浮気疑惑劇場



「あ、消太さん、消太さん」
 休日の昼間、映画を流しながら陽当たりのいいソファで寛ぐ贅沢な時間。消太さんは飲んでいたコーヒーのマグをテーブルに戻しながら、私を見ずに「ん?」と鼻音で返事をした。
 やや沈鬱なラブストーリーを垂れ流す液晶画面では、物語の中心になってる男女が浮気だ何だと揉め始めた。
 消太さんが好きなタイプの映画じゃないかもしれないけれど、彼は律儀に私の横で男女の恋の行方を追っている。一方、この映画を選んだくせに集中の切れた私の頭には、連想ゲームのように数日前の出来事が思い起こされていた。
「この前ね、友達と探偵ごっこをしたんです。友達の彼女が浮気してるかもしれない、ってことで」
「……へぇ」
 ぴったりと寄り添った肩が少し揺れて、消太さんの視線が私に注がれた気配がする。
 数日前、幼馴染の男の子から連絡がきた。女の方が女の気持ちがよくわかるもんだろ、頼むから助けて、と泣きつかれたら邪険にするわけにもいかず、カフェに呼び出されて相談を受けたのだ。
 彼女が買ってきたくせに使っていない物があるから誰かに貢がれているんじゃないか不安なんだ、と靴やワンピースや化粧品の写真を見せられて。仕事に行くと言っているが本当か確かめたいという要望に応え、彼女の職場であるランジェリーショップに入ったりなど。
「結局、誤解だったんです。彼女は彼に内緒でサプライズ旅行の計画を立てていて、その時の服に気合をいれて準備してたり、下見とかで色々出かけることが増えてただけ、みたいな」
「よかったな」
 そう、本当によかった。だって幼馴染は彼女に『疑ってごめん』なんて謝って、彼女だって『サプライズが成功しても、その前にこんなに不安にさせてたなら良くないよね』なんて抱きしめあってさ。二人の絆が深まる瞬間に立ち会って、私は拍手喝采だったのだ。
 それに、平和に解決したから言えることだけど、ちょっと探偵の真似事みたいで楽しかった。
「うん。でね、そこで思ったんです。消太さんって、まったく浮気の気配が無いじゃないですか」
 むくっと肩を離して、緩めの部屋着の上からじゃ想像できないくらいがっしりした太ももに手をついて、真剣な目で消太さんを見つめる。無気力そうな彼の瞳はどことなくキョトンとしながら私を見つめ返した。
「そりゃ……してないんだから当たり前だろ」
 してないのは知ってる。そう、してないでいてほしいし、しちゃダメだし。でもそうじゃなくて、つまり浮気をしてなくても何かしら、愛ゆえの些細なすれ違いくらいあるものでしょう。
「私のこと世界一愛してくれてるのは嬉しいんですよ。順風満帆なおつきあいありがとうございます」
「どういたしまして」
「でも、なんていうか、疑いのかけようもないじゃなですか」
「無駄な諍いになるのは合理的じゃない」
 うんうん、そうでしょうとも。存じ上げておりますとも。だからこそ、何か女性が絡んだ作戦になりそうな時は(詳細はもちろん伏せられているけれど)心配するなと私に事前に言ってくれる。私が変な勘違いしないように先手先手を打ってくれて感謝ですよ。
「絶対私を不安にさせない消太さんが好きです! でもでも、やってみたいんです」
「何を?」
 話が読めないと言いたげに寄った眉間のシワは、ちょっとだけ私を怯ませる。
「こう……すれ違い、誤解して、乗り越えてみたいな……この映画みたいな、そういう出来事ないものかなって」
 映画の中のカップルは残念ながら男の方がマジの浮気をしていたし、女もダメな男を許しちゃう共依存みたいになっていて理想の恋愛とは言えないけれど。
 浮気なんて不毛。マイナスしかない。だけど、きっとこの後何かしらあって、二人は悩みながらもお互いを許したり許されたりしてさ、魂が惹かれあってどうしようもない唯一無二の存在だって実感しちゃったりするんじゃないかって。それが、他から見ると幸せとは思えない愛の形でも。
 ドラマチックで劇的な、困難がさらに愛を深めるような。そう力説する私に、消太さんの唇は緩く開いて、半眼はあからさまに呆れた。
 あ、とソファの背もたれに髪の毛がついているのを摘んで、キリッと眉を吊り上げて消太さんを睨んでみる。
「消太さん……この長い髪の毛、何です? ……みたいなやつをね!」
 これは消太さんの抜け毛ですね。ゴミ箱にポイ。
