わたしごと全部



 休日の放課後わざわざ訪れた調理実習室。甘く香ばしい、というには少しばかり焦げついた香りを、溜息がかき混ぜる。
 あらゆる製菓材料を並べて、四苦八苦しながら作ったチョコケーキは大失敗。次に挑戦したカップケーキが消し炭になって、焼き菓子は断念した。
 一人で作るのが不安なら、私たちが見てあげるから学校でやればいいじゃない。そう言ってくれた同僚たちは確かに、入れ替わり立ち替わり顔を出してはアドバイスをくれていたけれど、三作目が失敗に終わってからもう誰も来なくなってしまった。
 味見というか毒味、と揶揄された私の手作りスイーツ。もとより苦手なことは自覚していたけれど、本命に告白するならやっぱり手作り、ってのは少女漫画やなんかでも定番の憧れで、恋する乙女の一人としてはそのロマンスにどうしても挑戦してみたかったのだ。
「はぁぁ
 大きなため息とともに、生クリームを計量カップに注ぐ。トリュフも失敗して、いびつな形の(言いたくないけど汚いものを想像してしまうような)出来栄えでとても渡せそうにない。味はよかったのよ。味は。
 見るからに手が込んでいて『料理上手なんですね』と言ってもらえるようなレシピは私にはハードルが高すぎたらしい。自分の不器用さに泣きそうになりながら、生チョコのレシピを検索して生クリームを手に取った。
「何してるんですか」
「ひっ」
 突然の声。計量カップに注ごうとして跳ねたクリームが、キッチンのステンレスを汚す。
 振り返ると、相澤さんが。まさかの、渡したい相手の相澤さんがそこにいて。やだ、もう、こんなところ見られる予定じゃなかったのに。相澤さんがどうしてこんな校舎の片隅に。
「あっ……ちょっと、季節のイベントに乗っかろうかと思いまして……」
 へぇ、そうですか、頑張ってください、って感じで去ってくれたらよかったのに、相澤さんはスタスタとこっちに近づいて来て私の手元を覗き込んだ。
「それ、分量違うんじゃないですか」
「え? あっ、ほんとだ」
 動揺して、いつの間にか生クリームひとパック全て計量カップに注いでいた。
 慌てて分量を調整して、ええとこれを鍋に。相澤さんの前であんまり格好悪い姿は見せたくない。いや、そこらに失敗作がたくさんある時点で手遅れだろうけど。
 板チョコを包丁で刻むのは、今日すでに何度かやっているので慣れた手さばきを見せられるはず。
「すいぶんたくさん作ってるんですね」
「お恥ずかしい……」
 まな板の上でチョコを細かく刻む手は、想定外の見学者に緊張してしまってなんだかうまくコントロールできない。
「いたっ」
 やってしまった。誤って切っ先に触れた指には小さな傷がついて、わずかに血をにじませている。
「大丈夫ですか」
 その怪我の具合をじっくり見る前に、手が握られた。
 手が、握られた!? 相澤さん、近い、手が、手、手を……!
「大丈夫です大丈夫です! ちょっとだけなので! 絆創膏も持ってるので」
 心臓がばくばく鼓動して、これじゃあ出血が増えそうな勢いなんですけど。ぱっと手を引いて、もちろんすぐそこに用意してある絆創膏を指先に巻きつける。相澤さん、ちょっと冷静でいられなくなっちゃうからはやくお仕事に戻られては――。
「沸騰してますけど……」
「わぁ! 沸騰しちゃだめ!」
 沸騰直前って書いてあったのに! 慌てて火を止めてガスコンロから降ろす。どうしよう。もう。かっこ悪いところしか見せられない。せめて相澤さんに見られなければ、一番綺麗にできたものだけ渡せば、女子力アピールになるかと思ったのに。この現場を見られちゃったら逆効果だ。こんな不器用な姿ばっかり見せてしまったら、きっと告白は失敗だしチョコだって味に不信感を抱いて受け取って貰えないかもしれない。
「うぅ……」
 こんなはずじゃなかったのに。自分の無能さにほとほと呆れてしまう。恥ずかしくって仕方ない。こんな時に来なくたっていいじゃない。こんな姿見られたくなかった。
 刻んだチョコを、まな板からザラザラと鍋に落とす。
 ちゃぽん、と跳ねた熱い生クリームが一滴、手に攻撃を仕掛けて来た。
「あつ!」
「あぶなッ」
 ビクッとして落としかけたまな板を、相澤さんが一緒に持ってくれて。後ろから抱きつくように密着した胸板の感触。背中からじわじわと体温が伝わってきて、頭が沸騰しそうに熱くなる。
 好きな人の前でミスばかりした上にこの距離感。いっぱいいっぱいの私の頭上で吐き出された溜息に、情けなくって涙が浮かぶ。
「ご、ごめんなさい。相澤さん、緊張しちゃうのでお仕事に戻ってください」
「嫌です」
「嫌って」
「おっちょこちょいすぎてあなたから目が離せません」
 一緒に持ったまな板は、相澤さんに誘導されてワークトップに置かれた。それで離れてくれるかと思ったのに、相澤さんの大きな手は優しく私の手を握った。両手とも、まな板の左右に押さえ付けられて逃れることができない。
「危なっかしい。無理しなくていいんですよ」
「なっ、なに」
 耳元に寄せられた唇。しっとりと熱い吐息を孕んだ低い声。ぞくりと何かが背中を駆け上る。混乱で頭が真っ白。
「こんなにたくさん作って……みんなに配るんですか」
「あ、相澤さん、あの、耳っ」
「俺のことが好きなんじゃなかったんですか」
「え? えっ、あの、す」
 知ってたの? 相澤さん、待って。相澤さんの匂いがする。長い髪が肌を掠めてくすぐったい。暑い。顔にとどまらず全身がじんわりと汗ばむほどに暑い。
「貰えるのは、俺だけだよな?」
 チョコより甘い声が鼓膜を震わせて、重なった手がぎゅっと握られた。 目の前のお鍋では、あんまり細かく刻めなかったチョコも全部どろどろに溶けている。あぁ、私の脳みそもいまそんな感じ。
「そう、です」
 捻りのない返答に、ふっと笑う吐息が耳輪をくすぐる。ぴくりと跳ねる肩を面白がるように、背中の、いや、腰の密着が、ちょ、わ。
「相澤さん、知ってたんですか」
「知ってなきゃここに来ませんよ」
「うそ、なんで」
「俺も好きだから、見てりゃわかります」
 この惨状を見ても、好きと言ってくれるなんて。
 ようやく離れた大きな手。キッチンと相澤さんに挟まれて、まだほぼ彼の腕の中だけれど、自由になった身体を捩りなんとか見上げる。
「チョコ……うまくできなくても、貰ってくれますか」
「もちろん、俺が全部食べますよ」
 ここのもね、と唇の端に口付けて、相澤さんはニヤリと微笑んだ。

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