私とヒーロー

 車出せないから待ち合わせでいい?
 朝からそんなメッセージが届いて、私は駅前にやってきた。ピークを過ぎた夏の陽射しは、それでもまだ肌を焼くように強烈で、立っているだけでじんわりと汗をかく。少しでも日陰を探してみたけれど、暑さの軽減効果はあまり無い。
 待ち合わせて出かけるのは初めてでそわそわしてしまう。休日の駅前は特に待ち合わせをしている人でごった返しているし、ここでちゃんと会えるだろうかとか、彼は目立ってしまわないだろうかとか。
 スマホを見ると、眠れたか疲れてないかと聞いた後に送られて来た大量の大丈夫のスタンプが目に入って頬が緩む。昨夜ヒーロー活動でラジオに遅刻した彼に気を使ったつもりだったけど、バリエーション豊富な大丈夫に、私は笑って心配を引っ込めたのだ。
 スタンプを押し上げるように、着いたよ、とメッセージを送る。すぐに「一分待って!」と返事が来て、私はあたりを見回した。
 見つけた。たぶん山田くん、の頭のてっぺんが、するすると人の波間を縫ってこちらにやってくる。帽子から出た前髪をサッと手直しして、バッグを持ち直して、そして目の前に現れた山田くんに目を見開いた。
「ハァイ」
 右手を軽く上げて愛嬌のある笑顔をくれた彼の、もう片腕が、包帯だらけで吊られている。
「ちょーっとした軽いやつだから!」
 軽けりゃこんな事にならないでしょう。
 山田くんはアームスリングの中で、包帯ぐるぐる巻きの左腕をひょこひょこ動かして見せる。
 わあダメダメ、と首を振って手を伸ばす。自分が大きな怪我をしたことが無いから、どんな力加減でその腕を落ち着けたらいいのか、ビクビクしてしまう。包帯から出た指先をキュッと握って捕まえると、山田くんの熱い手がそっと握り返してくれた。
「大げさなんだよ、見た目がさ! 大した事ないから! ダイジョーブ!」
 ヘラヘラしながら、私の指を握ったり緩めたりして大丈夫をアピールしている。そんなに動かしていいものなのか、心配が先に立って言葉が出なくて、顔が暗く強張ってしまう。
 安静にしなくていいものなのか。私が、彼との時間を楽しみにして土曜日の予定を常に空けるようになったと知って、山田くんはデートに責任を感じているんじゃないか。
 こんな状態で無理して、って強く見つめると、山田くんは短い眉をぎゅっと寄せて大げさに悲劇ぶった。
「ミョウジサンに会わない方が無理! どうせ寝てたって治りは早くならないんだから、怪我した俺を励ますつもりで一緒にいてくんねェ?」
 ずるい言い方。
 昨日のラジオでは元気そうだったのに、彼は怪我をしたままあのトークをしていたと言うことになる。痛みとか、疲れとか、ほかに怪我は無いかとか、気になる事はたくさんあるのに。
 私も会えるのを楽しみにしていて、なのにこんな怪我した彼を連れ回すのは申し訳なくて、昨日の夜どんな戦いを切り抜けて来たのか心配で、私と会いたくて一緒にいることで励まされるって言ってくれた事が嬉しくて。帰りたくなったわけじゃない。でもその腕を気にしないでいられる程、彼に無関心じゃない。
 難しい顔で固まった私を覗き込んで、山田くんはサングラスの奥で目を細めた。日陰の中でキラキラと瞳が輝く。
「車出せなくてゴメンな、暑いよな」
 車はどうでもいいけれど、包帯だらけの彼はさぞかし暑いだろう。ああ、そうだよ、もう来てしまったんだから、心配をぶつけるより先に彼を涼しい場所に移動させるなり、怪我人への気遣いをすべきだった。
「とりあえず、行こーぜ」