「まったく……」
 合理的じゃない、と言いたげに額に手を当てた消太さん。
 恋人同士の生活なんて平和が一番なのに、刺激を求めるなんて贅沢な要求だとは自覚している。本当に浮気の疑惑が出たらこんなに楽しくできない。けどちょっとだけ、もちろんハッピーエンド前提なんだけど、やってみたくなっちゃたのだ。
「尾行したり、こっそりスマホ見たり……」
「すればいいだろ」
 恋人同士とはいえスマホを見るなんて最低だ、とか隠してる素振りがあればいいのに、消太さんったらテーブルの上にあったスマホのロックを解除して私にポンと手渡してしまうんだもの。
「そうじゃないんです!」
 不安と背徳の間で揺れ動く乙女心を何もわかってない! 信頼の証だから良いことなんだけど! 今日はそうじゃないんです。
「わかったわかった。ほら、おいで」
 ぷうっと頬を膨らませて不満をアピールすると、私の意味不明な茶番に付き合うしかないと観念したのか、消太さんはぽんぽんと膝を叩いて私を招いた。
「なんです?」
 傍若無人なリクエストに本当に応えてくれる気なのか、いいからおいで、と言われて手を引かれるまま彼の膝に跨って向かい合う。
 すると、消太さんはそのVネックの襟ぐりに手をかけて、セクシーな鎖骨を片方剥き出しにした。
「わ」
「ここに、キスマークつけて」
 とんとん、と指先で示された鎖骨下。その肌色に目が釘付けになる。少し顎を上げた太い首からむわっと雄の色気を振りまいて、喋るたびに震える喉仏がえっちで、手がごつごつしてて男らしくて、突然のエロティック炸裂にドキドキが止まらない。
「きすまーく、ですか?」
「ん。で、やればいいだろ。このキスマーク何よ、って」
「あぁ! やったー! 失礼しまぁす」
 なるほどなるほど。浮気疑惑ごっこをしてくれる、そのための準備というわけですね。心が広い消太さん!
 では遠慮なく、と背中を丸めてぶちゅっと鎖骨に唇をくっつけてみる。さっきまで服に隠れていたそこは暖かくてしっとりしていて、消太さんの匂いが濃い。
「もう少し下」
 脳に響く低い声がすぐ上から降ってきて、ぺろりと舌で舐めながらわずかに位置を下げた。キスマーク。キスマークって、そういえば付けられたことしかないけど、私にもできるのかな。吸えばいい、はず。
 唇を密着させて吸い付いてみる。ちゅぱ、と音を立てて唇を離しても、そこは唾液で少し濡れているだけで跡にはなっていない。
「もっと強くしないとつかないよ」
「痛くないんですか?」
「大丈夫。頑張れ」
 意外と難しいぞ。というか、消太さんはあんなにあっさりつけるのに、と夜の戯れを思い出してしまって首を振る。視界では一部だけてらてらと光を反射する鎖骨。もう一度、ここに吸い付かないといけないのだ。第六感がえっちな雰囲気を感じ取ってお腹の底がむずむずする。いやいや、ただの準備だもの。そんな流れになるはずない。
 気を取り直して再チャレンジ。絶対に成功させてやる! えいっ!
「んんっ」
「もう少しこのまま」
 艶っぽいバリトンが鼓膜に浸透する。頑張って消太さんの肌を吸う私の後頭部に、暖かい手が添えられた。ふわふわと髪を撫でた手は熱を引き連れてそっと耳へと移動する。色を孕んだ指先が、意地悪に耳裏をくすぐった瞬間、もう耐えられなかった。背骨を駆け上るゾクリとした感覚に、ぢゅっと口を離してしまった。
「や」
「ついたか?」
 抗議の声の前にそう聞かれ、引っ張られた襟を覗き込む。そこには確かに、赤い痕が!
「つ、つきました!」
 わーい! キスマできたー! と努力の成果をじっくり見る暇も与えず、消太さんははだけていた襟元を正してキスマークを隠してしまった。
「じゃ、どうぞ」
 と促されて、本題に移る。そう、これから浮気を疑う恋人ごっこの始まりだ。ごっこだからもちろん不安も背徳も何もないんだけど、演技でも乗り越えれば仲は深まるかもしれないし。それに消太さんがどう私に縋り付くのか見られるってこと。
 かけっぱなしの映画は、ちょっとえっちなキスシーンが流れ始めたけれど、男女の波瀾に富んだ激動の恋模様なんてそっちのけ。私はうきうきと、消太さんを問い詰める役に入り込む。
「コホン、ではでは……」
 では、ん? でも、キスマを発見しないと始まらないぞ? ということは、消太さんの服を脱がさなくてはいけないのでは?
