フラワーシャワーとカンラン石

 我慢しなくていいと言ったけれど、リミッターの外れた山田くんの言動は私を度々動揺させた。
 日常で「可愛い」を連発してくることもそうだけれど、過去に遡ってまで山田くんの中に溜めてきた言葉が解放されて。
「初めて笑ってくれた時、すんげぇドキドキした」「ミョウジサンは表情で伝えるためにけっこー目合わせてくんじゃん! 心臓に悪い!」「花火の場所で再開した時、運命だと思った!」などなど。
 最初こそ、やめてやめてと彼の大きな口を一生懸命手で塞いでみたりしたものだけど。少しずつ愛されることに慣らされた私は、卑屈に否定したりしないで、その言葉を傍受している。
 依然として、錆びついた喉は声を出すことはない。けれど、私は意志を伝えるために口を動かすようになった。声が出てもいい、声を出すことを怖くないと思えたから。
 一緒に歩く時には自然と手を繋ぐようになって、幾つもの季節を二人で楽しんで、お互いの呼び方も変わって、同じ部屋で暮らし始めて、そして、もうすぐ名字も変わる。
 それでも私は、金曜日深夜、かつて一人のファンだった頃と変わらずプレゼント・マイクのラジオを楽しんでいる。
『お、こりゃ春にぴったりのお悩み相談だな! 人と仲良くなるためのきっかけねェ』
 ラジオの声は一つの悩みも無いみたいに、楽しそうにおたよりを読み上げる。
 こんなに流暢に言葉を紡ぐ彼が、プロポーズでどもった姿を思い出すとニヤニヤしてしまう。
『とにかく自分から動くに限る! 気になるなら話しかける! 俺ン中じゃそれがベスト! 何が運命かなんてわからねェだろ? うまくやろうと身構えんなよ、ジョークが滑ったってンなの気にすんな! たった一言話しかける勇気が、人生を変える出会いだったりするもんだぜ。気になる相手が、近寄り難い空気醸しちゃってても、テンションの合わなそうな相手でも、』
 ひざしの声色が優しくなる。
『たとえ、屋上から紙をばら撒いてるちょっと変わった子でもさ』
 ばか。何言ってんの。好き。
 ちょっとしっとりな雰囲気はハイテンションのエンディングに切り替わって、聞き慣れたBGMが流れ、今日も楽しいラジオが終わる。
 心配性の彼は、無理せず寝てな、が口癖なので、私は彼が帰ってくる前にベッドに入っていなくてはならない。
 ベッドをあたためて、寝たふりで山田ひざしの帰りを待つ。何者でもなかった私は、彼の帰る場所になれたのだ。
 左手の薬指に光る約束を撫でて、私はそっと瞼を下ろした。

 ぱちぱちとまつ毛の隙間で陽射しが弾ける。視界を埋める惚けた寝顔と、お腹に乗った腕の幸せな重さに、安穏を実感して大きく息を吸い込んだ。
 私は早朝までラジオを聴いた後、ひざしの帰りを待てずに眠ってしまったらしい。
 シーツに柔らかく広がる金糸に触れないように、慎重に枕の下に隠れたスマホを手繰り寄せる。時刻は既にお昼に近い。
 今回のラジオでひざしは、きっとちょっと浮かれていた。その事に突っ込まなくては。
「――」
 ひ、ざ、し
 ゆっくり動かした唇は、音を乗せてはいない。それなのに、目の前の美しいまつ毛が震えて、パチリと鮮やかなグリーンが私を捉えた。
「オハヨ、ナマエ」
 おはよう、の代わりに頬を撫でる。ふぅと大きく息を吐いたひざしは、目を閉じて私の掌を喜んでいる。
「ねぇ、今好きって言ったデショ、俺のこと」
 喉の震えが伝わる距離で、寝起きのハスキーな声が機嫌良く漂った。
 残念、好きじゃなくて、名前呼んだんです。けれど、私から声は出てなかったはずなのに、どうやって口を動かしたことを悟ったのか。不思議。まだ寝ぼけているのかな。首を傾げると、大きな手が髪を梳きにやってきた。丁寧に整えられた爪が頭を滑る。
「ヤバい、幸せ」
 ふにゃふにゃと弛みきったひざしに、もぞもぞとスマホを見せる。
 ――ラジオ、聴いてたよ
 まったく、匂わせというか何というか、スキャンダルになったらどうするの。と頬を膨らませてみるのに、文字を読んで一瞬「ん?」と眉を上げた彼は、すぐにニヤリと目を細めた。
「運命だったろ? 桜の妖精さん」
 おでこにキスをして、太い腕が背中に回る。包み込むように私を抱きしめる腕の中で、全ての始まりの、春の屋上を思い出す。
 あの日彼が話しかけてくれなかったら、私は今も自分が嫌いで、人が嫌いで、殻に閉じこもったまま生きてたかもしれない。
 うん。運命だった。奇跡だった。全てが変わった瞬間だった。
 鮮やかな青い空が、私の記憶を吹き抜けてゆく。
「――」
「――呼んだ?」
 ぱっと明るくなる視界で、目をまん丸にしたひざしが私を覗き込む。
「ジョーダンじゃなくて、今、俺の名前」
 確かに喉に、風が通った気がした。
 声になる前の、掠れた音だけが、けど確かに今までと明らかに違う――。
 ひざしの手が恐る恐る私の首に触れて、慈しむようにゆっくりと撫でる。熱が伝わる。
 何かが、今なら、動く気がした。
 新緑の双眸は奇跡の予感になみなみと濡れて、息を呑んで全力で耳を澄ませて、全神経を研ぎ澄ませ私の声を待っている。
 震えた唇が、お日様の香りのする空気を吸い込んだ。
 意を決して紡ぐのは、今までで一番声にしたかった言葉。
「す、き」
「――っ!」
 幾年ぶりに音を取り戻した私と交代で、こんどはひざしが声を失った。叫びたいほどの衝動を喉に閉じ込めて、代わりに、見開いた瞳から大粒の輝きがこぼれ落ちる。
 頬を包んだひざしの指先が震えている。
 名前を、呼ぼうとした唇は、ありったけの愛を詰め込んだ口付けで塞がれてしまった。
 唇から伝わる感動が、喜びが、全身を駆け巡って涙になる。
 ひざしに出会った春の屋上から、全ては始まった。私は、何かを乗り越えた気もするし、ただ生きてきただけな気もする。ありふれた日々の繰り返しが、今日の奇跡を運んできたのだ。
 私たちを繋いだのは、メモアプリに紡いだ文字、あなたの声の聞こえるラジオ、私を見つめ続けてくれたペリドット。
 あの日、心を閉ざして投げ捨てた紙吹雪が、幸せを祈るフラワーシャワーになって晴天に舞う。
 そういう、運命だったんだ。

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