足ドン、ハグ、ほっぺサンド、それからキスのハッピーセット

 キャリーケースを引きずって久しぶりに戻った我が家は、懐かしい匂いがした。テーブルの上がゴミで埋め尽くされているけど、想像していたより荒れていない。あぁ、別の女の所に行ってたんだろうなって冷静に思える自分に少し驚いた。
 冷蔵庫を開けてみる。食材は元々そんなに買ってなかったから、萎びて変色したキャベツがあるくらい。買い置きのビールは当然無くなっていた。
 とりあえず何か飲もうかとお湯を沸かしながら、食器棚を眺める。お揃いのマグカップも、お茶碗も、楽しかったはずの日々を置き去りにしないでって叫んでる気がして、急に胸が苦しくなった。
 シューとお湯の沸騰した音だけがよく聞こえる部屋に、ガチャ、とドアの音が響く。誰? 誰って、決まってるか。何で?
「ミョウジ……」
 ひょっこりとキッチンに顔を出したのは、困ったようにヘラヘラ笑う元カレだ。
「なに、してんの」
「頼むから少しだけお金かして!!」
 パンと手を合わせて頭を下げた男に、まじで開いた口が塞がらない。働かずに散々私を財布にして、私のお金で別の女に貢いで浮気して、その上、金を貸せと?
「何言ってんの? 無理、流石に無理」
「仕事見つかりそうだから! 最後だから!」
「やだ。もう、彼女じゃないんだよ、浮気相手にせびりなよ」
 なぁ、頼むよ〜、とキッチンに入ってくる彼にゾッとする。なんだか狭い所が怖くて、やだやだとしつこい媚をあしらいながら、キッチンを出た。彼はぴったりと背後にくっついて追いかけてくる。ペコペコ頭を下げていたお願いの態度は徐々に変容して、苛立ちを表に出し始める。
「お金無いよ。あ、あんたが使ったんでしょ!」
「好きで無職なわけじゃねーって!」
 怖い。鍵を置いて行ったは嘘だったんだ。ハメられたんじゃん。バカだ。後ずさって、逃げたい気持ちから玄関まで来てしまった。私が逃げる気なのを察したのか、ドアまでは行けないように行手を邪魔してくる。狭い廊下で、追い詰められてしまった。どんどんヒートアップする彼は、ついに本気の怒鳴り声になっていた。
「私に頼らないで」
「お前がやめていいって言ったんだろ!」
 振りかぶった腕に、ぎゅっと目を閉じる。バンッ、と大きな音が鳴った。その手は私ではなくドアを叩いた。ビクリと跳ねた肩が、下がらないまま不安に震える。覆いかぶさるような長身に、怖くて見上げる事すらできない。
「やめて、大きな声出さないで」
「お前のせいだろ! 責任取れよ!」
 ピンポーン。
「あ゛?」
 喧騒の中を駆け抜けた一陣のチャイム音に、揃って玄関ドアへ視線を向けた。誰でもいい、助けてほしい。息を吸い込んだ所を、彼の手に口を覆われてしまった。
「んー!」
 宅配かもしれない。新聞の勧誘? 怪しい宗教? もう何でもいい。帰っちゃわないで。
 願いが通じたらしく、鍵をかけていないドアのノブがゆっくりと下がっていく。がちゃりと、控えめな音をたてて開いたドアの隙間から、目つきの悪い小汚い顔が覗いた。
「ヒーローです。怒鳴り声が聞こえましたけど、何かトラブルでも?」
 最近聞き慣れたその声に、腰が抜ける程安心した。何でここに? とか、ストーカーですか? とか、一瞬過ぎったけどどうでも良かった。
 私が口を塞がれて壁に追い詰められているのを見るや否や、相澤先生はズカズカと部屋に入り込んできた。
「ひとんちの痴話喧嘩まで首突っ込むのがヒーローの仕事かよ? 他にすることあんだろ」
 彼はイライラした様子を隠しもせず悪態をついて、けれど私から手を離してくれた。解放された体は、壁に背中を擦り付けながらへなへなと崩れて座り込んだ。相澤先生は普段通り、やる気がカケラも篭ってない目で彼を見つめていた。
「まぁ、普通はしないな」
「は?」
「 ミョウジさんの同僚なんで」
「チッ! てめーも浮気してんじゃねぇか!」
 彼は靴箱の上に置いてあった陶器の置物を掴んだ。
「ひっ」
 投げ付けようと振りかぶった腕が、相澤先生によって止められて、床に落ちた置物は私の目の前で派手な音を立てて弾け飛んだ。初めてテーマパークに一緒に行った時買ってくれた、有名キャラクターが見るも無惨にバラバラになっている。
「相澤先生は、そんなんじゃない。お願いだから出てって」
 私は浮気なんてしてない、なんて言える潔癖な状態じゃないことが悲しい。だってしちゃったもん。そうだよ。やってることコイツと同じなんだよ。何を責められるんだろ。