「ナマエ」
 甘い低音が私の名前を囁いて、ぐっと顔が引き寄せられた。わ、と驚いて目を閉じると、すぐに唇が塞がれる。さっきまで一生懸命キスマに奮闘していたせいで少し濡れた唇は滑りがよく、簡単に消太さんの舌が割って入るのを許してしまった。
「ぅ、ん……はぁ、っ」
 分厚い舌がねっとりと歯列をなぞる。さっき感じたエッチな雰囲気をぶり返して、すぐに体温が上昇する。舌は絡め取られて、じゅるりと舐られるとあたまがふわふわしてきちゃう。
 どうしてこんな展開に? このままじゃ消太さんの服を脱がせてキスマの指摘をする前に、私がひん剥かれてしまう!
 ほら、あろうことか、スカートの上からゆるゆるとお尻を撫ではじめた手。太い手首を捕まえて抵抗しても、深い口付けに体の力が抜けていく。
「しょーた、さぁん……なんか、ちが」
「うん?」
 唾をコクリと飲み込んで、はぁっと湿った吐息を漏らす私に、消太さんは涼しげな顔で眉を上げた。お尻にあった手はするすると膝まで下がると、こんどは太ももを滑り上がってスカートの裾から侵入しようとしてきた。
 流れがオカシイ。おかしくないのかな? そっか、こういう事しようとしてる時に、キスマークを発見するのがリアルなのか。けど待って、今はダメ、ごっこなのに手つきが本格的にえっちすぎる。こうなったら急展開でいい! とにかく消太さんを問い詰める流れに持って行くしか――!
「だめ……もうっ!」
「お」
 強引に襟をぐっと引っ張って、さっき付けたキスマークを晒す。そこに人差し指を突き立てて、消太さんの憎っくき余裕顔を涙目で睨み上げる。
「このっ、キスマークなんですか! どこの雌猫と浮気してきたんですか!」
「ぶっ」
 素早く横を向いて吹き出した消太さん。な、何。笑わなくたっていいじゃない。浮気疑惑ごっこでしょう。真面目にやってください!
「どんな魅力的な泥棒猫だったんです?! 私より可愛かったんですか?!」
 胸ぐら掴む勢いで(掴んでるけど)キスマークを露出させて凄むと、消太さんは笑いを堪えながら私に向き直り、咳払いをひとつ。
ん……これは、任務中に敵の目を欺くために、ヒーロー仲間と仕方なく……」
 そうそう、コレコレ! と喜びそうになるけど、そう簡単に解決したら面白くない。私は咲きそうになった笑顔を引っ込めて、ぷんと唇を尖らせた。
「嘘ですっ! そんな女性と組む任務があるなんて聞いてませんよ? 私がこんなに消太さんを愛して一途に想っているのに、仕事を言い訳にこんなふしだらな……!」
 キスマークも任務も偽物だけど、そこに本当の気持ちが混ざると途端にごっこの境界が曖昧になる。言葉にしてから恥ずかしさがこみ上げて、だってこんなの、ただただ私から愛の告白してるだけみたいじゃない。わかった、消太さんはこの展開を読んでいて楽しむためにやりはじめたんだ!
「ごめんな、けど誤解だよ」
「キスマークつけなきゃ命の危機みたいな状況想像できません! 私だけを見ててくれなきゃやだ……」
 消太さんはフッと鼻で笑って私の頬をへと手を伸ばしてきた。な、なりきってやってるだけなのに笑うなんて酷い。本当に修羅場になった時も消太さん笑うの? 笑うかもしれない。私の勘違いを、かわいいなって笑う気がする。むぅぅ。
「なぁ……頼むから。どうしたら信じて許してくれる?」
 恥ずかしさでむくれる赤い頬を、大きな両手で優しく包まれてしまって熱が逃げられない。じっと視線を合わせてくる消太さんの口元はニヤニヤを堪えきれず、唇が薄くなっている。
 どうしたら、と聞かれてもどうしましょう。だってこれはごっこ遊びだから、浮気をした証拠もしてない証拠も出てきやしない。探偵の真似事も始まらない。けどけど、消太さんは今なら私のお願いを聞いてくれるってことじゃない?
「えっとねぇ……じゃあ、私の好きなところ、たくさん言ってくれたら許してあげます」
 私だけが愛をぶつけて照れるのは悔しいので、消太さんにも言ってもらえばおあいこだ! あ、でも、高級レストランとか、温泉お泊まりデートでもよかったかも。突然のチャンスを活かし切れなかった気がするけど、消太さんが「了解」と受領してしまったのでもう遅い。
 そして何故か、私の身体はたくましい腕にしっかり支えられて、ふわりと持ち上げられた。
「きゃあっ、わ、どこ行くんですかっ」
 立ち上がって歩き出した消太さんの首に慌ててしがみつく。足の向く先は、そちら寝室じゃございませんか。普通に考えて浮気疑惑の最中、解決前に先に体を許すわけない。真面目にやってくださいぃ、と首に回した腕に力を込めて絞めてみるけど、私の筋力では無駄な抵抗。首まで鍛えられてて隙がない。
「好きなところは聞かせてやるよ。それよりね、おまえ……」
「なんですか?」
 悠々と寝室に入り、ふわりとベッドに降ろされて、密着していた体が離れて気づく。いつの間にか消太さんの目が笑っていない事に。
 ちょっと嫌な予感がする。消太さんが膝でベッドに乗り上がると、ギシっと不穏にスプリングが軋んだ。三白眼はさっきより生き生きとしていて、小さな黒目の奥にそこはかとなく嗜虐性がギラついている、気がする。
「浮気か?」
「へ?」
 シーツにシワの跡を残しながら、手をついて這い寄ってくる姿は獲物を追い詰める肉食獣。
「さっきの話の友達、って男だろ」
「そう、です、けど」
 後ろに手をついて後ずさっても、すぐに壁で逃げ場はない。ゆったりと黒髪を揺らして、前髪の隙間から愉快そうに細めた目が私を熟視する。薄い笑顔がむしろ怖い。消太さんが本気で浮気を疑ったりしたら、こんな怖いことになっちゃうの?
 完全にへにょりとハの字眉の私に、吐息のかかる距離まで近づいてくる。こつんとおでこが合わさって、ひ、と喉の奥から変な声が出た。浮気疑惑に憧れるような軽率な発言大変申し訳ございませんでした。やっぱり平和が一番です。スパイスが強すぎます。
「俺に隠れて、男と二人で会ってた、と」
「っでもでも、ただの幼馴染ですよ……」
 震えた声で言い訳すると、消太さんはふっと瞳の鋭さを緩めて、鼻先に甘やかすような軽いキスをしてくれた。う、あ、演技だったの?
「どうだかね」
「本当に誤解ですからね!」
「お望みの弁明タイムだろ。どうすれば乗り越えられるかな」
 口ではまだ浮気疑惑を続けながら、頬や耳に降ってくる唇は甘くて安心する。ちゅ、ちゅと啄ばむようなリップ音は徐々に下って、シャツのボタンが次々と外れてゆく。くすぐったさに肩を竦めながらどうしようか考えてみるけれど、消太さんを一瞬で納得させられるアイディアは出てこない。
 ごっこの延長、だけどたぶん、本気で怒ってはいないにしても、私が男友達と出かけたことで独占欲を煽ってしまったのは事実だと思う。これは今後気を付けないと、怖い消太さんが出てきちゃったら嫌。
「消太さんの、好きなとこたくさん言うから、許してください」
 脳みそゆるゆるなお願いはやっぱり結局私が恥ずかしいんだけど、まぁいいや。
 消太さんは、胸元に埋めていた顔を上げるとニッと意地悪に微笑んだ。
「そうだな。俺がどれだけおまえを愛しているかも、おまえが本当に俺一筋なのかも、ゆっくりじっくり確認し合おうか」
 浮気疑惑の終着点は、予想外の仲の深め方に行き着いたけど、きっとここまで消太さんのシナリオ通りだ。
 この前の友達も、切ない映画も、浮気疑惑ごっこも、恋のトラブルの最後にはお決まりの熱烈なキスシーン。愛を交換しあう、言葉のいらないコミュニケーション。
 シーツにぱたりと沈んだら、刺激的すぎるこの続きは二人だけの秘密。これもお決まりで、エンドロールが流れるのです。めでたしめでたし。


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