かの有名な机ドンですって

 ホテル生活も数日になると、やはり家と違って疲労が蓄積される。睡眠不足という状態異常でミスを連発して、残業になってしまった。一人のペースで作業できるようになった途端、頭に湧き上がるのは、浮気を問い詰めた時の彼の微妙な表情と、相澤先生の低くて甘い囁き。頭がどろどろと渦巻いて、おかしくなりそうだ。集中を欠く原因であるその残像を、カフェインで流し込む。もう今日何杯目か分からないコーヒーのカップは、また空になってしまった。
 パソコンの画面と向き合い、タイピング音だけがカタカタと広い空間に漂っていく。
「お疲れ様です」
 機械的静寂を打ち破ったのは、あの、耳にこびりついた声だった。
 開け放したドアの方へと視線を向ければ、コンビニの袋を持った相澤先生が、ゆっくりと事務室に入ってきた。
「……何しに、来たんですか」
 なんて冷たい態度を取ってしまったんだろう。正直、動揺している。相澤先生が現れた途端、トクンと胸が高鳴った。彼氏との件に決着がついていないのに、おかしいでしょう。
「残業同士、励まし合おうかと思いまして」
 ガサ、とコンビニの袋と一緒に、テストの束を掲げて見せた彼は、私の隣の空席に座った。その袋から、コンビニコーヒーが私のデスクに置かれた。
「ありがとうございます」
 また私なんかに構いに来て残業はわざとですか、なんて嫌味は差し入れのせいで引っ込んでしまった。自分のゲンキンさに笑ってしまいそう。彼の分のコーヒーと、続いてチョコの箱がデスクに置かれる。ガサガサと空の袋を縛ってポンとゴミ箱に投げ入れるのを眺めながら、早速暖かいコーヒーに口をつけた。
「聞いたんですけど、別れたって本当ですか」
 彼の耳に入ることは予想していた。一昨日、ミッドナイト先生に顔色が悪いと心配されて、少し話をしてしまったから。ミッドナイト先生から直接伝わらないにしても、周りでそれを聞いていた人もいただろうし、私も隠しもせず笑って話してしまったから。まぁ当然の流れだろう。
「本当ですよ」
 以前のように、プライベートなことは、と話を切る事はしなかった。何でだろう。別れたと知られて、別れたことを伝えて、私は、その次の展開を望んでいる、のかもしれない。
「それで、落ち込んでるんですか」
「別に、あんなやつ、落ち込んでなんて……」
 嘘だ。睡眠不足になるくらいには気に病んでいるんだから。お金を勝手に使われた事も、浮気も、ショックだった。私だって相澤先生と寝たんだから浮気を責める事もできないか。あの部屋から逃げ出して、彼からの着信も無視して、ちゃんと向き合えないで消化できずにいるのが悪いって分かってる。
「随分疲れた顔してますよ」
 チョコの箱を開封して、ひょいと差し出してくる。その中から一粒受け取って、口に放り込んだ。噛み砕いだアーモンドの香りが口に広がる。
「家に帰れなくて」
「なぜ?」
「別れた彼氏が、出て行ってくれないんです」
 一応、パソコンに向かって仕事の続きを始める。進行は遅々としているけれど、やらないよりは着実に終わりに近づきたかった。相澤先生も、コーヒーの置き場所を端っこにして、テストの採点を始めた。ペンが紙に円を書くシュッシュという音が加わって、少し、タイピングが軽やかになる。
「どこで寝泊まりしてるんですか」
「ん……今はホテルに」
 時々、ペンがキュっと鳴いているのは、不正解の場所だろう。
「ミョウジさんの部屋でしょう?」
「そう、なんですけど」
 作業をしながらの会話は、数秒の沈黙を挟んでのんびりしていて心地よい。無理にいい返答を考える必要もなくて、八割仕事に使っている脳みその片隅で、深く考えずに答えてしまう。最近のやり取りに、相澤先生の意外な一面を見て、少し油断しているかもしれない。
 ペンの走る音、紙のめくれる音、タイピングとマウスのクリック音。BGMの種類もちょうどいい。
「……俺の部屋、来ます?」
 なんだか、相澤先生の冗談みたいにグイグイくるところも、慣れてきてしまった。その中に本気がどれほど含まれているのか。簡単にヤレると思われているだけなのか。
「何言ってるんですか行きませんよ」
 あの夜以前とは違う、どんどん遠慮ない受け答えになってきている。愛想の一つでも付けられない返事は、仕事に意識が向いているからじゃない。私の本性だ。
 相澤先生は淀みなく採点を続けている。
「一度まぐわった仲ですし、問題ないでしょう」
「それが問題大ありな点です」
 男女の共同生活で一番問題ありでしょう。一夜の関係があった相手となんて。間違った道に進むハードルが低すぎる。
「あの夜は、どこが一番気持ちいいかも全部教えてくれたのに、今更何を遠慮してるんですか」
 ちょ、っと待て。
「ちょ、そ、忘れるって約束! お、お酒のせいですし、それとこれとは話が別で」
 作業なんて続けられない。いっそ立ち上がって逃げたいくらい恥ずかしい。相澤先生はなんでもない事みたいに、しれっと私を一瞥して採点を続けている。え。あ、あなたの爆弾発言でこっちはこんな心を乱されているんですけど、自覚されてない?
