解氷

 気高さは冷たさに似ている。彼女は氷像のように、美しく厳しい寒さの中で輝き、そして触れるのを拒むように冷たい。あの男が死んだのが、冬だからかもしれない。





「タバコ、まだ吸ってんですか」
 細く凛とした、バスローブの後ろ姿を包み込む。眼下のネオンの煌めきは遠く、月の方が近い気さえする。最近また昇進したらしい彼女は、少し痩せたように感じる。
「ん。あなたの肺はまだクリーンなの?」
「おかげさまで、吸えないんですよ」
 代わりに彼女の髪に顔を埋める。あの男が愛用していたタバコの匂いを避けるように。整髪料の甘い香りと、その奥の肌の微温を鼻先で味わう。一年前の変わらない彼女の香りは俺の心臓を締め付けた。言葉にすると恐らく、切ない、が一番近い。
「何言ってんの。吸えば吸えるわよ。ホラ」
 肩越しに吸いかけのタバコが差し出される。タバコを望んだことなど無いし、当然断ろうとした。けれど、細い指で挟まれたそれには今の今まで彼女の唇が触れていたのだと思い。キスなんて何度もしてるのに、その紅跡が魅惑的に俺を誘うから、一息、それに口づけた。
「吸えるじゃない」
 苦い。体に悪い味がする。彼女を真似して、ふうと緩く紫煙を揺蕩わせる。
「あんたの匂いだから」
 胸にもやつく白状は煙に紛れた。
「なに?」
 俺が口をつけたそれが、再び彼女の唇に挟まれる。なんて、エロティックなんだと思う。
「思い出すから、嫌いなんです」
 ふ、と吹き出した白は吐息の流れを視覚化する。俺が思い出すのは、あの男と、あんたの両方だ。あの頃の幸せそうな顔を。あんたの横にいたあの男を、鮮明に思い出す。そしてあの男を想ってタバコを咥えるあんたを思い出す。
 自立していて、男に対して決して下手に出ない彼女に、あの男はここまでの喪失を植え付けるほど愛されていたと思うと、ぐずぐずと腹の奥が黒くなる。
「まさか私に、愛を囁くつもりじゃないわよね?」
 大きな窓ガラスに映る彼女は、困ったように眉を曇らせた。ホテル備え付けのお揃いのバスローブを身に纏いながら、俺の腕の中にいながら、彼女の心は遠く、まだ冷たい。
「そのまさかですよ。やっと彼氏と別れたんでしょう」
 来る者拒まず、去る者追わず。ただ彼女が寂しさを埋める恋人ごっこに選ぶ相手は、必ず同じ銘柄のタバコを吸っていた。だから俺はずっと、恋人という関係には選ばれなかった。
 彼女は誰とどんな風に遊んでも、決して本気にならない。香りの幻想が解けた時には俺のところに帰ってくる。毎度その優越感に浸りながら、体だけを重ねて、届かない気持ちに蓋をする。再び恋に落ちるために練習が必要なら、その相手は俺でなくていいと思っていた。
「あんたが番犬するから、別れることになったのよ」
 ただ、今回の相手は、良くなかった。ちょっと乱暴な、彼女を尊重しない男だった。彼女はわざとそういう相手を選んだんだろう。俺に嫌われるために。
 バカなのか。思い出の夢を見ては寂しく人を求めて。余計に喪失に苛まれて別れるを繰り返している。
 唯一全部知ってる俺にしか甘えられないから、俺との関係は切ることができない。なのに、俺に本気になって失うのが怖いから、いっそ嫌われてようとしてみたり、愚かな低回に囚われている。
 俺があの男の代わりになれたら、また彼女は現実を生きてくれるんだろうか。
「コレ、吸うようになったら、俺にもチャンスありますか」
 少し下にあるその手を強引に自分の口に引き寄せる。吸い込もうが吐き出そうが、美味しいなんて思えない。あの男と同じにはなれない。
「……相澤にはそういうの、求めてない」
 求めてないんじゃ無いだろう。求めるのが怖いんだ。
 薄い腹に回した俺の腕を、細い指がなぞる。これは警戒だ。心に触れられそうになったら、この腕から逃げられるように、準備をしている。
「嘘吐かんでください」
「嘘って」
 肩が揺れる。長くなった灰が、ふとした瞬間に落ちて床を焼け焦がしそうな、その不安定に共鳴する。
「あんたが、愛を怖がるから、だから随分待った」
