オオカミは明日からでよろしく

 こじんまりとしていながら、雰囲気の良い居酒屋を貸し切って、ヒーロー科教員の飲み会。もちろん、断って帰ろうとしたのだが、たまたまそんな話をしている最中に彼女が現れたもんだから、俺の予定は狂ってしまった。
 山田とミッドナイトさんの余計な計らいのせいで、事務員の彼女が巻き込まれて参加することになって。つまり、端的に言えば彼女に片想いしている身なわけで、ニヤニヤする山田に腕を組まれて俺は居酒屋に連れてこられた。
 のに、そんな事情を全く知らないオールマイトに「相澤くんも参加なんて珍しいね! よかったら――」と誘われ、彼の卓に座ることとなり。
 さすがの山田も、オールマイトさんが嬉しそうに俺の椅子を引いてくれた姿を見て、水を差すような口は無かったらしい。
 俺は意識の片隅で、ミッドナイトさんに付き合って酒を飲んでいるらしいミョウジさんの気配を聞きながら、けれども、貴重なオールマイトさんとの酒の席を楽しんでいた。

「あいざわく〜ん! ちょっとこっち来なさい! はーやーくー!」
 一杯目のビールを空けて、二杯目は日本酒を嗜み、それでもまだ酔うには早すぎる、そんなタイミングで。
 ミッドナイトさんのハイテンションな叫びが、奥に一席しかない小上がりから俺のいるテーブル席まで真っ直ぐに突き抜ける。
「なんなんだ」
 その場にいた全員の視線が、店の奥に向く。嫌な予感に顔を顰め、俺もその全員と同じく、彼女の姿が見えない席を睨んだ。
「まぁ、行ってあげたら?」
 オールマイトに注ごうとした徳利を奪われて、早く行ってあげなと促され席を立つ。
 小上がりの暖簾をくぐると、戸惑う十三号と、まだ素面に近いミッドナイトさんと――。
「見なさい、この完成された酔っぱらいを!」
「あ〜、あいじゃわしゃ〜ん」
 真っ赤な顔で、潤んだ瞳で、へらへらした笑顔を咲かせるミョウジさんがいた。
 普段の清楚な姿からは想像もできない、天真爛漫とも言えるその笑顔。
 本当に、確かに、言葉のままその通り、完成された酔っ払いだコレは。そして息がぐっと詰まるほど可愛い。
「もうこんなになってるって……一体、何飲ませたんです」
 開始早々、と言っても過言ではない時間にこの有様。ミョウジさんがアルコールに弱いのか、それとも無茶な飲み方を強要されたのか。
「何って、私がアルハラしたのが決定してるような物言いは、癪に触るわね。何でもないわよ。ただのミッドナイトスペシャルを一杯」
「それでしょう。なぜ止めなかった十三号」
 びくっと肩を跳ねさせた十三号は、ぶんぶんと両手を顔の前で振って俺からの嫌疑を否定する。
「と、止めましたよ! ただミョウジさんが積極的に、飲むって聞かなくて……」
 この、怪しげな色の液体を、積極的に?
「んなわけ」
「ま、相澤くん、お膳立てはしたんだからうまくやりなさいよ! ふふ! 私たちはあっちで飲みましょ!」
「は? あ、ちょ」
 バシンと手加減なく叩かれた背中が、ジンジンと熱を生む。
 ミッドナイトさんは飲み掛けのグラスを持ってルンルンと、十三号はそそくさと、小上がりから去ってゆく。
 ほろ酔い以下の俺と、ぐでんぐでんのミョウジさん、二人きりのこの状況は、すでにこれだけでマズイんじゃないか?
