敗北のファンファーレ

 二月は、戦いの月だ。
 恋する乙女にとっては、好きな人へチョコを渡す、恋の戦い。男子にとっては、何個もらえるかとか、好きな子から貰えるかという戦い。あとは、他の子よりセンスのいい友チョコを用意したいっていう、見栄の戦いもある。
 先生にとっては。
 先生にとっては、勘違いして告白してくる生徒を、上手にあしらう戦いだろうか。

 敗北のファンファーレ

 手作りした、猫の形のチョコ。ホワイトチョコの白猫、ビターチョコの黒猫、ミルクチョコのトラ猫、全部使って模様を作った三毛猫。四匹のそれらは、シンプルな黒い小さな箱の中で升目に収まって仲良く談笑している。
 いい子にしててねと心の中で唱えて、それをそっと、机に忍ばせた。
「おはよう」
「おはようございます!」
 ガラリとドアを開けて、寝袋片手に登場し、クラス中の視線を集め教壇に立つ相澤先生。安定した眠そうな目の彼こそが、私の猫たちの貰い手、の予定である。
 ホームルームの前に一つ。そう前置きして始まった本日最初の話題は、まさかの内容だった。
「今日が何の日か知ってるな」
「バレンタインです!」
 誰か元気な女の子の声がして、男子も含めてみんなソワソワとした空気になる。浮き上がる教室の雰囲気を、先生の低い声がピシャリと叩きつぶした。
「バレンタインだ。先に言っておくが、俺は受け取らない」
 ガーン、って脳を吹っ飛ばすほどの音が鳴った気がした。漫画なら顔には幾本もの縦線が入って、背景に電撃が迸っただろう。
 なぜに。去年は受け取ってくれたのに。あぁ。なんて可哀想な猫たち。
 ざわめいた女子たちは、なんでー、とか、先生の分も持って来たのに、とかあちらこちらから不満気な声を上げている。この、気軽に文句を言う彼女たちの、一体何人が本気で先生だけのためにチョコを用意したというのだろう。
「やり取りはお前らの中だけで勝手にやれ。これについては以上。さて、連絡事項だが――」
 先生は、理由などの説明はなしに受け取り拒否の姿勢だけを表明して、いつものホームルームが始まった。
 一日の始まりにして、終わりみたいなものだ。今日の目標、先生に猫のチョコを渡す、はそもそも実行不可なのだ。戦わずして敗北。
 とにもかくにも、時間はすぎるし授業は始まる。先生のために成績優秀でいたい私は、泣きたいくらいの動揺を全部押し殺して、教科書を開いた。