 相澤先生が掴んだ彼の腕を乱暴に振り払うと、さっきまであんなに威圧的で怖かった彼は、簡単によろけて壁に背をつけた。
「言いたい事は色々あるが」
 両手をポケットに突っ込んだ相澤先生が徐にふわりと片足を上げて、彼の横の壁をドンと踏み締めた。
「とりあえず、通報されたくないなら消えろ」
 悔しそうに歪んだ彼の顔に、複雑な気持ちになる。
「クソッタレが!」
 定番のザコモブのセリフを吐き捨てて、テンプレのように去っていく。あんな人じゃなかった。あんな人じゃなかったの。
 ドアがバタンと大きな音を立てたのを最後に、部屋は静まり返った。さっきまでバタバタわーわーしてたのが嘘みたい。呆然としてる私の目の前に相澤先生がしゃがみ込んで目線を合わせてきた。ちょっと怒った顔してる。そんな顔、初めて見る。怖い。
「何一人で帰ってんですか」
「……もう部屋を出たって、言われたから」
 大きなため息。呆れられてる。バカだと思われてる。じわじわと、目に涙が溜まる。
「危ないって分からないんですか」
 分からないよ。だって彼氏だった人だよ。好きだったんだよ。こんな、こんな風になると思わない、思いたくないでしょ。
「……いないと思って」
 ぽろりと溢れた涙の原因が、自分でもわからない。ぐちゃぐちゃと渦巻く感情にぴったりの名前が見つからない。彼の言葉を信じて油断した浅はかさが悔しいの? 好きだった頃と全く変わってしまった彼の姿にショックなの? 相澤先生が助けに来てくれて安心したせいなの? 
「泣くな。すみません、焦って。言いすぎました」
 今謝るなんてずるい。優しくされたら止まらなくなる。両手で顔を隠したら、ふわりと頭に暖かい手が乗ってきた。大きくて、丈夫そうな、人を助ける手。
「真面目に、働く人だったんです」
「うん」
「辛いって言いながら、自分から一番大変な仕事を引き受けちゃうような、優しい人だったんです」
 だから家でだけ見せる抜け殻のように生気を失った姿に、私が辛くなった。仕事やめてしまえって言ってしまった。辞めてきた時だって、よくやったねって思ったし、私を信頼して頼ってくれてるのが嬉しかった。
「でも、ずっと家にいるうちに、変わっちゃって」
 彼女に養われている状況が彼を焦らせた。私が彼の男としてのプライドを踏みにじったんだ。私が彼をダメにしたのかもしれないという罪悪感が、私が彼の人生を壊したんじゃないかっていう罪の意識が、一番強いのかもしれない。私では彼を救えなかった。助けられなかった。
 頭の形を確かめるように、ゆっくりと手が往復する。
「頑張ったな」
 私の行動を褒めるでも諌めるでもない、ただ認めるだけの言葉が、相澤先生の優しさを表している。あんなにズケズケ来る人なくせに、仔細を知らないことに下手に口を出したりしない思慮深さが、ひどく荒んだ心に染み入る。
「がんばったんですけどね」
「ミョウジさんにしては良くやったんじゃないですか」
「ふ、なにそれ」
 相澤先生のちょっと投げやりな物言いに思わず綻んだ。顔を隠す指の隙間から、差し出されたティッシュが見えて、鼻をすすりながらそれを受け取った。
「上手に慰めたり、励ましたりできなくて悪いな」
 そんなことない。来てくれて良かった。なんでここにいるのかは怖くて聞けないけど。
「……ありがとうございます」
 涙と鼻水を拭いたら、相澤先生は「さて」と立ち上がって私に手を差し伸べた。その手をとって、強く引かれて立ち上がる。足はいつの間にかしっかりと立てるようになっていた。
 私がきちんと立てたのを確認した相澤先生は、まるで業務連絡のように、つらつらと話し始めた。
「合理的に行きましょう。業者には俺から連絡しますんで、部屋は解約。荷物は全部まとめて俺の部屋に送りますから、後から整理してください」
「え? まって、」
 突然の急展開。頭がついていかないって話じゃない。優しいとか思慮深いとかどこに行ったの。さっきまでの柔らかくゆったりとした空気はどこかに吹っ飛んで、相澤先生はリビングへと上がり込んで部屋を見回した。ちょ、部屋が汚いのは私のせいじゃないからね! と意味のわからない言い訳が頭に浮かんで消える。今それどころじゃない。
「善は急げですよ。合鍵の可能性だけじゃない、部屋が割れてるってだけで危険すぎるでしょう」