「へへへ、ミッドナイトさんの言った通りだぁ」
 ミョウジさんは、危険な色したグラスに両手を添えながら、なぜだか嬉しそうだ。
 舌足らずでまったりした口調は普段と違って、目の当たりにしていいものか戸惑うほどに無防備で、こっちが恥ずかしくなる。
「何がですか」
 ミッドナイトさんに何を言われたのか、聞き出したいのに残念ならが、この酔っ払いは会話する能力を失っているらしい。
 んふふ、へへ、と一人で上機嫌な彼女は、俺をトロンと見つめて、隣の座布団をポンポン叩いた。
「すわらないんれすか?」
「……座りますけど、隣で、いいんですか」
「いや、ですか?」
 こてんと首を傾げた上目遣いが、俺の心臓を撃ち抜く。あざとすぎる。血色のいい頬も、不安そうな唇も、うるうるした瞳も、酔っているから尚更な付加要素が多すぎて。ハァ。生徒たちの言葉を理解する。これが、キュンだ。
「いやなわけないです」
 嫌なわけは無いが、酔ったミョウジさんはキュンとする要素が多すぎて、俺の理性が危険だと叫んでいる。
 絶対に、これ以上酒を飲むわけにはいかない。注文だってするもんか。俺まで酔いが回ったら泥沼だ。
 しかし、嫌なわけはないどころか願ったりなお誘いに、抗う選択肢もない。叩かれた隣の座布団(ミッドナイトさんの温もりが残っている)に胡座をかくと、彼女は、目を細めて満足げに微笑んだ。
「ふふふ、あいざわせーんせっ」
 ずいっと顔を覗き込んでくる、無警戒な瞳。甘ったれた声。
 アルコールが香るほど、近い。
 シャンプー? 香水? いつも彼女から香っているいい匂いも、濃くなる。
「っ……なんなんですか……」
 うっとりと、俺の顔を熱っぽく見つめて。誘ってんのか? 俺がミョウジさんを好きだと分かって、面白がってる? ミッドナイトさんや山田から何か吹き込まれたのかもしれない。
 妖艶にすら見える、酒で濡れた唇が、ゆっくりと動く。
「ひげ、すきです」
「は?」
 蕩けた顔が、あまりに近い。
 赤く柔らかそうな唇が、すぐそこに。
 息が止まる。欲望がくすぐられる。
 瞬間、暖簾の向こうの別世界から、ドっと大きな笑い声が聞こえて、俺はなんとか踏みとどまった。
「ちょ、っとは、危機感を持ったらどうです」
 ここは居酒屋で、すぐそっちに教員仲間がいる。そうだ。間違いを犯すところだった。
 もう、声がひっくり返ったのも、思い切り顔を背けてしまったのも、勘弁してほしい。
「あいざわせんせ、てれてるんですかぁ?」
「そりゃ、っ……勘違いされる言い方ばかりしないでください」
 相手は酔っ払いだ。判断能力が欠如して、常識が通じない。そう、つまりこのバグりちらかした距離感も、なんの意味もない。好きなのは髭。そう、ヒゲ。ヒゲだけ。髭が好きなのか。生やしててよかった。
「怒ってるんですか……?」
 人がどうにかどうでもいい事を考えて煩悩を振り払おうとしている時に、そんな縋るような目で見ないでほしい。どうしたって、好きな人にパーソナルスペースに侵入されて、例えヒゲのみだとしても好きなんて言われたら、耐えるためには眉間に皺も寄るというものだろ。
「怒るというか……」
 ふっと、不安に揺れていた瞳は嘘のように無邪気さを取り戻し。
「えいっ」
 俺の頬に、彼女の人差し指が、ぷにっと刺さった。
「っ、あのな、あんた、飲む度にそんななんですか?」
 華奢な手を、言葉の勢いに似合わない丁寧さでそっと払う。普段とギャップがありすぎるだろ。両方素晴らしいが。
「どうでしょう〜」
 へらへらと首を揺らしたミョウジさんは、何を思ったのか、パタリと俺に倒れ込んできた。
「あ、オイ」
「ひじゃまくりゃ! だめ? ですか? 怖い顔」
 やめてくれ。太ももに頬を擦り付けるな。なんて甘え方をしてくるんだ。際どい。可愛い。
「……俺だって怒る時もありますよ」
 人の気も知らないで。
「うぅ……マイク先生はしてくれたのにぃ」
「はぁ?!」
 なんだとアイツ! いつの間に。だとしたらこの席に座れてなんたる幸運。まさか他の男にこんな、いや、女相手でも、この絡みを見たら嫉妬せずにいられないだろ。
 酔うたびにこれか。今後は彼女の参加する飲み会には一つも漏らさず参加しなくてはいけない。
 誰にでもしているなら、俺だって甘えられる権利がある、はず、だ?
