おでことおでこを合わせたって考えは読めません

 あんな風に言ってさっさと帰ってしまったから、今日は会いたくないと思っていた。そんな日は、大抵話し掛けざるを得ない状況が訪れるものだ。先輩が私の所に書類を持ってきた段階で、嫌な予感はしていた。
「ミョウジさん、この課外活動記録の日付抜けてるから、相澤先生に聞いてきてくれる?」
「……はい」
 なぜ今日に限って。不運な星の元に生まれたことは自覚していたけど、やっぱりかーなんて受け入れられそうにない。職員室への道すがら、受け取った書類の記名を確認して、ため息をつく。あの人。これがわざとじゃないかと疑い始めている。
 職員室に彼の姿は無かった。他の先生に聞いたら、多分校舎裏で生徒の訓練を見ているか、猫に癒されに行っていると教えてくれた。猫に癒されに? 相澤先生の可愛い一面にまた少し胸がときめくのを感じる。あんなにストレートに好意を向けられて、距離感がちょっとおかしいけど、それを差し引いても嬉しくないわけがない。もし彼氏がいなくてフリーで、そんで、あと少し若い頃だったら、簡単に付き合った気がするくらいには。
 校舎裏の森の前に、黒づくめの長身を見つける。生徒はそばに居ないようだった。生徒の代わりに、彼と少し離れた所に猫がいて、距離を保ったまま見つめあっている。
「相澤先生」
 声をかけると、よっぽど猫に集中していたのか、相澤先生は驚いた顔でパッと振り返った。私を見て、彼が心なしか嬉しそうな表情になった気がするのは、もう自意識過剰の域だろうか。
「書類の不備がありまして、確認にきました」
「すみません、こんな所まで」
「いえ。仕事ですから。ここなんですけど」
 書類を横に突き出して見せると、寄ってくる肩に緊張する。書類の内容をさっと読み取ったらしい彼に、空欄を指差した。
「日付が抜けていて」
 指先を見つめて数秒考えた彼は、あー、と当てのない声を出して頭をかいた。
「これは、あの日」
「あの日?」
「ミョウジさんとホテルで目覚めた朝の」
 記憶の連想がそれ。なんて良くない日の書き忘れなの。
「……了解しました、次回から書き忘れないようによろしくお願いします」
 小さな声で、すみません、と聞こえた。昨日のことがあったから、相澤先生も気まずいとは思っていたのかも。選りに選ってあの日の。いや、相澤先生もワンナイトに動揺していて、書き忘れたという可能性も考えられる。
「では失礼します」
「あ、」
 立ち去ろうとした時に声を出されて、はたと見上げる。相澤先生は珍しく、言葉を選ぶように難しい顔をして固まっていた。どうしたんだろう。首を傾げてみると、相澤先生は遠慮がちに口を開いた。
「猫、呼べますか」
 猫。書類ばかり見ていて気づかなかった。相澤先生は開いた猫用のおやつを持っていて、それを私に差し出していた。
「もしかして嫌われてるんですか?」
「……今少しずつ仲を深めている所なので」
 眉をしかめるその顔に思わず笑ってしまった。猫と仲良くなるところって。どれくらいここに通っているのか知らないけれど、相澤先生は猫と仲良くなりたいのか。なんだろう。本当に、意外と可愛いところがあって、そういう一面を見るたびに気を許してしまう。
「猫ちゃん、おいで〜」
 おやつを受け取って、相澤先生の隣にしゃがんで手を伸ばすと、猫はのそのそと近寄ってきた。なんだ、人慣れしてる。撫でてもこちらに無反応でおやつを舐めてくる姿は飼い猫みたいだ。
「人懐っこいじゃないですか」
 ふわふわの顎の下を撫でながら隣を見上げると、相澤先生はむっとした顔をして私と猫を見下ろしていた。この人やっぱり猫に嫌われてるんじゃない?
「俺にも触らせてくれませんか」
「どうぞ」
 相澤先生は猫を驚かせないように、私の横にゆっくりしゃがんで、そして、緩慢な動きで、もぞりと手を出した。大きな手が、猫に向かうと思ったら私の頬に触れた。
「えっ、何して」
 猫の方に俯いて顔にかかってきた横髪を梳いて、ゆっくりと耳輪をなぞるように滑っていく硬い指先に、首の後ろがムズムズする。またこの男は! 距離感全然わかってないじゃない。
「触っていいって」
「猫でしょ、猫!」
 恥ずかしくなって、思ったより大きな声が出た。相澤先生は目を細めてやんわりとはにかんだ。ちょっと照れたように。じゃれあいを喜んでるみたいに。
「冗談です」
 その手は私を離れて、猫を撫でる。相澤先生はとても満足そうな顔をして、ふわふわと、ぐりぐりと、猫をくすぐる。その指先がさっきまで私に触れていたんだと思って見ると変な気分になってくる。
 そしてその表情に驚いた。相澤先生ってあんな風に、柔らかく微笑んだり、するの。貴重なものを見てしまったのではないか。あぁ。おかしい。多分ちょっとハマってる。
「また、食事でもどうですか」
 食事くらいならいいかもって思ってしまう。まだ彼氏との決着がついていないのに。私のこの気持ちだって、彼氏を喪失することでの寂しさが作用して、ちょっと弱ってるところにコレだから勘違いしてるだけだと思う。そうだ。それに、食事なんて行ったら、また前回と同じことにならないか? 心配しかない。
