敗北のファンファーレ2

 また、二月がやってきた。街中がハートでいっぱいになる二月。私には、三度目の、そして最後の戦いの二月。
 この恋の戦いの敗北は去年から確定している。敗北しなければ、相澤先生にチョコを渡すことが叶わないから。
 私は、甘いだけじゃ足りない気持ちをふんだんに混ぜて、猫の肉球マドレーヌを焼いた。
 好きだなんて言えない。誰か他の人に渡すはずだったけれどフラれたと落ち込んだ顔をして、相澤先生の優しさを利用してこのマドレーヌを押し付けるのだ。
 ラッピングは、黒い箱にシルバーのサテンリボン。好きだと言えないくせに、完成した贈り物は相澤先生への気持ちが溢れているように見える。バレてしまうだろうか。バレたらどうなるんだろうか。
 戦いの行方は、この可愛い肉球に託された。



「今日が何の日か知っているな」
 朝、寝袋を小脇に抱えて教室に入り開口一番。相澤先生からの質問に、誰かが「バレンタインです」と答えた。
「俺は受け取らない。お前らだけで好きにやれ」
 相澤先生はキッパリとチョコを受け取らない宣言をした。二度目となると生徒たちもざわつく事なく「はぁい」と揃ったお返事を返し、何事も無かったかのように通常のホームルームが始まる。
 一年前の朝はこの宣言によってどん底に突き落とされた気分だったけれど、今年の私は心の中でしめしめと唇を舐める。みんなに慕われている先生が、チョコの受け取りを拒否する理由を知っているのは教室で私だけだろう。あの放課後のほんの些細な秘密が、私の心をずうっとこの恋に縛り付けてきた。あの日先生は私からのチョコだけを口にしたのだ。その舞い上がるほどの歓喜と優越感を、けれど誰にも言わないで私の心の中に閉じ込めてきた。
 受け取り窓口を閉じた相澤先生に、バレンタインのお菓子を渡すのはきっと私だけになる。そんなの喜ばないわけにいかない。
 渡せれば、の話だけれど。
 一年前から色褪せるどころか燃え上がる恋をお菓子に込めた。好きという気持ちが相澤先生に伝わらなくてもかまわない。ただ去年と同じく、失恋して行き場を失ったチョコを処分してもらう体で、こっそりと渡したい。あのお口に、丹精込めて作ったお菓子を迎えてもらえる。それだけでいい。けれど、さて、どうやって渡せばいいだろう。
 先生どうぞ、と意気揚々差し上げるわけにはいかない。私は恋に破れて打ちひしがれた可哀想な女の子にならなければ、先生は同情しても受け取ってもくれないだろうから。
 あの日、放課後の教室で一人でいるところを見つけてもらえたのは本当に偶然だった。今年も一人で教室に残って偶然を待っていたって、相澤先生に会える可能性は低すぎる。
 つまり、私は、ちょうどよく先生の小腹が空いているタイミングで、「フラれたので食べてください」と相澤先生に話しかけに行かなくてはいけない。
 それはかなり難易度の高いミッションだ。もうずっと悩んでいるのに、どうすれば自然と二人きりになれるのかいい作戦は思いつかないままバレンタインデーは始まってしまった。
 まさか朝から渡すわけにもいかない。私は一日中先生の様子を伺って、二人きりになれそうな理由を模索する。何か手伝いを募集してくれたら飛びつくのに。手伝えそうな何かがあれば私から声をかけるだけの覚悟も今日は用意した。けれど相澤先生は、ホームルームの後も、ヒーロー情報学の授業後も何もとっかかりになりそうな発言をしてくれず、普段よりきゃっきゃと沸き立つ教室を無関心そうに一瞥して無言で去って行っただけだった。


 結局なすすべなく時間は流れ、本日のカリキュラムはつつがなく終了。
 先生は帰りのホームルームで事務的に連絡事項を述べると、クリップファイルをパタンと閉じて会を締めくくり、さっと教壇を下りてしまった。放課後に入った開放感でざわつく教室内で、長身の黒髪がなびくのを視線で追う。
 私は、先生のこの後の予定を知らない。会議があったら終わるまで声をかけられないし、ヒーロー活動で学外に出てしまうかもしれない。大きな手がドアノブに指をかけてガラリと音が鳴る。廊下へとその姿が見えなくなってから、ようやく直感が「今しかない、追いかけろと」私をせっついた。
 慌ててペンケースをリュックに突っ込んで、ギイっと椅子を鳴らして席を立つ。誰かに名前を呼ばれて足を止めるけど、気持ちは先にドアの外へ出てしまって話が耳に入らない。
「あの、ごめんね、用事があって、ばいばい」
 へらへらした笑顔で誤魔化しながら手を振って、あぁ、と何か悟った様子の友達を置いて廊下へと飛び出した。
 右か左か、見渡した廊下の先を左に曲がった黒い影。相澤先生、と呼べば早いのにそれはできなくて、廊下は走れなくて。心臓の鼓動と同じくらいの早足で追いかける。
 ようやく廊下を曲がって、階段を上る姿を発見した。どうやら行き先は職員室じゃない。これじゃ後から探しても会えたかどうだかわからない。追いかけて良かった、と判断を称えながら、踊り場で折り返してまた見えなくなった黒い背中を追いかける。
 登りきった先、少し向こうで、相澤先生は教科準備室のドアへと吸い込まれて行った。
 チャンスだ。
 リュックの中に潜む癒しの肉球が、相澤先生との時間を招いてくれたのかもしれない。今日ずっと伺っていたタイミングは、今やってきたのだ。
 ドアは閉じられていなかった。先生から姿が見えないように廊下から耳をすませてみるけど、会話は聞こえない。どうやら、相澤先生ひとりきりと思われる。
 抑えた深呼吸を一つ。私はできるだけ、もの哀しそうな雰囲気に表情を作り変えた。だって、今年も恋に敗れた少女でなくてはいけない。
 この時を待っていたのに、どくんどくんと怯んだ心臓が足まで震わせて、踏み出すのを躊躇する。去年は、貰ってくれた。私のだけ食べてくれた。きっと大丈夫。
「相澤先生」
 一歩、廊下と部屋の境目に立って声をかける。私の影が先生の足元へと伸びて黒いブーツに触れる。相澤先生は、プリントへと向いていた三白眼をゆるりと私に向けた。
「〇〇か」
「あの、今お時間よろしいですか?」
「あぁ。どうした」
 低い声が私の緊張を引き立たせる。二、三歩室内に入りながら、リュックのファスナーを開こうとした指は突然不器用になって、スライダーは引っかかりながらもたもたとしか進まない。
「よかったら、これを……」
 ようやく小さな箱を引っ張り出した。改めて見ると、なんてわかりやすい推し色だろう。照れ臭くなる気持ちは隠さなければいけない。諦め掛けた瞬間に舞い込んだチャンスと焦りで、傷心の乙女は三文芝居もいいところ。だからだろう。
「俺は受け取らないと言っただろ」
 相澤先生は、呆れたようにふすんと鼻から息を吐いて、ポケットに手を突っ込んだ。先生のヒーロースーツと同色の贈り物を見下ろす瞳は無気力で、喜びはかけらも滲んでいない。
 あ、と息が止まった。
 期待に膨らんでいた胸がパンと破裂して、心臓がぎゅっと苦しくなる。
 先生は去年のことだって、大した思い出ではなかったのだ。きっと。私ばかりが、あの日のやり取りを胸に、弾けそうになる気持ちを体の底に閉じ込めて一年を過ごし今日この日を迎えたというだけで。相澤先生は、去年はたまたま小腹のすいたタイミングで、暗い教室に一人で明らかに落ち込んだ様子だったから優しくしてくれただけで。
 なぜだろう。私からなら「またか」と受け取ってくれるような奢った勘違いをしていた。恥ずかしさに顔が熱くなって、沈黙の居た堪れなさに口が焦る。
「いえ、あの……そういうのじゃ、ないんです。また今年も受け取ってもらえなくて……。行き場がないんです。だからもし、去年みたいに小腹が空いてたら、と、思ったんですけど……」
 細めた目の小さな黒点が、私の浅慮を見透かして映す。ぱたぱたと廊下を過ぎる誰かの声が、開きっぱなしのドアから大きく聞こえてびくりと肩が揺れた。遠のいていく足音を聴きながら、先生を騙そうとした後ろめたさで顔を俯けた。私は、ただただ手の中の箱に視線を縫い付けて、乾く喉をごくりと唾で潤す。
 幸か不幸か、あっさり受け取って貰えなかったことで、私の受取拒否されて落ち込んでいるという設定は本物になった。きっと今なら失恋した女の子の顔が上手にできていることだろう。
「……そうか」
 沈黙は、小さな声で破られた。
 視界に現れたゴツゴツした手とほつれた袖。両手で大切に持っていた小さな箱に、そっと先生の指が触れて私は力を抜いた。
 ほっと吐き出しそうになる息を飲み込んで箱の行く末を追うと、相澤先生は迷いなく銀のリボンを摘んでしゅるりと解く。私の気持ちまで解かれた気分になって、強張っていた肩が下がった。
 ぱかっと開かれた黒い蓋の中では、肉球マドレーヌがにゃんと先生を手招いて待っていた。
「今年も随分かわいらしいな」
 今年も、と言ってくれた。
 相澤先生の中に、去年のチョコの記憶があるだけでこんなにも嬉しい。
「ま、マドレーヌです。可愛い型があったので……」
 太い指先が摘み上げた黒猫の手を、先生は優しく見つめてから口に運んだ。アイシングでつけたピンクの肉球が、サクリと半分に齧られて先生に咀嚼される。やがて、喉仏が上下に動いて嚥下が完了された。私のバレンタインは、もうこれで満足だ。
「渡したかった相手は、猫が好きなのか?」
 ぽんと残り半分を口に放り込み、先生は次のマドレーヌへと指を伸ばす。
「そう、なんです」
「ん。うまいね」
 目を伏せ、黙々と私の作ったお菓子を口に運ぶ先生。
 猫が好きか、と聞かれたのは去年も猫のチョコだったからだろうか。二年連続同じ相手にフラれたと思われただろうか。それとも、今のは『好いている相手は俺か』という意味の遠回しな探りだろうか。
 私は私の作ったものを食べる先生を目に焼き付ける。顎骨の動きに見惚れ、節の目立つ手に色気を感じ、涼しげな目元に息を止めながら。
 ついに、最後の一口が先生の口の中へと消えて、ごちそうさま、と空の箱だけが返された。
 先生は空の手を再び口元へと持っていく。そして、ぺろりと赤い舌で親指を舐めた。一つ一つの仕草が、刺激が強すぎてクラクラする。
「食べてくれてありがとうございました」
「ちょうど小腹が空いてたからな」
 去年と同じセリフにくすりと笑みが溢れて、えも言えぬ達成感に満たされた。
 敗北からのファンファーレ。奇跡的に、最後の年もこうして先生にお菓子を渡すことができた。大成功だ。この恋に思い残すことは何もない。
「では、あの、ありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げて、部屋を出ようと片足を引いた私に、先生は小さく口を開いた。
「ちゃんと、俺が去年言った通りにしたのか」
 去年、言われた通りに。一年前のあの日言われた言葉。『次こそ本命に渡しなさい』を、実行したのかと問われている。なぜ? わからないけど、相澤先生の瞳は真っ直ぐに私を見つめながら、無風の水面のように凪いでいて考えを読み取ることはできない。
「……しました」
 嘘じゃない。先生に渡したもの。
 ふむ、と一呼吸した先生はゆるりとわずかに頭を傾けた。
「今日のおまえは、どこかの誰かにフラれる暇なんてないように見えたが」
 どきりと心臓が大きく跳ねた。誤魔化して笑おうとした唇が歪む。
「ええと……ついさっき、フラれたんです」
 嘘じゃない。受け付けてないって、言われたもの。
 先生はふっと目尻を下げて、柔らかい視線で私を撫でた。
「本当です、さっき……」
「そうか。恋愛についてはよく分からんが、まぁ、頑張ったな」
「わ」
 ぽん、と頭に手が乗った。大きくて厚みのある手から先生の体温が伝わってくる。軽やかに二回だけぽんぽんと優しく跳ねた手は、ポケットへと帰っていった。
 あぁ、バレている。
 撫でられたことよりも、全て見透かされていたことの恥ずかしさで背中がザワザワした。かぁっと熱くなる頬の赤みは隠せない。正直すぎる体が、言葉なんてなくても先生に好きを伝えてしまう。
「うまかったよ」
「よかったです」
 先生はわかってて受け取ってくれたのだ。この恋は、当たって砕けるだけの本気度がないものと見限られた。きっと、だからこそ受け取ってくれたのだ。何も知らないふりをして。
「気をつけて帰れよ」
「はい。さようなら、先生」
「さようなら」
 軽くなった頭をぺこりと下げると、まだ足の動かない私の横をすり抜けて、先生だけ廊下との境界線を跨いで超えた。きっと、最初からこの部屋に用などなくて、先生はわざとこの時間をくれたのだ。
 毎日交わしているさようならがひどく寂しい言葉に思えて、じんわりと涙が湧いた。食べてもらえたから十分なのに。付き合いたいなんて思っていなかったのに。先生に気持ちを知られた上で、相手にされていない。生徒からの好意は迷惑だと突き返されるほど本気に捉えてももらえてないなんて。そう思うと切なくて。いっそのこと、先生が本命ですと伝えてしまえばよかった。
「〇〇」
 空っぽになった箱を持って立ち尽くしていた私は、その声にはっと振り返る。相澤先生はドアの淵に手をかけて再び顔を出した。私の瞳には恋が滲んでいるに決まってるのに、ぱちりと視線が噛み合った瞬間、先生はふっと頬を緩めた。
「来年も、生徒からは受け取らない予定だよ」
 それだけ言い残して、先生は後ろ髪なびかせて消えてしまった。
 足音が静かに階段を降りる気配がする。私は一人で、ぽかんと口を開けて固まった。
 先生。それは、どういう意味ですか。
 三年間先生にバレンタインを渡し続けたのは私だけでしょう。今後も、たった一人の特別しつこい生徒だと覚えていてくれるということですか。それとも、今年も来年も生徒以外からは結構受け取ってたんですか。それとも、生徒じゃなくなったら、正面から受け取ってくれるってことですか。それとも、きちんと玉砕したければ生徒じゃなくなってから来いということですか。それとも。
 先生。私はその言葉をぎゅっと抱きしめて、逃れることもできないまま胸に閉じ込めて、また三百六十五日過ごさなくてはいけないんですね。
 本音を隠したまま私だけ答えを貰うなんて、そんなこと許されませんよね。
 空になった箱に、言葉にしたい気持ちを仕舞って蓋をする。
 どうか来年こそは勝利のファンファーレをと願いながら。

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