗せる。じゅわじゅわと音をたてて縮んでゆく。次々と隙間なく並べて、ひっくり返して、ちょうどいい焼き色ににんまりする。
 スライス玉ねぎと、漬け込みだれもまとめてフライパンに入れて、後は少し待てば完成。
 お皿を2つ用意して、千切りキャベツを盛り付けて、あぁ、ご飯。冷凍してたご飯は電子レンジによろしく頼んで、フライパンの火を止めた。
 盛り付けをしてしまう? 待ってようか。
 スマホを見るけれどメッセージはきていない。
 今日は一緒にご飯が食べたい。
 一緒に、生活をしたい。
 徐に耳に飛び込んできた金属音が、ほうら愛しい人が帰ってきたよと軽やかに伝えてくれた。
「ただいま」
 次いで聞こえる低い声。疲れてそうな声。
 私の足は考えるより早く消太のところに向かう。
「おかえりなさい」
 消太は眉を上げて、もう一度ただいまをくれた。
「生姜焼きだな」
「あたり」
 横に並んで歩くには狭い廊下を抜けて、キッチンに入る。美味しそう、と言って手を洗いに行く消太。フライパンのお肉は、早く盛り付けてとキラキラした目で私に訴えている。
「ナマエ」
「なぁに」
「これ」
 消太はビニール袋を持っていて、そこからいそいそと取り出したのは、たまご専門店のリッチな黄色い――
「プリン!」
「デザートな」
 冷蔵庫にそれを仕舞って、キッチンの中で、消太は優しく目を細めて私を抱きしめた。長い髪が顔をくすぐるから、食べちゃわないように少しそれを避けて顔をすり寄せる。
「今日、仕事でイライラした」
 そう言ったのは私ではない。
「何故か考えたら、朝、忘れてた」
「……いってらっしゃいのちゅー?」
「うん」
 背中に回っていた手が、するすると私頬まで上がってくる。少し離れた体と、私を見つめる優しい目。
 おんなじ事を考えてた。
 私が感じてたのと同じくらい、消太にとっても私は生活習慣なんだ。
 私の事を思い出して、プリンを買ってきたんだと思うと、もう、消太を通り越して、卵を産んだにわとりもクリームに必要な牛までも全部全部にアガペーを感じる。
「ただいまは、何回ならしていい?」
 にやりと釣り上がったその唇に、飛びつくようにキスをした。

 食卓に並ぶ、簡単な夕食。昨日の残り物のポテトサラダもあるんだから完璧だと思う。
 今日これ以降の挨拶は、一つ残らず2人でしよう。
 いただきますも
 ごちそうさまも
 おやすみなさいも
 もちろんぜんぶにキスもつけてね。

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