シット アンド イート

 ほとんど満月に近い綺麗な月を見ながら、彼女のアパートまで歩く。ポケットの中の指先が、手に入れたばかりの合鍵を機嫌良く撫でている。日曜まで働いた後だと言うのに、疲れなど少しも感じていなかった。
 呼び鈴は鳴らさず、鍵を差し込む。ガチャリと簡単に回って、それだけの事で口が頬が緩む。
 玄関のドアを開けた瞬間、香ばしく甘い香りに包まれた。珍しい。お菓子なんてあまり作っているのを見たことがない。ほんの少し踵が軽くなる。自分へのもてなしだと期待したのは、そりゃ当然のことだろ。

##シット アンド イート

「ただいま。いい匂いだな」
「おつかれ、消太。明日用にちょっとね」
 おつかれ、ね。ほんの少し勇気を出して投げた『ただいま』は、あっけなく、いつものあいさつになって打ち返されてきた。鍵をもらったからといって、俺の家ではないのから、まぁ。
 彼女は部屋の真ん中のテーブルで、やたらと真剣に作業に取り組んでいる。ソファにどさりと腰を下ろすと、くつろげたつま先が彼女のお尻に触れてしまって、さっと脚を曲げた。
 ローテーブルには、いっぱいにごちゃごちゃと赤やピンクが散らばっている。ドンと置かれたオーブンの天板には可愛らしいハート模様のクッキーが並んでいた。こいつがいい香りの正体だ。
 その出来に感心する。なんだこのクッキー。普通の丸いクッキーかと思ったら、真ん中がピンクのハートになってる。商品としてそういうものは見た事があるが、まさか家で作れるものとは思わなかった。どうやっているのか想像がつかない。
 それから、小ぶりなビニール袋やリボンが散らばっていて、ようやくピンときた。あぁ、そうか明日はバレンタインか。
「休みだったから、手作りしてみたの」
 じゃーん、と可愛らしくリボンもついた袋を手に持って、ナマエはにこりと微笑んだ。
「アイスボックスクッキーっていうんだよ。金太郎飴みたいに長く作ってカットしてるの。大量生産向きでしょ?」
「へぇ」
 さて、そんな完成品の小袋が随分とたくさんある。この量は確実に俺のためではない。こんなに小分けにする必要があるなら、職場用だろう。透明の袋もハート柄、クッキーにもハートで、そんなにしつこく愛を主張してどうするつもりなんだか。
「うまそうだな。俺の分は」
「う、なんか、形が変になっちゃったのもあって、綺麗なの選別したら、個数ギリギリで……」
 ナマエは苦笑いしながら、天板の横にひっそりと置かれたお皿に視線を移した。
「無いのか?」
「……ハネ品でよろしければ」
 差し出されたお皿の上には、ハートが歪んでいたり、焼き色が濃いクッキーが並んでいた。綺麗に出来たのは会社で配って、ラッピングもされていない不恰好なハネ品が俺に与えられる。まぁ、いいだろう。
 ふん、と鼻をならして、ひとつ摘んでみる。
「美味しい」
「よかったぁ」
 サクッとバターの香るそれはとても美味しくて、もぐもぐと噛むほどに、なんだか悔しくなる。忙しいナマエが休日にわざわざ時間をかけて作ったこのお菓子が、LOVEとか書かれた袋に入って、会社の男どもの手に渡るわけだ。いい気分なわけがない。
「義理っていうか、もはや定例行事として渡すだけで、誰もなんとも思ってないよ?」
 俺の虫の居所を察してか、ナマエは笑い飛ばすように明るく言った。
「そりゃそうだろ」
 そんなこと分かってる。去年はデパートでアソートチョコ買ってたろ。それでいいだろ今年だって。そんな文句は、楽しそうに準備する彼女にぶつける事はできない。
「これ、食べちゃっていいのか」
「どーぞ。コーヒー淹れるね」
 ナマエは全部中途半なテーブルを放置して席を立った。もう一枚、ピンクのハートがすっかり茶色になったクッキーを手に取る。確かに他のラッピングを待っているクッキーたちと比べると、色が濃い。その程度の差を気にして選別しなければいけないほど、会社に配るお菓子が重要なのだろうか。味は抜群に美味しい。
 綺麗にラッピングされたそれらは、まるで化粧をしてよそ行きの顔をしているナマエみたいだ。少し高い服を着て、大事な仕事に向けて武装する。弱いところを包み隠している。
 対して、この不出来なクッキーは、すっぴんでパジャマのままあくびをしているナマエみたいだ。俺にくっついてくる、家限定の姿。
 味は変わらないのに、俺にしか見せない部分がある。配布されないクッキーを食べながら、これを口にできるのは俺だけなんだと、なんとかそこに優越感を見出して自分のプライドを保つわけだ。なんてみみっちい。
「はいコーヒー」
 マグカップを二つ持って戻ってきたナマエが、俺の横に腰を下ろす。テーブルに並んだお揃いのマグ。B級の烙印を押されたクッキー。プレゼントされるための綺麗なクッキー。
「別に味は変わらないだろ」
 ハートの形が歪になっているクッキーを一枚、口に放り込む。
「まぁそうだよね」
 俺の持つ皿に伸びてきた手が一枚攫って、彼女の唇にぱくりと隠される。
 綺麗なクッキーを見ながら、二人でソファに座って、少し焦げたクッキーを噛みしめる。それは、しっかり美味しい。
 同じナマエでも、家でのお前と働いてるお前、両方知っているのは俺だけだ。
 だから何だ。クソ。どう飲み込もうとしても、完成度の高い贈り物を見てしまうとどうにも心がもやもやと晴れない。
「普段作らない癖に、こんなに見栄はってどうするんだ」
「だって、みんな手作りにするって言うんだもん」
 ナマエは唇を尖らせて、するりと俺の隣から降りるとラッピングの続きにとりかかった。一クラス分くらいあるだろうか。たくさんの小袋に分けられて、おめかししているクッキー。その作業を眺めながら、ハネ品はついに全て俺の腹におさまった。
「なくなった」
「あ、ほんと? 珍しいね、お菓子食べるなんて」
 美味しかった。料理上手、家庭的、結婚したい、って、明日これを受け取るやつらが思ったらどうするつもりだよ。
「また作ってくれるか?」
「そんなに気に入ったの? よかった、また作るね」
 その良かったは、会社で配っても恥ずかしくないな、という安心か? それとも俺が気に入って食べたのが嬉しいのか?
「明日、」
 俺には何をくれるのか、そう聞きそうになって口を噤んだ。なんてかっこ悪いんだろう。いい歳して余裕がないにも程がある。
「みんな喜ぶだろうさ」
 努めて普段通り、何でもないように言ったつもりだったのに、ナマエは作業の手を止めて振り返り、じっと見つめてきた。
 丸い瞳に、苦い顔した俺が写っている。ナマエは、ぱちりと瞬きして、そして、ふは、と破顔する。楽しそうに、ニヤニヤと悪戯っこの顔で、俺の膝によじ登ってくる。向かい合って跨って、グーにした手が俺の口に向けられて。
「ね、消太、今の気持ちを一言でどうぞ!」
 クッソ。
「嫉妬した」
「あはは」
 ナマエはけらけら笑いながら、首に腕を回して抱きついてくる。ナマエのシャンプーの香りが鼻先をくすぐって、ため息が出る。小っ恥ずかしくて抱きしめ返す気にもならない。かっこ悪い。
「消太知ってる? バレンタインのお菓子には意味があるの」
 ナマエは肩に顎を乗せて、俺と正反対に機嫌のいい弾んだ声で話す。
「知らない」
「クッキーは、友達でいよう、だよ」
 だからなんだ。そんなの全員知ってるわけでもないだろう。渡すたび説明でもする気か。
「ふうん。俺の分は」
「バームクーヘン買っちゃった」
 それは手作りじゃないのかよ。
「意味は?」
「自分で調べて」
 教えてくれたっていいだろ。もったいぶるな。なんて言おうとした口は、声を出すことなく閉じる。あとね、と彼女が恥ずかしそうに言葉を続けたから。
「明日はね、特別、甘い甘い、私がいますよ」
 はぁ。なんて可愛い宣言だろう。
「……例えば?」
 感嘆の息が漏れそうなのを堪えても、もう声が晴れやかになっていくのは隠せない。
「うーん、例えばぁ」
 ナマエは肩にグリグリと額を擦り付けて、ええとね、と言い淀んでいる。甘い甘いナマエってなんだ。砂糖でも振りかけるのか。
「ギュってしてぇ、とかって、言う感じ」
 チョコみたいに甘くとろけるような声が、直接耳に吹き込まれた。
 言われた通り、その細腰をぎゅっと抱きしめてみる。心は簡単に、うずうずと機嫌を取り戻して、口元は勝手に弧を描く。
 だってきっとこの肩に埋めた顔はちょっと照れているんだろ。普段自分からねだる時は、照れ隠しにどこか乱暴な言い方をするのに。今どれだけドキドキしながら猫撫声でそのセリフを口にしたのかと思うと、可愛くてつい腕に込める力の加減を間違えた。
「くるしっ。消太ぎゅっとしすぎ」
「他には」
「え、他は、えっと、ちゅーしよ? とか」
「なんだ、それだけか? お前の要求ばっかじゃねえか」
 う、気まずそうなとうめき声。一回り以上も小さい背中をゆっくりと撫でる。
「あぁ、本気の甘さは明日までお預けってことか」
「そうだよ、今日はまだバレンタインじゃないんだから」
 その逃げは悪手だろ。
 頑張って仕事して、残業して、会社でかっこいい自分を見せてるお前は、このクッキーだって余裕で作りましたって顔して配るんだろ。失敗作ができたことや、キッチンの汚さや、すっぴんの顔は見せない相手にさ。そんなこと言ったって満たされなかった自尊心は、彼女の強烈な愛らしさでもってあっさりと満たされていく。
 甘い自分をバレンタインのプレゼントだと言い張る可愛さは、俺しか知らない。このプレゼントはお菓子と違って、失敗作も出ない。デパートにも売ってない。確実に俺しか貰えない。
「これ以上は明日になってから、お楽しみください!」
 ナマエはぽんと膝から降りて、キッチン片付けてくる、と行ってしまった。
「手伝うよ」
 その背中を声で追いかけても、いい、座ってて、と片手であしらわれてしまう。上げかけた腰をソファに沈めて、気になったバームクーヘンの意味を検索してみた。

『幸せが続きますように』

 それは、既に今幸せだって意味だと捉えてもいいだろうか。想像していた愛の告白の意味よりも、少し先を行く彼女の想いに、途端にクッキーなんでどうでもよくなる。
「やっぱり手伝う」
「いいってば、今照れてるから来ないで!」
 うん。
 こりゃ明日が楽しみだな。

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