 だいぶ思考がおかしい。わかってる。
 わかってるが、あ、腰に腕を回すな!
「なっ、だから、そういう!」
「恋が叶うって……」
 ぎゅっと腹に密着した顔。もごもごと、服越しに送られる声。
 恋が、叶う?
「……」
「のんだら、恋が叶うカクテルだって、いうから、のんだのに、叶ってないの……?」
「は?」
 どうやらミッドナイトさんに、恋が叶う、と吹き込まれて飲んで、俺が拒絶の色を見せると、叶ってないと、悲しむ。
 まさか。つまり。自惚れても、いいのか?
 腹にひっついて、表情は見えない。
 恐る恐る、髪に触れても、セクハラと騒ぐどころか小さな笑い声をあげた。
 するりと髪に指を通すと、真っ赤な耳が覗く。
「あいざわ先生、すき、なんです」
 向こうの喧騒が遠く感じる。
「すき、って、それは……どういう……」
 こんなの、この場面で、好きの意味なんて一択だろう。なのに聞いてしまったから、俺は相当混乱している。ビール一杯と、日本酒少しで。
 ミョウジさんは、腰にしがみついていた腕を解くと、コロンと仰向けに俺の脚を枕にして、俺を見つめて照れくさそうにはにかんだ。
「すき、です。えと、あ、性的な意味です!」
「言い方ってもんがあるだろ」
 思わずベシッと彼女の目を覆う。んきゃ、と手からはみ出した口から可愛い悲鳴が漏れた。
 クソ。顔が熱い。見られたくないくらいに。
「あいざわせんせぇは、すきじゃないですか?」
 俺の手を、小さな手が握って、目が出るようにずり下げる。丸い目が現れた代わりに、手のひらに彼女の唇を感じる。いっそ離してくれ。
「す、すきですけど」
「わぁい」
 やったぁ、とはしゃいで、伸びてきた両腕が俺の首を捕まえに来る。
「やめてください……ッさすがに……こう見えて俺も余裕がないんで」
 どう見えてだ。見るからに余裕なんて無いだろう。
 後ろに反ってかわせば、彼女はきょとんとして。
「おおかみに、なっちゃうんですか?」
「信じられないほどその可能性があるから困ってんだよ……」
 額に手を当てて天井を仰ぐ。
 俺の股ぐらから、ケラケラ笑い声がする。
「んーと、きょーはぁ、おおかみになってくれないんでしゅか?」
 これも据え膳? 確かに、ミッドナイトさんの手によって、俺のために据えられた膳であるからして、頂いて帰るのが礼儀、な、わけあるか。クソ!
「こんな酔っ払いじゃ、ダメだろさすがに」 
 理性を保つための大きなため息。けれど、確実に勝利を約束された恋の結末に、心は弾む。
 もし、もしも、彼女が全て忘れていたら、俺からの突然のアプローチに戸惑う姿が見れるのだろうか。想像するだけでニヤけそうだ。
 瞬きの速度が落ちて、眠そうにしはじめた彼女の頭をぽんぽんと撫でる。意識がどうだって、それくらいは許されるだろ。
「良い子だから、ちょっと待ってなさい」
 えー、とほとんど瞼を閉じながらも、むにっと唇を尖らせる。
 はぁ。早くその唇を奪いたい。
「明日から本気で口説きますんで、そのつもりで」
 微睡みの中まで届いたのか届いてないのか、彼女はむにゃむにゃと嬉しそうに口の中で不明瞭な返事をして、すぅすぅと寝息を立てはじめた。
 ミッドナイトさんと山田には、手段の強引さは甚だしいが、感謝しないことも――。
「ヒュー!」
 背後から、聞き慣れた口笛。
「おめでとー!」
 ハッと振り返ると、暖簾の下や隙間から、あらゆる目がこちらを覗いて、数えるのも面倒な数の拍手が贈られている。
 全員に、見られて――!
「――ッ!」
 声にならない怒声を上げて、真っ赤になって震える俺のあぐらの上で、彼女がふふっと幸せそうに笑った。

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