頬にコーラル、お腹に囁き

「おかえり消太。ねぇ、見て」
 玄関で待ち構えて、帰宅した消太の目の前に突き出して見せた白黒の写真。小さな命のはじまりが、白い丸としてそこに写されている。
 消太は、充血した目を見開いて、ドライアイが嘘みたいに一瞬で目を潤わせて、言葉で確認する前に私を抱きしめた。
 力強く優しい腕に、胸に、隙間なくくっつくと伝わってくる。魂の底から込み上げるような喜びが、二人分シンクロする。
「奇跡みたいだ」
 喉を震わせた低音は、きっと、お腹の中で忙しく分裂を繰り返す細胞の核まで届いて染みただろう。
 消太は、その日の祝杯を最後にして、私と一緒に断酒をはじめた。
 傷つかないための予防線が大好きな私たちは、まだ安定期じゃないし、何があるか分からないし、とそれぞれの心に言い聞かせながら努めて普段通り日々を過ごした。あまりに、嬉しすぎて怖かった。
 消太は、その『何があるか分からない』に含まれる可能性について、たくさんの情報を調べたらしい。ある日、思い詰めた顔で「どちらか選べと言われたら、俺はおまえを優先する」と言われた時は驚いて、そしてケンカになった。辛いケンカではなくて、ただ、愛されているし、愛していることがはっきりと分かっただけ。また一歩、寄り添う心を密にして、そして、消太は私のまだ平たいお腹に懺悔のようなキスをした。



頬にコーラル、お腹に囁き



「おい」
「ん?」
 朝の忙しい時間。消太の地を這う低音が、ドレッサーでメイクをする私の背中を不満げに突っついた。
 ひどい睡魔で布団に引き留められて、さらに嘔吐で時間をロスした私は、焦りながらファンデーションを伸ばす。
「休めないのか」
 腕を組んだ消太が鏡の中に佇んでいる。声の低さは心配からくるもので、怒っているわけではないらしい。
 妊婦になっても働ける謎の自信があったのに、それは脆くも崩れ去った。悪阻はイメージしてた五倍はしんどくて、先週まったくベッドから出られない日があって一日有給を使ったばかり。何より今日は前々から予定していたプレゼンがあるし、起きて動けているのだから行けないはずがない。
「休めないの」
「……顔色、隠せてない。無理するな」
 チークがまだだから仕方ないじゃない。完成すればそれなりに見えるはず。
 私の身体を気遣っての発言だとわかってる。十分わかってるんだけど、叱られているみたいでつい、心に反発の盾を構えてしまう。
 こんなことも乗り越えられない私だと思われてる。赤ちゃんを蔑ろにしてるダメな母親だと思われてる。そんな被害妄想を振り払わなくちゃ、鏡に写った消太の顔すら見られない。
「病気じゃないんだから、そんなに心配しないで」
 アイブロウペンシルを繰り出して、サッと線を引く。
「体調が悪いだけだよ。そんなの、赤ちゃんが産まれてからだって同じでしょ。私の体が辛いからって、赤ちゃん放置するわけにいかないんだから」
 正直、しんどい。今も吐きそう。なんとか飲み込んだゼリー飲料はそっくり戻してしまったし、ベッドに引きこもって眠ってしまいたい。けど自分のすべきことをしない罪悪感だって悪阻と同じくらい苦しいのだもの。
 一生懸命鏡の中の私を整える視界の隅で、消太は組んでいた腕をゆっくりと解いた。その黒い影がふっと鏡の中で大きくなって、ドレッサーの角に手が降りてきて、アイシャドウを手にした私は、瞼の色を変えられないまま消太へと視線を奪われる。
「……俺がいるだろ」
 鬢同士がやんわりと触れ合う。消太は大きな上背を屈めて、私の中途半端な化粧顔の横に並んで、向かい合うことなく目を合わせた。
 眉間に浅く寄った皺が、厳しく優しい三白眼が、どこか居た堪れない気持ちにさせる。
「いや、だって消太はさ」
 私は言葉を飲み込んだ。忙しい、いついるかわからない、いつ出動になるかわからない。戦力に換算して頼りかかるには、あまりに不確定でリスクが高い。ヒーローだから、その事を責めるつもりなんてない。けど今口にしたら責めているようになりそうで。
「外せない仕事もある。それでも、できることもある」
「……」
 赤ちゃんが産まれる前から消太に頼らなきゃやっていけないなら、生まれてからなんてもっと無理じゃない? だって私がお母さんになるのに、お母さんになるためみんな通る当然の道を平気な顔して歩けないなんて、そんなの、そんなのって。
「来年、担任は持たないように外してもらった」
 消太は優しいけど有無を言わさない目をして、私の葛藤を撫でつけた。
「次は病院にもついていく」
「別に一人で」
「俺も、見たいんだよ。心臓動いてるところ」
 黒いまつ毛が伏せって、お腹へ視線がおりたのがわかる。
「楽しそうに仕事するおまえが好きだし尊敬してる。おまえの身体のことだから、できると判断してるならそれでいい。けどな」
 消太は優しい。頼ればできるだけ手を差し伸べてくれると、思う。そうだけど、耳元の声はそれだけじゃないと穏やかに宣言した。
「俺だって今できる限りの父親をやりたい」
「うん……」
 辛い時は頼れと言われたら、一人でできるもん、やれなきゃって感じてしまうのに。消太が父親として張り切って自分のできる余地を探してると思うと、そんな機会を奪っていて申し訳ないような、不思議な気持ちになる。消太に頼るというのは同じことなのに、そもそも頼るという表現から間違いだったような。
「わかった、かも」
「よろしい」
 満足そうに柔く微笑んだ消太の顔は、すっと鏡の上にはみ出して体を伸ばした。
 残された私と見つめ合うと、その顔は強情を絆されて難しく眉根を寄せていて可愛くない。けど、まだチークを乗せてないはずの頬は、さっきより少し血色が良く見える。
「迎えに行くから、早退だろうが定時だろうが残業だろうが、必ず連絡しろ」
「ありが、とう」
 止まっていた手を動かし始めて、はたと気付く。
「あ、電車の時間……」
 パッと時計を見上げると、まだギリギリ間に合う時間。マスクしてってあとは会社のお手洗いで――。
 焦って立ち上がる私の頭を、ぽんと撫でた大きな手。
「電車、辛いだろ。行く時も送るから乗ってけ。毎日送る」
「消太仕事は?」
「授業には間に合うさ」
 自由な校風がウリなんだ、ってニヤリと歯を見せるから、私は消太の本気の片鱗を見た気がしてゾクリとする。
 きっとそのうち、腐るほど余った有給の合理的な使い道を発見したとか、育休取ることに決まったとか言ってくる。
 そんな、幸せの予感がした。

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