* * *

 今日という日は長かった。
 一人きりの自主練を終えた時、教室に猫たちを忘れてきたことに気がついた。今日のがっかりは今日のうちに消化しなくてはいけない。明日また机に手を入れて再度沈むなんて非合理的。
 仕方なく、疲れた脚を叱咤して、静まり返った廊下を早足で歩く。教室はもう電気すらついていなくて、暗く冷たい空気だけが漂っていた。カラリと開けた後ろのドアから、廊下の蛍光灯の光が四角く侵入して私の席を照らす。
 ふう、と息を吐く。そうしないと闇に呑まれて、生きている事を忘れてしまいそうだと思った。ぎい、と椅子を引く音がやけに反響して、増幅した音の振動は心臓まで伝わって来て鼓動を急かす。ゆっくりと腰を下ろして、まっすぐに前の教卓を見つめた。思い出す、朝の先生の言葉。
 先生が、チョコを受け取らない理由はなんだろう。みんなが持って来たような義理チョコの十個くらい、受け取ったところで食べきれない程じゃないはずだ。それとも先生は義理チョコにもホワイトデーのお返しをしなきゃと考えて、それが面倒なのだろうか。いやいや、去年は箱のブラックサンダーが教卓に置かれてセルフサービスだった。もしかして彼女がいるんだろうか。
 それとも、本命を受け取って断るのが心苦しいからだろうか。私、みたいな。
 そうだとしたら防衛策としてかなり優秀だ。完璧に奏功している。今日はマイク先生は大きな紙袋を何個もいっぱいにして歩いていたのに、相澤先生が受け取っているところは一度も見ていない。
 机の中に手を入れると、ツンと指先の触れたそれをそっと取り出した。優しく蓋を持ち上げると、寂しそうに瞳を潤ませた猫たちが私を見上げている。
 せっかく昨日頑張って作ったのにね。先生にピンクのハート柄は似合わないから、あえて真っ黒の地味な箱にしたのにね。一日中この暗い机の中でいい子に待ってたのにね。出番をあげられなくて、ごめんね。
 何も、付き合ってくださいなんて言うつもりはない。そんな贅沢望んでない。でも、ほかのみんなに混ざって、義理ですって顔をしながら、先生にだけ渡せたら。それだけで、満足だったのに。
 蓋をとじて、滑らかな紙の箱に顔を寄せる。あんまりかわいそうな猫たちに、練習の成果だけ披露して、そして、自分で食べてしまおう。
 小さく、息を吸った。
「好きです」
 澄んだ空気を、私の小さな熱が揺らす。ほら。上手に言えたでしょ。この後に、冗談ですよ義理チョコですよ、を付けて、可愛いから食べてくださいって、そうやって、渡す予定だったのだ。
 思い直してみれば最初から、渡したところで何も関係を変化させるわけでもないのだから、渡しても渡さなくても同じこと。そうだよ。渡せなかったからって、だから気持ちを伝えられなかったとかじゃなくて、だって最初から届かせる気もないって思ってたのに渡す意味なんて。
 ぽんと机に箱を置いたのと同時に、ふ、と席を照らす廊下の光が歪んだ。
「まだ残ってたのか」
「ひっ。せ、先生」
 心臓が口から飛び出すかと思った。先生が、開けっ放しのドアに肩をもたれかけて、腕を組んで私を見ていた。
「一人か?」
 鼓動の爆音をかいくぐって、先生の落ち着いた声が私に届く。
「はい」
 固まった喉が震えた二文字を放り出した。
 さっきのアレは、空気に溶けた告白は、廊下まではみ出しちゃいないだろうか。驚きと、不安と、羞恥と、緊張と、あと言葉にならない何かが体を駆け巡って、今にも弾け飛びそうになる。逃げ出したい。
 相澤先生は、組んでいた腕を解いて、ゆっくりと片手を宙に浮かせて、人差し指以外を折りたたんだ。
「それ、誰かにあげるつもりだったのか」
 それ、とは、机の上の箱を指差しているのだから、バレンタインチョコのことだろう。
 先生にあげたかったけど、勇んで持ってきたら受付窓口すら存在しなかったんです。
「そうなんです、けど、あげられなかったんです」
 そうか、と言う相槌は、ただの相槌で、この話に興味があるようには感じられないトーンだった。
「自分で食べるのか」
「今まさに、そうしようと思っていました」
 箱をぱかっと開けて、覗く猫さんは崩れることもなく、ラッピングしたときと同じように綺麗な姿で、私を励ましている。
「よかったら、先生もいかがですか」
 なけなしの、本日朝に砕かれた勇気の残りカスをかき集めて、私は告白の代わりに振り絞る。
 先生は、のそりと教室に入って、私の前の席の椅子を引いて、ストンと横向きに腰掛けた。
「じゃあ、遠慮なくもらうよ」
 その声はホームルームの時より柔らかくて、あったかい気がして、私はじわじわと目にたまる涙がこれ以上出ないように必死に足掻きながら箱を差し出した。
「どうぞ」
 両手で持った小箱に先生の手が伸びる。手のひらが汗ばむ。ほんの少し箱の重さが増して、すぐに最初より軽くなる。先生は、幸運な一匹の猫を摘まみ出して、そして、ふと吐息を漏らした。
「なんだこれ。可愛いな」
 チョコと、それから私を見て、先生が頬を緩めている。
 釘付け、とはまさにこのこと。目を逸らせない。口も閉じれない。
 顔が、馬鹿みたいに熱くなる。
 先生はチョコの愛らしさを目で堪能してから、その子を丸々口に放り込んだ。
 不可能と思われた私の願いが、叶った。
 サクリと、小さな音を立てて、先生の歯によって猫が形を失ってゆく。ライスパフ入りのそれを噛み締めるリズムに合わせて、私の中で渦巻いた何かは、穏やかになってゆっくりと身体に浸透した。
「ん。うまいよ」
「よかった、です」
 差し出したままの箱は再び先生の手で隠される。選ばれしもう一匹は黒猫だった。
「色違いだ」
「それは中にガナッシュが」
「すごいな。誰に渡すつもりだったんだ。勿体無い。こんなにうまいのに」
 先生はもしかして、薄暗い教室でぽつんと座っていた、バレンタインの戦いに敗れたかわいそうな女子を、慰めてくれているのだろうか。
 私に敗北を与えたのも、勿体無いことをしたのも、先生なんですよ。
「誰にって、そんなこと、聞いてはいけませんよ」
「そりゃ失礼したね」
 次にその指先が挟んだのは、三毛猫だった。先生はいちいち、しっかりとその色形を確認してから、ぱくりと口に入れる。
「先生は、どうして、誰からも受け取らなかったんですか」
 もし、彼女がいると言われたらショックだ。別に彼女になれると思ってもいないけど。
 無精髭の頬をもぐもぐと動かしながら、先生は嫌なことを思い出したように眉を顰めた。ごくんと飲み込んでから、その口は渋々開く。
「……去年、ずいぶんたくさん貰って、悪くならないうちにさっさと食べようと思ったら、二キロ太った」
「ぷっ」
「笑うな。二月は特に事務作業が多くて、座ってる時間が長いんだよ」
「ふふ、く、食いしん坊みたいです」
「お前のも食べたからな。お前にも責任が、おい、笑いすぎだ。言いふらすなよ」
「承知しました」
「これだけなら太らないだろ」
 小箱の中身はあと一匹。確かに、これだけならば先生の体重に影響はないだろう。
 さっきまで粉々だった私は、逆転勝利に歓喜している。
「来年も、事前に断るんですか」
「そのつもりだ」
 その理由がまさか太らないようになんて、誰も知らないだろう。いや、マイク先生くらいは知ってるのかも。先生の二月の戦いは体重管理だった。でもその理由なら、今日みたいに、一人分くらいなら貰っても構わないということなわけで。
「来年もこっそり渡していいですか?」
「それは、来年こそ本命に渡しなさい」
「そうですよね。そうします」
 先生は、最後の一つの白猫を口に入れて、ごちそうさん、と席を立った。
「ほら、さっさと帰れ」
 ぶっきらぼうに教室から出るように促されて、猫の代わりに幸せが詰まった箱をカバンにしまって、席を立つ。
「先生、ありがとうございました」
「小腹が空いてただけだよ」
 薄暗い教室から、一緒に明るい廊下に出て、反対方向に歩き出す。足取りは自主練の疲れも忘れている。
 私のゴキゲンな脳内は、来年も恋の戦いに敗北する、楽しい作戦会議を始めた。

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