 まぁ、確かにそうといえばそうなんだけど。だけど、ちょっと。え? 寝室までも遠慮なく物色し、多分荷物の量を考えているんだろうけど、手際がいいな流石頭いいんだよなって感心してる場合でもなくて。
「だからって相澤先生の家に送ってどうするんですか」
「だから、俺のとこに一緒に住めばいいでしょう」
 さも当然、常識、お前思考回路生きてるか、一から説明が必要かめんどくせぇな、と言葉にせずともよく喋っている目がこっちへ振り返る。いやいやいや、誰がいつそう言いましたか。付き合うとかって、決まった訳でもないのに。
「冗談でしょう?」
「冗談じゃないよ」
 うん、確かに、本気の目をしている。ちょっとギラギラしている。気がする。
 相澤先生は部屋を一通り見終わったのか、足を止めて、首に手を当てて視線を彷徨わせた。部屋を物色している時とは違う、何を見るでもない不安定なその視線が、数歩分離れた私にピタリと狙いを定めた。冷静なような、燃えてるような、照れてるような、混乱しているような、不思議な黒の瞳。見つめ合う刹那の一瞬で、私は過集中したみたいにその表情から色々な感情を読み取って、唇がゆっくりと言葉を吐き出すのを予感して、先取りして顔が赤く染まって。
「……好きだから、俺んとこ来い」
 ついに放たれた言葉が、予感より大きな威力でもって心を撃ち抜いてきた。こうなるって思ってたって、こんなの、照れずにいられないでしょ。
「こ、こんなのズルい」
「ずるい?」
「ヒーローで、教師で、顔だってカッコよくて、な、何で私なんです」
 あ、かっこいいって言ってしまった。さっきは小汚いって思ってたのに。なんだこれ。情緒が迷子になってる。
「さぁ……詳しい理由は俺にも分かりませんけど、それが恋なんじゃないですか?」
「はぁぁ?」
 この男に恋というものを説かれるとは思ってもいなかった。数歩分空いていた距離が、一気に詰められる。
「とにかく、諦める気はないんで」
「ちょ、わっ」
 後ずさろうとしたのに、落ちていたゴミ袋につまづきそうになって、よろけたところを抱きしめられてしまった。背中に回る腕が太くて、顔を寄せた胸板がどっしりしてて、びっくりする。なんとなく、あの夜の記憶が、ふわっと蘇った気が。
「キスしたいんでこっち向いてください」
「させません」
 顔を上げまいと、その服にしがみつく。いやこれは逆効果なのか?
「させるだろ。顔赤いですよ。もう、落ちてんだろ」
「イエスっては言ってない!」
 ぐいっと肩を押されたら簡単に引き剥がされてしまって、予想通り真っ赤になった頬を両手に包まれた。無理やり顔を上げられて、バッチリと、好きになっちゃったって言ってる目を見られちゃって、顔から火が出そう。
「目が言ってんだよ。ほら」
「う、や、ちが」
 そうだよ、だろうね、ばれてるよ。目は口ほどに物を言いますもんね。どんどん言葉が砕けて来てますよ相澤先生。こんな感じのテンションでしたっけ。もう意地張っても無駄なんだけど、今元彼と決着ついたところで間髪おかず乗り換えなんてありなの? 間髪おかずどころか一発やってんだからもう気にしたって仕方ないのか。
 相澤先生は口角を上げて意地悪にニヤついてる。餌を前にしてゴーが出るのを待ってる犬みたいに、早く早くと結末へと進みたがっている。
「俺と付き合いませんか。返事」
 頬を包む手に少し力が入って、イエスを促している。
「…………はぃ、んんっ」
 ゴーが出た途端の噛み付くようなキス。散々待てをされて、ようやくありつけた餌に止まらなくなってるみたいに、唇を合わせるだけで終わらなくて、喰んで吸い付いて更に、その先まで求めて舌が唇を割ってきた。これ童貞は嘘だったんじゃないかって思わせるほどの濃厚さに、思わず胸板を殴る。
 ようやく離れた顔は満足そうで、殴られたダメージなんて感じていないみたいだった。いつもよりほんの少し濡れた瞳が、優しく瞬きをして、そして私の頬を解放した。
「さっさと行くぞ」
 スタスタと、持ち帰って来てまだ開けていないキャリーケースを掴んで玄関に向かう。着いて行くことにもう迷ってはいないけれど、その背中に一応問いかけてみる。
「どこに?」
 肩越しに振り返った目は、雄弁に語っていた。
「俺の部屋」
 "早く続きがしたいです"と。

-BACK-



×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -