その王子役は譲れない

 扉を開いた途端、心地よい涼しさが疲れた無精髭を撫でていった。
 のどかで薄暗い室内に無意識の忍び足で踏み込んで、後ろ手に廊下との境を分断する。さっきまでと比べて数段静けさを増した空気は、どこか懐かしさを感じさせる温度で俺を包み込んだ。
 広い室内には、まだ真新しい匂いのするベッドが五床も設置されている。仮眠室といえば、以前はソファの置いてある密会部屋のようなものだった。しかし全寮制に移行して、昼夜問わずの激務が教員を襲い、また事務員の仕事も数倍に膨れ上がったため、少しでも効率的に隙間時間でも休息を、と新設されたのがこの部屋。疲弊した職員をプルスウルトラさせるための設備だと思うと、なんともブラックな計らいだ。人員増強を優先してほしい気もするが、内外どこに敵が潜んでいるかわからない状況ではおいそれと人を増やすわけにもいかないのだ。
 時世として仕方のないことに文句があるはずもない。提供されたものはありがたく有効活用させてもらう。ともかく、ノリの効いたシーツに横たわり、寝袋より幾許か合理的な仮眠を貪りにこの部屋を訪れた。
 ここ数日、まともな睡眠が取れていない。このままでは、後に控えている会議を寝て過ごすことになるだろう。普段より瞼が広くなって、もう目が先に寝る準備を始めてしまっている。
 五床のベッドそれぞれを仕切るカーテンは、左奥窓際の一箇所以外は開け放たれている。その閉じた一箇所だけが、やたらと輝いて幻想を纏っているように見えた。
 真っ白いヴェールが、西に傾きはじめた陽を拡散しながらそよそよと揺れ、光の波が足元で俺を誘う。肺いっぱいに吸い込んだ空気は、青々として生命力に溢れながら清涼。
 利用者のいるベッドの部分だけ、ブラインドが上がって窓も開いているらしい。眩しくて寝辛い気もするが、日向ぼっこが気持ちいいのだから、日光を浴びながら眠りたい者もいるのだろう。
 それに、校庭からは遠く学生たちの声が聞こえる。寮に入ったばかりで学友と過ごす時間が増えて、自主練にも力が入っているらしい。時折歓声のように盛り上がり、けれど言葉としてはっきりと捉えられないその音は、なるほど眠るのにちょうどいい環境音となっている。
 遠くても分かる若く活気あるその声は、記憶の奥底から響いているみたいだ。輪郭のない青春が蘇ってくるような不思議な気分になった。
 先客と足を向け合う位置のベッドへ、足音を最小限に近付く。この部屋に入ってから自覚したが、相当に疲れが溜まっているらしい。ノスタルジーと疲労がぐちゃぐちゃになって、頭がぼうっとする。
 捕縛布をすっぽりと頭から抜いて、輪の形を保ったそれを枕元に置く。俺の選んだベッドに陽は射さないが、あっちから漂ってくる温和を享受してよく眠れそうな気がした。
 だから、このベッドを囲むように天井から下がったカーテンを、すっかり閉めてしまうのは勿体ない気分になった。
 手はのろのろとドアからの視界を遮るようにカーテンを引き、カーブに差し掛かり、名残惜しい気分で美しい光の波を見つめて、ふと気付く。
 下の隙間から見えた、一足のルビー色。
 見間違えるはずもない、恋情を抱く相手の足をいつも彩っているパンプス。
 途端に、聴覚に集中して彼女の呼吸を探ってしまう。
 寝ている。あの人が。白い布一枚隔てた向こうで。無防備に寝息を立てて。
 ここにいてはいけないような後ろめたさが首筋をそわそわさせたが、それ以外の大部分は幸運だと舞い上がった。
 猥雑な欲望は、疲れきった思考回路を染め上げて正常な判断を妨げる。
 窓から流れ込む校庭の声はぼんやりと遠くなり、雲にでも包まれ運ばれるようにふわふわと足は動き、気付けばそのヴェールを開いていた。
 プライバシーを守るために垂れ下がったカーテンの内側。侵すべきではない聖域に忍び込んで、息を呑む。
 強い陽射しが、白いベッドを更に白く輝かせ、麗らかな光は微風と共に彼女の頬を照らしていた。
 やってしまった。心臓が一拍一泊を強くして、なぜか胸に力を入れて抵抗する。のに、すぐに出るという選択肢はなく、足はその場に縫い付けられたように固まった。
 あまりに美しくて、釘付けになる以外どうしようもない。
 長いまつ毛の影、その一本一本を視線で辿るほど、彼女の眠りの深さが分かる。俺の存在なんて夢にも見ていないだろう。やっている事は完全に不審者なのに、穏やかな寝顔を見ていると緊張が次第に弱まっていくのを感じる。
 艶やかな唇と僅かに上下する胸を見て、無意識にリズムを合わせて息を吸ったり吐いたりしていた。
「寝て、ますか」
 恐る恐る喉から出た声は、花びらすら揺らさないほどの弱さで。校庭からの若々しい雑音にかき消され、彼女の安眠に何の影響も与えなかった。
 耳をすませば、すぅ、すぅ、と規則正しい呼吸が聞こえる。俺も眠らなければ。次の会議の前に、昨夜取り逃がした睡眠を取り戻さなければ。
 俯く頭が重くて背中が丸まる。彼女を見下ろして下がった瞼が、そのままゆっくり閉じそうになる。は、と細かく瞬きをして、チカチカと弾けるような光に目が眩んで。
 白い世界で輝く彼女は夢みたいで。
 血色のリップが瑞々しく甘そうで、どこからか熟れた果実の香りがした。
 かわいい。きれいだ。すきだ。まぶしい。吸い込まれそうなくらい。
 愛おしさと、想いの届かないもどかしさが、疲れた肩にのしかかってきて。
「――」
 唇を暖めた吐息で我に帰る。
 近すぎて彼女の顔が見えない。
 俺は何を。
 跳ね上がるように身体を起こし、トンと足音が穏やかな空気をぶち壊した。静寂を守る余裕も無くシャッとカーテンを開け、彼女のテリトリーから逃げるように飛び出した。
 くそ。なんで。なんて事。
 疲れていたとか、寝ぼけていたとかそんな言い訳では逃れられない。彼女が気付いてなくたって、セクハラを通り越して犯罪だ。
 心臓がどくんどくんと暴れて、一気に汗が吹き出した。眠気は宇宙まで吹っ飛んで、アドレナリンが暴走する。
 後退りで後ろのベッドに脚がぶつかって、動揺を体中で表したまま、俺はさっき入ってきたばかりのドアへ急ぐ。
 仮眠なんてどうでもいい。謝るべきか。寝てる間にキスしましたと? 自爆だったら? 嫌われるのは嫌だ。とはいえ、隠して好かれても、あぁ。
「ぁ、あの」
「ッ」
 足の裏から脳天に電流が走る。
 ドアに手をかけた瞬間、背後から聞こえた声は、校庭から響いてくる生徒のものではなく、室内から。控えめな声量だろうともこの声を耳が逃すはずもない。
 ごきゅ、と喉が鳴ったのに、口は乾いて息はできない。真っ白な頭には言い訳の一つも浮かばない。気付いてたのか。いや、今起きたのなら。俺の声はどこに行った。
 布擦れとベッドの軋みで、彼女が身体を起こした気配を感じ取る。恐る恐る振り返ると、白いスクリーンに映った影が、俺をゆらゆらと見つめていた。
「忘れ物ですよ。捕縛布」
 あ。
 半端にしまったカーテンの隙間からは、ベッドの上に放置された捕縛布が見えた。
 ため息が出る。情けないことに、脚から力が抜けて立っているのがやっとだ。
「いつから……」
 絞り出した声と同じくらいへろへろとした足取りで捕縛布を取りに向かう。
「秘密です」
 ほのかに笑いを含んだ返答は、小悪魔じみてて心臓に刺さる。
「ずるいですよ」
 つまりはきっと、俺がこの部屋に来た時から起きていたのだ。近づいても呼びかけても反応せず、狸寝入りの精度の高さにすっかり騙されたわけだ。
「それは、相澤さんの方ではないですか」
 そう言い返されるとぐうの音も出ない。起きてようと寝てようと、彼女の許可を得ずしたことに変わりはない。
 謝罪を腹に用意して息を吸ったのに、喉が震える前に彼女が先手を取った。
「どんな気持ちで……その……したんですか、ちゅ……あの、キス」
 どうしてちゅーからキスに言い直したんだ。捕縛布のベッドに両手をついて、垂れる項がくらくらする。
「それは、この想いが、届けばいいのに、と」
 混乱したまま口から溢れた本音。唇が彼女に染められて、素直になってしまったみたいで。
 コツ、と音がして彼女のベッドの方を見ると、あの赤い靴に足を滑り込ませるのが見えた。
 真っ白なヴェールに、午後の日差しと彼女のシルエットが。
 待ってくれ。
 もう少し、まだ、今は。
 天井から垂れた白の中に指先がちろりと覗き、端を摘んだ。咄嗟に踏み出して、その手ごとカーテンを掴む。薄い布一枚向こうで、彼女が声もなく驚いて小さく肩を跳ねさせた。
「すみません」
 繕うための思考が足りない。
 鈴のような声は機嫌が良さそうで、俺には何が大丈夫なんだかわからない「大丈夫ですよ」の後に、軽やかに続けた。
「なんだか、童話のお姫様になれたみたいです」
 俺はベッドで寝ていて、これは夢なんじゃないかと思う。
 俺の手を連れたまま、ゆっくりとカーテンが開く。

 あぁ。もう。許されなくたって、


その王子役は譲れない

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