 困ったように微笑んで、彼の右手がぱっと私の手を取った。誘われるまま踏み出した足に合わせて、繋いだ手が大きく前後に揺れ、ぬるくベタついた微風が二人の間に生まれる。
 何事もなければ、気持ちが上擦って照れたりするかもしれない、優しくて大きな手。
「今日は、俺オススメのレコードショップ兼カフェに連れて行こうと思ってまーす」
 ルンルンと弾んだ声は、本当に怪我なんか気にしていない様子で。
「隠れ家的な感じでさ、アンティークな雰囲気おしゃれだし、好きなレコード聴かせてくれるし、それにパスタが美味しいんだ。んでレトロテーブルゲームが置いてンの!」
 半歩先ゆく彼は、そう言ってちらりと振り向いた。その顔は優しく微笑んでいるようなのに酷く不安げで、胸が詰まる。私の方が心配してるのにそんな顔されたらたまらない。
 私が嫌なのは、山田くんが大切だからだ。仕事柄慣れっこの怪我だって、私には心配させてほしい。無理しないで、大変だったんだぜって聞かせてくれてもいいのに。怪我してデート先まで考えて、明るく振る舞ってエンターテイナーしなくていい。私は――。
 胸にいっぱいに膨らんだ、名前のわからない感情が渦を巻く。
 それを吐き出すには、完全にタイミングを逃してしまった。繋がって揺れる手、ペースを崩ずさない足並み、立板に水のごとく述べられたデートプラン。声が出たならば、このまま、歩きながらぶーぶー文句を言うのだろうか。怒っているのか甘えているのか分からない声色で、ちゃんと休んでって、彼を心配することができるのだろうか。
 今はただ、とりあえず早く涼しいカフェに辿り着いて彼に休んで欲しくて、私は心配をゴクリと飲み込んだ。
「声が出ないからって、遠慮してンのか?」
 真面目なトーンに切り替わった山田くんの声が、肌を焼く日光みたいにじわりと私の思考を熱して絡みつく。
「それともォ、俺が有無を言わせない雰囲気にしちゃった?」
 冗談めかすのに失敗して、その語尾からは寂しさが滲んでいた。
 声が出ないから、発言のタイミングを逃すことも、全て伝えるのを諦めることも、私にとっては日常茶飯事だ。逐一気にしていたらキリがない。それに、私自身がなんとも思っていない。そんな当たり前のこと、山田くんが気に病む必要なんてない。
 大きく揺れていた手が、少しずつ元気をなくして繋がるだけになる。
 山田くんが特別上手に私の感情を読むから、だから今まで飲み込む機会が少なかっただけで――。いや、彼が、必ず私に発言の機会をくれていたのだ。
 山田くんは、私と反対方向に視線を飛ばしている。
 わだかまりが熱せられて爆発しそうだ。色素の薄い髪が揺れているのを、ただ眺めて歩くには限界だった。
「なぁんて、」
 全部笑ってナシにしようとした山田くんの手をクンと引っ張って、不規則に踵を鳴らす。止まって振り向いた彼のサングラスは反射して、その目は見えない。解けた手でスマホを持ち直し、私の指先は時間をかけて、テンポの悪い不器用なコミュニケーションを試みる。
 ――ラジオ聞いてたけど、怪我してるなんて全然分からなかった。ヒーローもDJも頑張ってて、かっこいい。
 やっと突き出したスマホ。山田くんは安心したようにふにゃりと笑った。
「かっ……そ、ラジオ聴いてくれてアリガト。怪我には触れないように言ってあったからサ。元気に聴こえてたならよかった」
 かっこいいよ。プロだなって思ったよ。けれど。文章を消して、打ち直す間、彼は黙って私を待った。
 ――でも、びっくりしたし、今も心配。
 ――私にも、怪我のこと隠したかった?