「またお酒飲めばヤレると思ってますか?」
 ついに空になったおやつの袋を、相澤先生が私の手から奪って、代わりにウェットティッシュをくれた。どこから出してきたの、用意周到で素晴らしい。
「……普通に、少しずつ仲良くなりたいんですけど」
 猫、じゃなくて私と。
「そうしないと、突然は付き合えないんでしょう?」
 困ったように、ちらっと私を確認した三白眼は、すぐに猫に視線を戻す。私はといえば、そんな相澤先生に、健気さを感じてしまった。きゅん、だ。これは。
「そうしたって別に付き合えるとか……というか、相澤先生なら他にいくらでもいるでしょう、付き合いたいって言ってくる女性」
 こんな彼氏がいるのにお酒の勢いでホテルに入って記憶なくすような女、相澤先生のようなハイスペック男にどうして刺さったのか。
「ミョウジさんがいいんで」
「そんなに、よくも知らない相手に」
 本当に、業務以外で話したことなんて無かったんだから。手を拭き終わると、ウェットティッシュもするり彼に奪われてしまう。それを目で追って、つい、しゃがんで寄せ合った顔を見つめてしまった。
「身体のことは隅々まで」
「やめてください!」
 ニヤリと意地悪に笑った顔に、健気はかき消された。もう。やっぱり何も反省してない。忘れる約束はどこ行った!
「すみません……正直、浮かれてました」
「え?」
 かと思えば急にしゅんとして、眉を下げる。どうしたどうした。今日は随分ギャップの男を見せつけてくれるじゃないですか。
「こんなに他人を好きになると思ってなかったんで」
 よっこいしょと立ち上がって、私を見下ろすその目が、切なそうに細められる。寒空の下コートも着ない相澤先生は、ちょっと寒そうに捕縛布に首を引っ込めて、手をポケットに突っ込んだ。こちらを見つめる視線はそのままに。
「どうしたら、振り向いてくれますか」
 覇気のない、気怠そうなのにしっかりと耳に届く声が、その発声と正反対の切実を含んでいる。変な気分になる。理由の説明できない申し訳なさが心を蝕む。
「相澤先生が執着するほど素敵な人間じゃありませんよ、私」
 彼に倣って立ち上がる。その目線は、立ち上がっただけでは縮まることのない距離を保っている。
「明確な理由もなく没頭するのが恋ってのを、実感している所なんで」
 恥ずかしげもなく真っ直ぐに。つい先日まで予想だにしなかった猛アタックに、揺さぶられると同時に、やはりどこか信じられないという気持ちが強くて。
「……揶揄ってる、わけじゃ、」
「んなわけあるか」
 突然語気を強めた相澤先生は、眉間に皺を寄せて、私を睨んだ。彼の厳しさを知っているせいで、ビクッと肩が萎縮する。
「はぁ、ここまで言って、まだ伝わんないのかよ」
 盛大にため息を吐いて、ボサボサの長髪をがしがしとかき乱し、舌打ちでもしそうな勢いだ。ちょっと怖い。一歩、彼のブーツが私のパンプスに近づいた。
 皮の厚い指先が、私の顎を捉える。決して乱暴じゃなあその触れ方と、彼の態度との齟齬に面食らって脳がフリーズする。脳だけじゃなくて全身がフリーズする。彼の顔が近づいてくるのを、ただ、近づいて見つめるしかできなくて。
 キスされる、と思ったのに、あ、とか、え、とか焦って漏れる声に、口を閉じることすら忘れていた。
 こつん、とおでこがぶつかる。前髪が押し潰される。瞬きの音まで聞こえそうな距離に、息を止めた。
「本気ですから」
 少し充血した目が、よく見える。脂肪の薄い頬も。ちょっとかさついた唇も。鼓膜を大きく揺らす低音といっしょにそよぐ吐息も。
 至近距離で、数秒か数分か分からない程、時が止まった気がした。ぐっと唇を閉じた彼が、耐えきれないというように、ふっと息で笑って、顔を逸らすまで。
「瞬きくらいしてください」
「や、え、うぅ」
 口元を押さえてくつくつと笑うその顔に、また、変な気分になる。何、今の。揶揄われた? 少女漫画みたいな事しやがって。顔が真っ赤になるのを止められない。
「ドキドキしましたか?」
「し、ません」
 おかしそうに笑う目に、その思惑通り高鳴る心臓をに、もう負けを認めるべきなんじゃないかって思い始める。いや、ほんとに、面白がってるだけなんじゃないかとも、少し思ってる。
「ちゃんと、別れたの、ちゃんとしないと、まだそんな、考えられる状況じゃないんで!」
 足元に向けた視線の先、いつのまにか猫はいなくなっていた。
「その言い方は、期待しますけど」
「……仕事中なんで、失礼します!」
 なにも、次の恋愛という大きなくくりの話で、あなたのことを考えるためにとかそーゆーことじゃないんだからね、と頭の中でだけツンツンして、真っ赤な頬に溜め込んで、校舎に向かって走った。

 その後、彼氏……元カレから、出て行ったから部屋に戻っていいと連絡があった。鍵はポストに入れたって。ホテル生活も終わりそうで安心する。よし、今夜は部屋に帰ろう。

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