 腕はついに拒絶され、温もりの代わりに胸に触れる空気はひどく冷たい。スリッパは音もなくカーペットを数回踏みしめて、ベッドサイドの灰皿に吸い殻を押しつけた。最後の白はため息のように吐き出され燻る。
「……恋人になったら、だめなのよ」
 幾度となく身体を許しているくせに、彼女の恐れる喪失はあまりに大きい。何より俺の仕事柄、彼女を安心させることは難しいかもしれない。あの男を失って空いた穴を俺が埋めたら、俺だけに決めたら、また失うのが怖いのだろう。けれど。
「あんたも俺が好きだから、そうやって怖がるんだろ」
 鎮火したタバコは匂いだけを残している。返事をしない後ろ姿はうなだれて、俺が送る熱をどうにか冷やして輪郭を保とうとしている。
 ひどいだろうか。俺は。彼女の心にもう一度穴を空けることになるかもしれないのに、その場所を他人に譲りたくない。
「もう、他の男のところは、行くなよ」
 俯く頬に触れる。哀愁で彼女は余計に色気を増した。長いまつ毛の瞳は本当はくるりと丸いのに、その形を悟らせないように流し、いつも遣る瀬無く世界を映している。儚げで綺麗でたまらないと思う。ただ、もう一度、未来へと移ろう季節の輝きに目を向けて欲しい。俺が、彼女を溶かして、ただ暖かいだけの日常に微笑むことを取り戻してやりたい。
「……本気にならせないで」
「とっくに、本気なはずだ」
 タバコを吸わない俺と、こうして関係を続けている時点で。
 手を引けば簡単によろめいて、ベッドにぽふと座りこむ。ベッドからはみ出した片脚を持ち上げても、何の抵抗もしない。許されているのか、諦めているのか分からないまま、そのつま先に口付けた。冷えたそこから、上へ、辿る。
 膝まで唇で辿れば、簡単に押し倒されてくれるからタチが悪い。普段と違う寵愛に驚いたその目が、ようやく一つの個体としての俺を見つめて、揺れた。俺が恋人という立場を求める事は、無いと踏んでいたのだろうか。
「相澤、」
 短く呼び捨てられる名前は、紫煙のように淡く浮遊して霧消した。思わず睨む。いや、睨んだんじゃない。悔しくて苦しくて、それが全部顔に出てしまっただけだ。
「いい加減、俺だけを選べよ」
「んっ」
 触れ合う唇の間に、タバコの匂いがする。あの男の魂が俺たちに割って入って邪魔をしているみたいで、気分が悪い。吸い込むように、かき消すように、息苦しいほどの愛を押し付ける。
 情けない。泣き出しそうだった。今、これっきりで、彼女は俺の前から姿を消してしまうような気がした。
 可愛いらしい抵抗で俺の肩を叩く。弾む息は熱を持っている。氷が溶けたように溢れる雫が、目尻を伝っている。俺はようやく彼女の心の芯に触れたらしい。
「離れ、られなくなる」
 声を詰まらせ、鼻を啜って、俺の前で感情を剥き出す彼女に、引きずられる。
「離す気なんて最初からねえよ」
 何年待ったと思ってるんだ。彼女が思ってるより俺の愛はどす黒く醜い。もし俺が死んだら今度は、喪失に苦しまずに後を追ってほしいとすら思う。
「あなたに愛される権利がないのよ」
「どうして」
 口紅の乱れた唇が震える。凍えるみたいに。暖かさに焦がれるみたいに。
「タバコ、やめらんない、気がするの」
「そんなことで、俺があんたを愛する権利を奪うなよ」
 今更、そんなことか。心がまだあの男のもんでも、思い出がずっと美しく浸りたいもんでも、構わない。
「バカね……どうして、今のまま、いさせてくれなかったの」
 彼女は苦しそうに、なのに綺麗に微笑んだ。
 どれだけタバコの香りに包まれて過去にしがみついても、そんなのは許すから。この肉体に触れるのも、愛を囁くのも、全部俺だけでいい。何年も前から香りすら変えない彼女を、コールドスリープから溶かして時間を動かすことも、今ここに生きてる俺がしたいから。
「どうしても、あんたの心を、抱きしめたかったんです」
 イエスともノーとも言わなかった。
 ただ絡まるような深いキスに、タバコの匂いはもうしなかった。

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