「それは……」
 だから、会うまで言わなかったのかな。そう思うと、私は何扱いなんだろう。車を運転できないとゴメンってなるのは、私はやっぱり山田くんにとっては、一人の弱い助けるべき市民だから? 怪我を言わなかったのは、ラジオを心置きなく楽しんでほしいいちリスナーと同じってこと? 私は山田くんを、一緒にいて楽しい仲のいい友達だと思えてたけど、山田くんにとっては、私は。
 ――私の前にいるのは、DJ? ヒーロー?
 山田くんが声を失って、一瞬息を止める。引き結んだ唇は、むにむにと徐々に尖がって、眉間には薄く皺が刻まれた。
 サングラスで隠れていても、綺麗なグリーンが溢れそうに揺れている気配がする。
「だって、先に言ったら、会ってくれないカモって思って」
 見上げた長身の先で整った顔が子どもように拗ねた顔して頭をかいている。
「ミョウジサンの前にいるのはね、こんな姿見せたら心配かけるって分かってンのに、それより会いたいが先行しちゃう、情けない山田ひざしなんですけど」
 突然、膝を曲げて私より少しだけ低くなった彼は、あざとくもサングラスの上の隙間から緑の瞳を見せつける。
「ダメ?」
 顔が熱くなるのは夏のせいじゃない。
 首を振れば、にっこりと口角を上げた山田くんは、んじゃ行こ、歩き出した。
 今度は繋がれない手が、少しだけ寂しいと思ってしまう。
 つまり、そういう事だ。
 なぜ、私が彼の怪我に、繕われたことに、もやもやしたのか。私はいちリスナーじゃ嫌だったんだ。ようやく理解した。
 私は、山田くんが好き。ヒーローとしてじゃない、DJとしてじゃない。山田くんが好き。
 歩きながら、彼は昨日怪我をしたときの事や、ラジオのスタジオに向かう移動中の話をしてくれた。リスナーの悪ふざけは元気を貰ったけど、あいつら調子乗りすぎ、なんてとっても嬉しそうに話すのだから私までニヤニヤしてしまう。
 古くて小さな雑居ビルの二階、ちょっと入りにくい雰囲気の場所にレコードショップは存在していた。ジャケットが見えるように壁にびっしりと飾られたレコード。アナログ音源ならではのトゲのないBGM。いい意味で古臭い木のテーブルと、オレンジ色の照明が落ち着いた空気を作っている。
 素敵だねと微笑むと、彼は、気に入ってくれてよかった、と微笑みながら空いている席へとエスコートしてくれた。店員さんさながらにメニューを開き、おすすめのパスタやパンケーキのプレゼンが始まった。何度も来ているのか、店員さんとも手を振りあっている。
「がっつりランチにしちゃう? スイーツ系にする?」
 意外とたくさんのメニューに目移りしてしまう。ええとええとと悩む私を、山田くんは楽しそうに見つめて急かすことなく待ってくれた。迷った末、お店で焼いたベイクドチーズケーキが美味しそうで、ケーキセットを指差すと、OKと彼が注文に席を立つ。あ、私が、と制止する前に、彼は「座ってて」と私の頭をポンと撫でて行ってしまった。
 このビルの前は何度も通ったことがあるのに、看板も大きく出していないし怪しげな雰囲気のその場所がこんなに素敵なお店だとは知らなかった。レコードに興味がないとしても、静かに過ごすには確かにぴったりだ。
 店員さんに注文をした後、彼はぐるりと店内を見渡して一つのジャケットを指差した。店員さんが赤い背景に青リンゴの描かれた有名なレコードを取り出して、二人は楽しそうに二、三言葉を交わす。
 山田くんが、トレイに乗ったコーヒーとケーキを受け取った様子に、私は慌てて立ち上がった。けれど、いーよ座ってて、と遠くもない距離で言われて、出遅れた感にもじもじと腰を下ろす。山田くんは席に戻ってくるとふざけて「お待たせしましたレディ」なんて言ってくれるので笑ってしまう。マグカップは手作りの焼き物で、それもまたとてもおしゃれでこの空間に馴染んでいる。
「デジタルな音もいいけどさ、アナログのこの、厚みと温度と優しい感じ、たまんねェよな」
 サングラスを外して、コーヒーに口を付けた彼は、フゥと長く息を吐いた。ここは彼にとってとてもリラックスできる空間らしい。それを見ている私まで、ふっと肩の力が抜けて、会話のない時間にまで心地よさを感じる。
 BGMは一旦途切れ、プと弾ける音のあと、耳に馴染みのある音楽が流れ始める。世界一有名なアーティストが、僕を愛してと繰り返す。彼がそのレコードを選んだ意味を、深読みしてもいいのだろうか。
 ふんふんと鼻でメロディーをなぞる、山田くんの流麗な音程が心地いい。耳が幸せを感じていると、目の前の彼は突然鼻歌を投げ出して、口をあんぐり開いて、ぎょっと私を見つめた。
「あ、え、っとゴメン! びっくりして」 
 控え目に、ほんの、ほんの少しだけ、音を出さない唇を、歌詞に合わせて動かしてみた私は、思いもよらない熱量のリアクションに驚いて口を閉じた。
「だって、少なくとも俺の前で、言葉のカタチに口動かしたことなかっただろ?」
 私のことをよく見てくれている。声の出ない私が唇を読ませるコミュニケーションを取らなかった理由を、彼はよくわかってくれていて、だからこんなに驚いているのだ。
 私が話しかけると、相手の心は動く。それが私には分かってしまう。ねぇ、と話しかけた瞬間に面倒だと思われることも、私の回答に拍手をしながら馬鹿にしていることも、もっともっと欲にまみれた汚い内容のことだって。私の発言に呼応して流れ込んでくる、悪意のない愚弄がいつの間にか私の声を奪ったのだ。
 だから声が出したいなんて思っていなかった。山田くんが、私の個性も含めて丸ごと容認してくれるまでは。
 声が、出たらいいのに。今はそう思うの。
 カロン、とドアベルが鳴って、誰かが店を出て行く気配がする。私はスマホを彼からも見えるようにテーブルの上に置いて、メモアプリを開く。
 初めて真情を打ち明ける緊張に、テーブルの下でぎゅっと膝を閉じて、感情の乗らないただの文字に心が込もるように願いながら画面に指を滑らせた。
 少しずつ増えていく文字を、緑の瞳が静かに追いかける。
 ――山田くんといると、声を出せるようになりたい、と思っちゃう
 打ち終わる前に「ん」と小さな声が聞こえた。
 小さな画面を覗き込んで近くなった頭が、コンとくっ付けられて、ぽうっと暖かくて柔らかい気持ちが浸透してくる。
 ちゃんと伝わっただろうか。山田くんのおかげで、そう思えるようになったと。
 大それた宣告に照れくささを感じながら、おずおずと上目遣いに伺うと、山田くんは瞼を閉じて、くつくつと喉の奥で笑っていた。綺麗な歯並びが三日月に形作られて、金色のまつ毛が震えてぱちりと上がる。おでこを合わせた至近距離で、キラキラしたペリドットと視線がぶつかる。
 深く慈愛に煌めく瞳に心が晴れて、胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。
「すげー、嬉しい、っつーかずりぃよ」
 彼は、頭を離して、ギィっと椅子の背もたれに寄りかかった。
「今までも、色んなこと、逃げないで頑張ってきただろ? 声が出ても出なくても、俺さ、ミョウジサンの、変わろうって思い続けるトコ――」
 不意に、高い電子音が響いて、山田くんの目つきが鋭くなった。
「ワリ、ちょっと」
 とポケットから取り出した端末は、普段使っているスマホと違う。真剣な眼差しで情報を読み取る彼は、ヒーローの顔をしている。
「ゴメン、行かなきゃ」
 うん、大丈夫。でもその怪我で行くの?
 山田くんは申し訳なさそうな顔で、でもすでに意識が現場に向かっていることが分かる。怪我など、関係ないのだ。ヒーローの仕事は戦闘が全てではないし、自分の手が届く範囲なのに目を瞑る事なんて彼にはできないのだろう。
「置いて行ってゴメンな、ケーキ食べたら一人で帰れる?」
 当たり前でしょ、子供じゃないんですから。
 せめて私には気を使わないで。そんな気持ちを込めてツンと目を細めると、山田くんは少しだけ笑った。
「行ってくる」
 笑顔で手を振って、ヒーロープレゼント・マイクの背中を見送る。
 もし、もっと山田くんといる時間が増えたとしたら、こうして見送る事なんてザラにあるのだろう。こんな時、行ってらっしゃい、と言えたら。デジタルな文字じゃない、感情の乗ったアナログな私の喉の震えを、お届けできたら、私は彼のパワーになれるのだろうか。
 店内の音楽は、君にしてあげているみたいに僕を喜ばせて、と私に訴えてくる。私は彼に何をしてあげられるだろう。私も、彼を支えたい。

 自慢できることではないけれど、一人で過ごす時間が多かったから、一人でケーキとコーヒーを楽しむくらいは慣れたもの。私以外に一人しかお客さんのいない店内は、レコードの独特な暖かみに包まれて、秒針の動きすらもゆっくりと感じる。
 盤の表面が全て終わる頃には、美味しいチーズケーキもコーヒーも無くなっていて、私は店員さんに会釈してお店を後にした。
 穏やかな時間の流れる涼しい店内から、別世界のように蒸し暑く陽射しのキツい喧騒へと歩き出しても、不思議と重たい気分にはならなかった。
 この天気の中彼は、声を張り上げてヒーローとして頑張っているのだ。
 心配、誇らしさ、それから愛しさがぐうっと込み上げる。歩く速度は自然と上がって、パンプスの足音は溌剌とする。
 私ももっと強くなりたい。山田くんが、怪我をしたから心配させるとか、会わないって言われるかもしれないとか、そんな余計な気遣いしなくていいように。
 好きだと自覚するとこんなにも、私の全てに山田くんを絡めて考えてしまう。胸いっぱいの感情は、叫びたいほど膨れ上がって、得体のしれないエネルギーに変換される。
 きっとずっと好きだったのだ。高校の頃の切ない憧れは、きっともう恋だった。
 惚れた腫れただの私には不相応だ、無差別迷惑個性のくせに一丁前の幸せを手に入れられると思ってはいけない。好きになった人に嫌われるくらいなら、好きにならない方がいい。
 傷つかないための防衛本能だったのかもしれない。知らず知らずのうちに、自分の気持ちはおろか、山田くんの好意も認めようとしなかった。
 彼とラジオを作っていた時みたいに、対等に、彼の隣を歩きたい。
 そうならまず、私が、私にもっと胸を張らなくてはいけない。
 ともかく今は、こんな、感情がゴチャゴチャしている時は、何かに熱中して一度頭を整理するに限る。料理をしよう。平日のためにたっぷり作り置きをしよう。
 献立を考えて、じっくり食材を選んで買い物をして。それでも、デートの想定よりかなり早く帰宅した。時間はたっぷりある。
 キッチンに立って同時進行で色々と作っている間、私の頭はどんどんクリアになってゆく。
 心を読む個性で、声が出なくて、そんな私を押し付けることが申し訳なくて、傷つくことを怖がって、のっけから恋愛なんて私の人生の選択肢から外されていた。
 山田くんはずっと伝えてくれていた。全部そのままの私でいいって。それを信じる勇気のありかを、山田くんが教えてくれた。
 今まで彼がそうしてくれたように、私も彼を支えたい。怪我をすることも、突然出動要請があることも、全て受け入れたい。
 山田くんが好き。プレゼント・マイクのファンであるよりもっと、確かに山田くんが好きなのだ。
 完成した作り置きのおかずをタッパーに詰めて、数時間ぶりにスマホを確認する。
 着信音が鳴ってないから当然だけど、山田くんからはまだ連絡が無い。
 窓から西日が差し込んで、レースのカーテンが橙に染まっている。
 怪我をしているから、きっと前線に配置されたりはしないだろうけれど。一緒よぎった最悪の事態は、ぶんぶん頭を振って掻き消した。
 連絡してみようか、スマホを握りしめて迷っていると、思いが通じたかのようにメッセージが届く。
『さっきはごめんね。晩メシ食べた?』
 その短い文が、私を舞い上がらせる。
 無事が嬉しい。謝らなくていい。言いたいことも、聞きたいこともたくさんあるけれど、私は全部飲み込んで最低限を綴る。
『お疲れ様。まだだよ』
『来ちゃった』
 来ちゃったって。
 窓に駆け寄って、さっとレースのカーテンを開ける。山田くんが、アパートの前で窓を見上げていた。サングラスをしてない彼の大きな瞳が、私の登場にふっと和らいだ。
 驚いて固まっていると、彼は怪我をしていたはずの左手でピースをして笑って、おいでと手招きした。アームスリングも包帯もなくなっているじゃないか。
 弾けるように外へ飛び出して、バタバタと階段を駆け下りて、彼に走り寄ってその腕に、触れそうになる直前で踏みとどまった。
「ワオ、落ち着けって! ハハハ、心配した?」
 どうしたの、もう腕治ったの? ヒーロー活動無事終わったの? し、心配なんてしてない。信じてたし。
「お、複雑な顔してんネ」
 複雑な顔って。
 治った左手を指差すと、彼は手首をぶんぶんと振って完治を見せつけた。
「コレはばーさんが、ほら、リカバリーガールが治してくれたの」
 ああそっか。
「昨日はラジオのために時間無くてさ、中途半端な治療だったから」
 ほらやっぱり、さっきはそしたら無理して来てたんじゃないの?
 唇をムッと閉じて、キッと目を細めて見せる。それだけで、山田くんは「いやいやさっきだって無理したわけじゃねーよ」なんて会話にしてくれる。
「別にこんだけくっついてたら自然治癒でも良かったんだけど、たまたまさっきばーさんに時間あったんで治してもらったってワケで」
 治ったなら良かった。
「ん。で、さ。さっきはゴメンな。怪我なんて情けない姿見せた上に、突然飛び出して行っちゃってさ、散々なデートにしちまったなァって」
 そんなことないよ、分かってる。
 首を振って微笑んで見せると、山田くんは大きな目を見開いて、それからぎゅっと眉を寄せて歪な笑顔を浮かべた。
「俺といるとサ、いろーんな意味で、ドキドキさせちゃうかもな」
 空の下の方に僅かに残った夕日が、彼を儚げに染める。宝石みたいな瞳が色を深くして輝くのが綺麗で、胸がぎゅっと切なくなった。
 ドキドキ、させて。きっと大丈夫。
 眩しさに目を細めると、彼はふっと息を吐いた。
「埋め合わせ、させてくんね?」
 夜を運ぶ風がふわりと吹いて、オレンジは藍に移り行く。
 私たちは並んで駅の方向へと歩く。山田くんはポケットに手をしまい込んだまま、交互に踏み出す足の行先を眺めながら「あのさ」と切り出した。友人にしては近くて、恋人にしては遠い隙間を、彼の声が飛び越えてくる。
「俺、今日みたいに、振り回しちゃうし」
 振り回されたとは思っていない。
「忙しい時期は会えないし」
 去年のイベント配信しっかり見てたから知ってる。
「きっともっと酷い怪我もして心配させちゃうかも」
 一番近くで心配できたら嬉しい。
 私の方を見ない彼に、私の声は届かない。
「この前みたいにデート中に声かけられたり、いや、メディアからは守るけど」
 可愛い眉がぎゅっと縮こまって、言葉をまごつかせて、山田くんの緊張が伝わってくる。
「それに、ミョウジサンの前で結構カッコつけちゃって」
 少しだけ上ずった声は、言いたかったけど言えなかった事を内包している。
 ポケットから出た手が、顔の下半分を覆い隠す。
「白状しちゃうとさ、実は星は全然詳しくねぇの! プラネタリウムに行こうと思って、前日予習した!」
 耳まで赤くして吐露した彼に、愛しさしか湧かない。いつもスマートで優しい山田くんが、どんな努力で成り立っていたのか。
「本当は毎回すっげぇ緊張してて」
 頬が緩んで熱くなる。もう、十分に彼の気持ちは伝わってる。かわいそうな女の子に、ヒーローとして接してるんじゃない。ファンにサービスするDJじゃない。山田くんが、私に本当に恋してくれてるって、疑う余地もないくらい。
「ミョウジサンが俺に憧れてくれてンの分かってたから、イメージ崩したくなくて」
 ねぇ。
 一歩、前に踏み出した私は、山田くんの顔の前で手を振った。
「っ」
 目を合わせると、彼のトークも足もピタリと止まる。ずいっと差し出したスマホへ、彼の視線がスイッチして、開いたままだった唇がぎゅっと閉じて震えた。
 ――全部かっこいいよ
 かっこいい。彼の乗り越えた苦難を知った高校の帰り道を思い出す。その時から、その前から、ずっと山田くんはかっこいいの。
 スマホを持ち直して、打ち直す間、彼は私の指先を見つめて黙っていた。
 ――すき
 変換される前に、山田くんの手がスマホごと私の手を包む。
 真剣な瞳が私を射抜く。
 緊張が伝わってきて、心を読まなくても彼が何を言いたいのか分かってしまう。心臓がこれ以上ないくらいに強く打って、好きが、溢れて息が苦しくなる。
 山田くんの喉仏がわかりやすく上下して、小さく息を吸う音が聞こえた。
「好き」
 ぱちぱち光が弾ける。綺麗な金色の髪が一束、肩を滑って輝いた。
「好きだ、ミョウジサンのこと」
 絞り出すような声に、じわじわと目の奥が熱くなる。
 ぎゅっと握られた指先を少し動かせば、彼はすぐに力を抜いて、私の言葉を待ってくれる。
 ――お喋りできないけど、
「そんなの関係ないって! 喋れたって! 四時間生放送やったって、全然、ミョウジサンに言いたい事なんてちっとも言えねぇの!」
 山田くんとなら、って続けて打とうとしたのに山田くんは画面から目を離してしまった。
 手の甲で目元を擦りながら自嘲気味にハッと笑って「かっこ悪りぃ」と零す。こんなに、一生懸命本気で気持ちを伝えようとする人が、かっこ悪いわけない。
「こんなに、考えても結局さ、一番単純な言葉しか言えねぇの」
 髪をかきあげて、深呼吸した山田くんが、私に向き直る。少し情けなく下がった眉と、吹っ切れたような笑顔が混ざって。
「俺と、付き合ってください」
 うん。さっきの好きで、十分その気だったよ。
「ホント?」
 うん。ありがとう、たくさん待たせてごめんね。
「だ、抱きしめたい! 叫びたい!」
 うん、や、ダメダメそれはダメ。
 ガバッと勢いよく閉じ込められた腕の中、ぎゅうぎゅう締め付けてくる腕が苦しくて、愛しい。
「チョーー考えてたんだぜ?! 俺の帰る場所になってとか、隣で人生を歩きたいとか、永遠に俺だけのリスナーになってとか」
 どれでも了承したけど、全部聞けたから不完全燃焼も幸せだね。
「言いたかったけど、言えなかった事、まだたくさんあンの。これからは、我慢しなくていんだよな?」
 うん、いいよ。何だろう。これ以上にあるなんて、思わなかったけど、でも何でも言っていいよ。
「ありがと」
 腕が緩んで、見上げた彼の、蕩けるような笑顔につられて笑顔になる。
 涙目で笑いあって、私たちは、手を繋いで歩き始めた。

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