「でもあの時と違って、もう彼氏と別れたんですよね?」
 キュ、キュ、と連続でバツがついていく答案。あぁこの子点数ヤバそう。かわいそう。相澤先生はため息をついてその答案に点数を書き込んだ。
「……まぁ」
 相澤先生の方を向いていた顔を、パソコン側に戻す。私の手はキーボードの上に乗っているだけで動かない。
「何の問題があるんですか」
 彼氏と別れた私なら家に連れ込んで良い思考回路に、その常識だろとでも物言いに、私の感性が間違っているんじゃないかと自信がなくなってくる。
「……誰にでもそうやって、簡単に抱いて家に招いてるんですか」
 彼の中ではそれが今までまかり通ってきたのかもしれない。そりゃあ、ヒーローで教師で高身長でイケボでチャラチャラしてなくて実は顔だってイケメンで、こんな人に迫られたら大抵の女性は喜ぶだろうよ。ただ私はもう、遊んでる時間はない年齢だし。
「あなただからですよ」
 そうやって恥ずかしげもなく言うところが、経験値豊富そうで。真面目でストイックで異性への興味が薄そうっていう最初の印象は全く覆ってしまった。
「慣れてるじゃないですか」
 コーヒーに口をつけた。インスタントよりずっと風味豊かなそれが、さっき食べたチョコの甘さをスッキリ流していく。
 相澤先生は、ついに手を止めて、ため息をついてペンを置いた。まだ未採点のテストが残っている。終わったわけじゃない。
「慣れてるわけない。あの夜……はじめてだったんです」
「は?? 何がです?」
 飲み込んだ後でよかった。タイミングが悪ければコーヒーを吹き出すところだった。はじめて? 初めてとは。お酒の勢いでホテルになだれ込むのが?
「そこも覚えてないんですね。だから、俺は童貞だったのであなたが色々と――」
「ちょっと待って」
 ど、童貞? え? そーゆう初めて? 聞き間違いかもしれない。ちょっと待って。何それ。相澤先生って何歳? ええと、私、酔っ払って相澤先生の童貞を貰っちゃったの?
「今までそんなに興味なかったんですけど、なぜか」
 そりゃね、えーと何歳、28? 29? もうすぐ魔法使いになっちゃうもんね。本当に、童貞だったの? ほぼ覚えてないけど、でもすごく良かったような気がしてるのに。
「な、え、酔っ払った女で童貞捨てたかっただけってことじゃないですか」
「いや、違います」
 童貞捨てたら、初体験の刺激で感覚おかしくなったとか。好きじゃなくても初めての相手って特別記憶に残るって言うし。
「ハジメテだったから、好きとか関係なく私に執着してるだけじゃないですか?」
 相澤先生は心外そうに眉間に皺を寄せた。ちょっと下唇を突き出して、何それ可愛い。
「まさか。好きだって言ってるでしょう」
「はぁぁ」
 ため息とも相槌とも取れないような変な声が出た。なにこれ。童貞だったとか、唇尖らせて不満そうにしてるとか、なんだか急に可愛い生き物に思えてきた。間違わないで私。こいつは180センチを超える髭面のボサボサ頭。
「まぁ、あの飲み会までは興味無かったんですけど」
「ほらぁ!」
 やっぱり勢いでヤってそれが1人でするより良かったとかその程度。初体験したら猿みたいになる10代男子と同じじゃないの。やっぱり、この人の言っている好きは、恋とかと違う気がする。まさか、初恋とか言わないでしょうね。けどその程度の経験値なら、絶対に何か脳内で勘違いが起きてる。
「彼氏の愚痴を言うあなたに、ぐっとくるものがあって」
 愚痴ってグッとくるって何? なんでそこでちょっと頬を赤らめるの。この人の照れゲージはどこで振れるの。
「彼氏がお金使い込むのに愛想つかさないで」
 ちょっと待って私そんなことまで話していたなんて。愚痴の内容すら可愛くない。別に自分を可愛く見せたいと思っているわけじゃないけれども。
「仕事で悩む彼氏に、仕事辞めていいって言ってしまう、度胸とバカさがあって」
「バカって……!」
「健気で可愛いくて、真面目でバカで、愛おしいなって思ってしまったので」
「いい加減にしてください!」
 初体験の後、頭の中でそう理由づけたんでしょう。後付けで。ストイックな最初のイメージは確かにあってたわけだ。あまりにストイックでこの年齢まで童貞で、それを酔っ払った私が奪っちゃって、うっかり心まで奪っちゃったわけだ。それは恋じゃない。そんなの。
「私、次はちゃんと、結婚を考えられる人と付き合いたいんです。お酒の失敗から始まる恋なんて、そんなリスキーな恋愛する体力もう無いんです」
「本気ですよ」
 真剣な目をしないで。かっこいいって思っちゃうから。
「童貞捨てられてよかったじゃないですか。それだけ、それだけですよ。ちょうど良かったですね、私も好意なんか無くて、それでもやれちゃう女なんですよ」
「……ハジメテだったんで、こんなに、女性を求める気持ちが……。強引すぎたなら反省します」
「わ、わけわかんない」
 うっかり、トキメクところだった。このまま一緒にいたら、このままの調子でこられたら、私が本気で好きになる。そしたらその後この人は、恋が勘違いだったって気づくんだ。初体験の盛り上がりだけだったって、気づくんだ。
「反省してるなら、忘れて、仕事以外で関わらないでください」
 またキーボードを叩き始めた指はさっきより少し力が入って、音が大きく響く。相澤先生も採点を再開した。するすると紙の上を滑るペンが、慣れたように歪な丸をいくつも生み出していく。
 突然の沈黙に、作業は驚くほど早く進んだ。頭がもう、相澤先生の事を考えるのを拒否して、全部仕事に集中したせいだと思う。ぱたりと言葉の途切れた半刻程の間に、みるみるうちにタスクを消化していく。しばらくすると、相澤先生は先に採点を終えたようで、プリントをトントンと揃えて立ち上がった。コーヒーのカップを捨てた彼が席に戻ってくる頃には、私も仕事が片付いていた。
「終わりました?」
「はい。終わりました」
 パソコンをシャットダウンして、よし、と息を吐いた私に突然影が降りた。未だマウスに乗っている私の手の横に、相澤先生の大きな手がぺたりと置かれる。頭の上に感じる捕縛布の感触。明らかに距離感のおかしい彼の呼吸が耳に届く。
 どうした。何ごと。
「近い、んですけど」
「……忘れたら、いいんですか」
 背中が熱く感じる。忘れたらいい。どうか平穏な日々に戻って欲しい。
「そうしてくださると助かります」
 相澤先生はため息で私の髪を揺らした。
「忘れられなくて困ってるんですけど、努力はします」
 なので、嫌いにならないでもらえますか、と続けた彼は、私の飲んでいた空のコーヒーカップを持って、背後から離れた。ゴミ箱にカップを捨てた音がする。
「嫌いにはなりませんから、ただの教師と事務の関係でお願いします」
 立ち上がって、コートとバッグひっつかむ。できれば赤くなった頬に気づかれないように、彼に背中を向けたまま。相澤先生はテストを置きに職員室に寄らないといけないだろうから玄関まで追いかけてこないはずだ。
「コーヒー、ありがとうございました」
 バッグから財布を取り出して、ちょうど良く入っていた五百円玉を相澤先生の採点済みテストの上に叩きつける。
「お先に失礼します」

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