やさしい気持ち

「随分疲れてるな」
「へ?」
 ぱっと気づくと、私は食事中のテーブルにいた。向かいに座って同じく食事をしている消太が、なぜか私のおでこを抑えている。
「食べるか寝るかどっちかにしろ」
「あれぇ〜、びっくり、寝てた?」
「寝てた」
 持ったままだったフォークを置いて、うーんと伸びをする。
「昨日徹夜で……」
 ふわぁと欠伸を手で隠して、残りのご飯を見る。今日はミートソースパスタ。三分の一くらい、残っている。明日に残すと味が落ちる。
「食べたら寝る!」
 フォークを持ち直して、決意を新たに、くるくるとパスタを巻いていく。
 くるくる、くるくる、くるくる、くるくる、
「おい、寝てる」
「寝てない寝てない」
 首を振ってももう限界だ。
「寝なさい」
 もったいない。美味しいのに。
 大人しく頷いて、フォークを置いて、立ちあがろうとしたその時。
 電話の着信音が鳴った。
 テーブルの上で煩いそれには職場の社員用携帯の表示。さっと伸ばした手を、消太が、止めた。
「え」
 無言で、少しだけ眉を顰めたその顔が私を見つめている。今まで仕事に口出した事なんか無いのに、意外すぎて、あと眠すぎて思考が停止する。
「え……出るよ」
「出なくていい」
「でも、きっと出先で困って、」
「出なくていい」
 なんだろう。やけにしつこいな。お互い仕事には口出ししてこなかったのに。攻防の間に、鳴り止んだ電話。
 消太は掴んだ手をそのままに、ふぅとため息をついた。ぼーっと見つめる大好きな顔。顰められた眉は、怒りではなく心配だな、と思う。
「目ぇ覚めたか?」
「……うん」
 どっちの意味? とは聞かなかった。両方の意味で目が覚めた。
「食べるか?」
 消太は手を離すと、私のパスタのフォークを持ち上げる。さっき私が巻いた一口が、口の前に差し出される。
「あーんだ」
「あーんだよ」
 口を開けて、少し前のめりになって、そのフォークにかぶりつく。満足そうにフォークを引いた消太が、次の一口を巻きはじめる。
 自分で巻くより少し大きい一口が、また、目の前に差し出される。
 ぱくり、ちゅるり、もぐもぐ、ごっくん。
 初めてのあーん。自分で食べるより食べづらいのに、なんて美味しく感じるんだろ。消太、今日はどうしちゃったんだろ。
 次の一口を巻いて、持ち上げる。
 ぱかっと口を開けた私を見て、消太は、にやりと笑ってそれを自分に向けた。
 大きく開いた口が、パスタを迎え入れて、薄い唇がフォークのカーブに沿って形を変える。唇を滑る隙間の赤。閉ざされた口の中で咀嚼されて、その度に頬の皮膚が動く。下飲によって喉のふくらみが上下して、それから、赤い舌がちろりと顔を出し、大してソースの付いていない唇をするりと舐めた。
「え、えっち……」
「疲れてるな?」
「疲れてるわ」
 消太は最後の一口と、私の口にパスタを押し付ける。なんだかエッチな目で見られているようで、いや、見てしまったのは私だけど。食べているところを見つめられると照れてしまう。
 パスタは半分くらい消太の胃袋に収まったけど、それでちょうどいいくらいだった。
「寝るか?」
「うーん」
 会社からの電話と消太のもぐもぐで、さっきより目が冴えてきた。お風呂も入ってから寝たい。
「風呂入るか? 沸いてるよ」
「いつの間に。さすがプロヒーロー」
「関係ないだろ」
 消太は、二人分のお皿を下げてくれる。メールが入ってないかチェックしようとスマホを持った私の手は、また消太に捕まった。
「さすがプロヒーロー、素早い」
「これ、禁止な」
 消太はついに、私の手ではなくて、スマホを奪って電源を落としてしまった。真っ暗な画面は、私を急に不安にさせる。
 消太はその無機物をポンとテーブルに置いた。目の前のそれは、電源が落ちているんだから、鳴るはずがない。誰から連絡が来ても私に繋がらない。それはまるで、世界から切り離されたみたいで。
 じいっとスマホを見つめて座り尽くす私に、消太の影が落ちる。長いふわふわの髪が頬をくすぐって、おでこに一つのキスをくれる。上を向けば、疲れた目にも、パスタの味の残る唇にも。
 降り注ぐキスが気持ちよくて、近い息の温度が心地よくて、その手が私のシャツのボタン外していることに気が付かなかった。
 世界から切り離されたのに、消太がいる。
 世界から切り離されたから、消太と二人っきり。
 シャツのボタンが全て外れた。
 この部屋は私たちだけの世界。
 まるで催眠にでもかけられてるみたいに、私の頭はぼおっとして、なんでだか上手く考えられなくなる。
 おもむろに、キスが止んで、背中と膝の裏に手が差し込まれた。
「あっ」
 重力に逆らう不慣れな感覚。いわゆる、お姫様抱っこ。驚いて出た悲鳴に消太は笑った。
「安心しろ。プロヒーローだからね」
 安定感のある逞しい腕に運ばれて、私はお風呂に連行される。ふわふわとバタついた足からスリッパが落ちても、私たちは何も気にしないで、首にぴったり抱きついてお互いの呼吸だけを感じていた。
「立って」
 ぺたんと裸足が冷たい床につく。
 はい、と優しく声がかけられては、腕を上げたり、足を上げたり。
 するすると手際良く脱がされていく。まるで親子のようで、そこに官能は存在していなかった。
 目の前で消太が脱ぎ始めても、それはそれは立派な筋肉にドキッとはするんだけど、私の身体の奥は何もじゅくじゅくとした感覚を生み出さなかった。
「ほら」
 って手を引かれて、湯気の充満した浴室に入る。シャワーは高い位置から、疲れの全てを流そうとしているみたいに肌をぴちぴちと打って流れていく。
 手にシャンプーを出して、それを包んであわ立てて、力強い指先が頭皮を撫でる。
「あ、消太のシャンプー」
「間違えた」
 目を閉じて、嗅ぎ慣れた香りに包まれる。少しスースーしてて、呼吸が楽になる気がした。
 人に洗ってもらうのってどうしてこんなに気持ちいいんだろ?
 頭のてっぺんから、容赦なくかけられるシャワー。だらだらと体を滑る泡。消太の指が頭をかき回すと、私の思考もどんどんもったりと白んでくる。
 なんだかとってもセンチメンタルな気持ちになって、なんだかとっても心が空っぽになった気がして、それは気のせいだよって自分で自分に言い聞かせてみる。
「気持ち悪いとこあるか?」
「んーん……」
「まだ寝るなよ」
 椅子に座らされて、今度は泡のたくさんついた柔らかいタオルが、身体を隅々までなぞっていく。それは、私の輪郭を確かめるような、ぼやかすような。
「きもちぃ」
「うん」
 しゃきっと背中も張れない、猫背に頭を垂れてても、消太は何も言わないで優しく優しく泡を塗りたくる。そんなに優しくしなくても、私の皮膚は破れたりしないのに。
 消太は、私の正面に跪いて、疲れと寝不足で浮腫んだ脚を丁寧に磨いた。足の指の間を、消太の五指がぬるりと出入りする。
 末端から私を解して、愛が、冷え性を無かったことにしていく。
 何もしない私と、私を洗う消太。
「消太ぁ」
「うん?」
「気持ちいいな……」
 何でか分からないけど、突然、ぼろぼろと目から涙が出て、太ももの真っ白の泡のベールに穴を開ける。何で、何も悲しくないのに。
 消太は何でもない事みたいに、うん、って言ってシャワーを出した。
 泡が流れていく。真っ白から少しずつ人間になる。
 流れてく、涙と、お湯とが混ざって、消太はその中から涙だけ掬うみたいに、目尻に唇を寄せた。
 ざあざあと降り注ぐお湯の音と、それから、ちゅ、と甘い優しさの音がして、胎内みたいに安心する。
 涙は、もう、何も考えなくても次々と湧き出してくる。
 湯船におろされても、それは変わらなくて、でも嗚咽も鼻水も出ない、ただ蛇口が壊れたみたいに涙だけが止まらない。
 消太は、髪を洗っている。
「私のシャンプー」
「うん」
 消太は今何を考えているのかな。眠いんだぁって子どもみたいに何もしない私のお世話をして。ヒーローとして市民に献身を捧げて、教師として生徒たちに献身を捧げて、恋人として私に献身を捧げる彼の、心の内側はどうなってるんだろう。
 消太は私を洗った時よりずっと雑に自分を洗い上げて、湯船に入ってきた。脚の間に私を置いて、私の背中にぴったりと肌をくっつけて、腕がお腹に回って、そこにあった私の手を握る。
 あったかいお湯の中で、指先を絡め合う。
 ぐーをして、ぱーをする。
 消太からは私のシャンプーの匂いがする。
 どんどん眠くなる。このままお湯に溶けて、透明になって、消太の表面を覆えたら幸せなのに。
「上がって、髪乾かそうか」
 消太は何の変哲もない普通のことを普通の声で言った。私はそれがとても嬉しくて、また涙が出た。

 消太は私の体を拭いて、それから丁寧にパジャマを着せてくれた。私はまた突っ立ったまま、その全てにゆるゆると応じて、手を引かれてソファに座る。
 ぶおおと音を立てる風が、髪の毛の水分を吹き飛ばしてゆく。指先が頭皮から髪を乱すから、頬に毛束がぺちぺち当たる。視界は髪で薄いカーテンみたいにぐるりと覆われて、外の怖い事全てから隠してくれているみたいだ。
「どうしてこんなにしてくれるの?」
 ぽつりと小さく呟いたのに、消太は、「大したことはしてないよ」と優しい声で答えた。
 それはドライヤーの音で聞き取りづらかったのに、よく消太は私の声を拾ったな。
 私は膝に置いた手を、お風呂でしたみたいに、ぐー、ぱー、ってして、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる髪が乾くのを待った。消太のシャンプーの匂いがたくさんして、消太が空気になったみたい。肺にいっぱいに吸い込むと消太が入ってくるみたい。水の次は空気だ。
「できた」
 普段より少しボサボサで、普段より少し湿っぽくて、普段より私を癒してくれる髪が完成した。
 消太はそのまま自分の頭も乾かして、途中で面倒になったみたいに生乾きで、ドライヤーを片付けた。
 片付けるのに立ち上がったついでに、二本の歯ブラシを持ってくる。
「ほら」
 差し出されたそれを、口を開けて迎えれば、咥えさせてくれる。
 二人で並んで歯を磨く。いつぶりだろう。二人分のしゃかしゃかが小気味よくリズムを刻む。
 消太は先に一人で口を濯ぎに行って、私はそれが寂しくて、ソファからじっと消太の後ろ姿を眺めた。
「すぐ行くよ」
 鏡越しに優しい目が言った。
 それだけで私は安心していい子に待つことができたので、消太は当然よしよしと頭を撫でてくれて、手を繋いで洗面台まで行く。水を入れたコップまで持たせてくれて、歯ブラシは洗ってくれて、至れり尽くせりだ。
 もう、あとは、寝るだけ。
 そう思ったら少し名残惜しい。この、スペシャルな消太が。
 今日の終わりがあまりに名残惜しくて、幼児みたいなわがままを、口にしてみる。
「おんぶがいい」
 ちょっとだけ眉を上げた消太は、ふ、と笑って、私に背中を差し出した。
「お前が飲み潰れた時以来だな」
 そんな事あったっけ?
 広い背中にぴったり胸もお腹もくっつける。お風呂とは逆の位置関係。
 ベッドまでの道のりは短く、だけど私に元気をくれた。わがままを聞いてもらえたという充足感。ふと、甘えることの意味はそこにあるのかもしれないと思った。
「ほら」
 消太は私をおぶったままベッドに座り、そっと下ろしてくれた。
 掛け布団をまくって、消太も寝転んで、一枚の布団に二人で包まれる。
 消太の腕が私の首の下に潜り込んで、もっとこっちにおいでと抱き寄せてくれる。
 消太からは、私の匂いがして、私からは消太の匂いがした。あべこべでごちゃ混ぜで、私たちは今この世界に一つになった気がした。
「おつかれさま」
 ここまで私のお世話を頑張ったのは消太なのに、なぜか消太に労われる。仕事をして帰ってきて、まさか彼女が幼児後退してお世話するなんて、思ってなかっただろうに。嫌な顔ひとつせず、それどころかぎゅっと抱きしめて背中を撫でてくれる。
 また、ぽろぽろと溢れ出した雫を、消太は指先に乗せて「綺麗だな」と言った。
 泣いてばかりで面倒とか、なぜ泣いてるかとかじゃなくて、私はすごくほっとして、もっと涙を生み出してしまう。
 消太は、微睡むまつ毛の間からキラキラと垂れ流れる涙を、幸せそうに笑って見つめている。
「愛してるよ」
「ん……」
 おでこに口づけが寄せられる。
 腕枕をした手が私を閉じ込める。
 スマホは鳴らない。
 明日何時に起きればいいのかも分からない。
 暖かい。鼓動も近い。
 呼吸のリズムが同じになっていく。
 空いた手は、指を絡め合って結ぶ。
 匂いを交換して。
 消太のやさしい気持ちが私に浸透して。
 全部一つになる。
 ずっと、ずっとこうしてたい。
 私は夢に向かって目を閉じた。

-BACK-



×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -