腕ゴールって初耳です

 お昼の休憩で手早くおにぎりを食べて、私は仮眠室に来ていた。もちろん、寝るために。
 昨日彼氏と別れてから友達にそれとなく連絡を入れたら、彼氏と同棲が始まったところ〜と幸せな報告を受けた。まさか、彼氏と別れたから泊めてくれとか言うこともできず、そしてそれに打撃を受けて他の友達に連絡を取る気力が失せて、ビジネスホテルに泊まった。けど、全く眠れなかった。
 仮眠室のベッドに潜り込み、瞼を閉じる。彼はいつごろ部屋から出て行ってくれるだろう。たぶんもう一度話し合いが必要なのかも。面倒だな。面倒なのか、裏切られた事実を心が整理できていないだけなのか。考えているうちに意識は遠のき、私の脳は休息を貪った。
 ピピピ、ピピピ、とアラームが鳴り、意識が浮上する。あぁなんだか思ったよりとても深い眠りがとれた。んだけど、私がスマホを探る前に、アラームの音が止まった。
 ぼんやり目を開けると、天井をバックに、もさもさの髪の奥から私を覗き込む髭面が。
「わ、」
「こんな所で昼寝なんて、珍しいですね」
 ちょ、ちょっと寝起きにこれは怖いよ。相澤先生は私を見下ろしたままそう言った。何の興味もなさそうな目をしているくせに。
「……ちょっと寝不足だっただけです! ってか何覗いてるんですか!」
 非常識極まりない。カーテンしていたのに、寝ている異性のベッドを覗きに来るなんて! 距離感バグってるレベルの話じゃない。こんなの、襲われそうになったとか上に報告されても仕方ないってくらいでしょう。寝顔見られた恥ずかしい、とかいう思考にすらならない。引く。
「俺も仮眠してたんで、そろそろ起きないと休憩終わりでしょう」
 アラームセットしてたなら起こす必要無かったですね、なんて、彼としては親切のつもりでカーテンの中へ侵入して来たらしい。優しいのかなんなのか、わからなくなってきた。
 乱れた髪を撫でつけながら体を起せば、相澤先生はゆらりと一歩下がって捕縛布に口元を埋めた。
「原因は彼氏でしょう」
 一度彷徨った視線が、私の反応を読み取ろうと戻ってきた。飲みながら彼について愚痴った事を言ってるんだろう。彼はまだ別れた事まで知らないもの。ていうか彼にこの話は何の関係もない。人のプライベートにずかずかと、デリカシーが無いとは思わないのか。
「だったら何です」
「俺に乗り換えませんか」
 サラリとそんな事を言う彼に、ぎょっとする。この男は、さんざん非常識な絡み方しておいて、私と付き合いたかったっていうの?
「……ません」
 第一、ワンナイトきめてからずっと印象悪いわよ。塩対応で目を細めて答えれば、どことなくしゅんとして見える。どこかと言われれば、どこがどうしゅんとしてるのかは説明できないけれど。
 ベッドから降りようと、横向き座って、つま先で靴を引き寄せて足を入れる私をぼんやり見ながら、相澤先生はしばらく黙って、ぽつりとまた言葉をこぼした。
「あの日の話、ミョウジさんが覚えていない時何をしてたか、興味あります?」
「私、よっぽどあなたに、何か勘違いさせるような事したんですか」
 そうだ。相澤先生のこのおかしな態度は、私が原因なのか。私のせいなら仕方ない。とってもスタイルが良いわけでも、顔がとびきり美人でもない私が、何がどうこの無欲冷徹そうな相澤先生に響いたのかは興味がある。
「どうでしょう、俺も煽りましたし、ミョウジさんが誘ってくれて、お酒のせいだって分かってて乗りましたから」
「私から誘ったって、どんな風に、ですか」
 もういっそ全部聞いてしまえと思ったけれど、この質問はパンドラの箱だったかもしれない。靴を履き終わっても視線をあげる事ができなかった。ただ、癪に触るんだけど、相澤先生の声はとても落ち着いていて、寝起きの頭に心地いい。
「彼氏がヒモで、そろそろ別れるような話から……けど彼氏と身体の相性はいいとか言い出して」
「はぁぁぁ」
 私は何を言ってるんだ。お酒のせいとはいえ、もう、自分で自分が残念でならない。彼氏との夜の事情まで話してたの? あの場にいたみんながもしかして知ってる? 最悪。
「もっと相性がいい人がいれば別れるんですかって」
 というかこれは事務の先輩と話していたと思っていたのに。相澤先生も会話に入ってたの?
「私、なんて答えたんです」
「それだけが重要なわけじゃないとか、そんなの確かめようがないじゃないか、とか」
 そりゃそうだ。彼氏がいるのに、もっと体の相性がいい人を探すとか頭がおかしいでしょ。しかも付き合う前に体だけの関係って、不純にもほどがある。いや、やってしまったんだけども! しかもこれじゃあ私が体の相性が最重要項目として男を選んでいる淫乱女みたいじゃない! 嘘でしょ! あぁああ。
「それで、俺もまぁまぁいい体してますよって」
「どうしてソコでアピールを?!」
 思わず顔を上げると、相澤先生は一瞬その三白眼を見開いて、意地悪に目を細めて続けた。
「それで、ミョウジさんが、じゃあ試してみます? って言ってきて」
「あああもういいですやめてください」
 た、試させて? どうなってるの私の思考回路。ショート寸前どころかぶっ壊れてる。もうお酒は飲まない。一生飲まない。恥ずかしいどころじゃない。こんなの痴女でしょ。
 顔は赤くなって、しても遅い後悔と、目の前にいる彼は私の全部を見たのだという事実が、今になってようやく鮮烈になる。
「相当酔ってて、ヤケになってるみたいでしたよ。俺は、実はそんなに飲んでなかったので」
 嘘。同じくらい飲んでると思ってた。じゃあ全部覚えてるの? だからって、忘れるって言ってくれたのに、こんな風に態度を変えられては困る。お酒による一夜の誤ち。そうだよね? こういうのはお互い、綺麗さっぱり忘れて、業務に支障なく、周りに悟られる事なく、それが大人の対応ってもんじゃない?
「私が、そう、誘ったならそれはすみませんですけど」
 彼のいう通り私から誘ったにしても、もしかして彼が強引に進めたのだとしても、お互い不利益を被ったわけでもないんだから、そんなのは全部水に流してしまうのが正解じゃないの?
 チャイムが鳴る。昼休憩はもうすぐ終了する。仕事に戻らなくては。
「一度寝たからって、我がものヅラで急に馴れ馴れしくしてくるなんて、相手を間違えました」
 スッとベッドから立ち上がり、ドアを目指して、彼の横をすり抜けようと歩き出す。突然、目の前に伸びてきた腕が行く手を塞ぎ、私の体は勢いを殺せずその腕に捕まってしまった。たくましい腕に阻まれながら。驚いて見上げた相澤先生の、顔が近い。
「俺は、ちゃんと、好きになったから乗ったんですよ」
 無気力で眠そうな、なのに熱を孕んだ瞳から、目を逸らすことができない。私の中の何かがゆっくりと、その熱を吸収して、腕を避けようと添えた指先がじんわりと熱くなる。
「……失礼します」
 返事が見つからないまま、私はその腕から抜け出して、仮眠室を飛び出した。
 好きになったって、ちゃんとって、何? それもう告白じゃん。体の関係だけじゃない、それ以上を求められている? そんな事あり得ない。あの相澤先生が。デリカシー無しの合理主義者が。この気持ちは何。あんな、甘く、溶かすような低音で囁くのがいけないんだ。

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