次はきっと返事を書くから

 ここは私の立つ場所じゃない。その確信は、突然訪れた。
 きっかけは、雑誌にすっぱ抜かれた熱愛報道記事。アイドルの女の子と腕を組んで歩く男には目線が入っていたけれど、どこからどう見ても消太さんでしかない。
 仕事だと思う。仕事とはいえ腕を組まなくちゃいけない理由があるならばハッキリと説明してほしいものだけれど、ともかく仕事なのだと、理解はしている。
 理解しているから普段なら笑って閉じられるページなのに、今日はそうできなかった。
 記事は単なる最後の一手にすぎない。前々からばら撒かれた布石や、いくつかのマイナス要因が連続して、ポンと栓が抜けたのだ。
 消太さんが帰ってくる可能性を考慮して週末に予定を入れていないのに帰って来そうにないから。低気圧がきてるから。生理で情緒不安定だから。最近消太さんに会えていないから。サラダの準備をしていたら葉っぱに虫がついていたから。靴下を片方だけ洗い忘れていたから。雑誌記事になったのに、消太さんから何の連絡もないから。会いたいと言うのを、ずっとずっと我慢することに、疲れたから。忙しいとわかってるけどせめて電話をしたいなんて、身勝手で意地汚い自分に嫌気がさしたから。
 子供の時にイレイザーヘッドに助けられてから、憧れて、憧れて、憧れて。ヒーロー科は無理だったけど、猛勉強してなんとか雄英に入った。近くで見れば見るほど、言葉を交わすほど、彼の魅力は私を深い沼に引きずり落とした。卒業の頃には、寝食もままならないほどの猛烈な恋に身を焦がして、人生を賭ける気持ちで告白をした。
 そうやって、奇跡的に消太さんと付き合うことができたのは、半年前。まだ季節を一巡りもしていないのに、私には彼の隣は務まらないと理解した。
 怒りでも悲しみでもない。頭は冷静で、暴れる気も泣き縋る気もない。もう、いい。ただ、もういいのだと思った。
 私の指先は、流れるように消太さんとのトーク画面を開く。昨夜散々ためらって結局しなかった電話マークを、今、何の躊躇もなくタップする。三回のコールを聞く間、ドキドキなんてひとつもしなかった。
「どうした」
「お久しぶりです」
 同じ部屋に住んでいる恋人へ電話をして、久しぶり、だなんて笑えてしまう。
「悪い。忙しいんだ。手短に頼む」
 愛しいはずの声も、私の心を揺さぶらない。
「はい……あの、別れましょう、私たち。今までどうもありがとうございました。これからも応援しています。それでは」
 どこか朗らかさすら感じさせる声が出たことに驚いて、返事を待たずに通話を終了させる。別れを告げる時は、もっと苦しいのだと想像していたけれど、全くもって私は平常だ。
 ふう、と息と一緒に何かが空気に溶ける。
 喪失感はない。私は、消太さんの言う通りに、手短に必要事項を伝えられたことで達成感すら感じていた。
 ぐるぐるぐるぐる渦巻いていた心が、その渦の勢いのまま排水溝から流れ出て一瞬にして空っぽになってすっきりとした。
 どうせ、今日だって帰って来やしないのだろう。自分の物をまとめて出て行くにも、時間はたっぷりとある。
 洗面所から化粧品や歯ブラシを撤去しても、大きなトラベルバッグに服を詰め込んでも、お揃いで買ったマグカップの片方を新聞に包んでゴミ箱に放り込んでも、やっぱり、折り返しの電話はなかった。
 詰め込んでしまえば、なんて小さくまとまったものだろう。トラベルバッグひとつと、リュックがひとつ。
 私の物が無くなった部屋を見回しても、さしたる変化は感じられない。思い出の強いものは持っていけないし、家具だって何だって消太さんの物だから当然だ。
 少しだけ、消太さんの部屋に紛れ込んだ不純物が取り除かれて、清々しく懐かしい空気に戻った気がしたくらいで。
 玄関だけは、ほとんど私の靴ばかり並んでいたから、かなりすっきりとした。
 どんな作戦だか知らないけど、なぜかヒーローコスチュームのブーツが玄関に残っている。プライベートで出かける時用のスニーカーを履いて行ってるんだろう。消太さんが帰ってきたら、一足だけ取り残された真っ黒のブーツに寂しく迎えられて、私が消えたことを悟るんだろう。
 キャスターをガタガタ言わせながら、よいしょと荷物を引きずって玄関を出る。施錠をすませ、合鍵を可愛い花柄の封筒に入れた。お付き合いする前、消太さんにラブレターを書いた時に買った残りの封筒。それがぐちゃぐちゃにならないように気を付けながら、私はエレベーターに乗り込んだ。
 エントランスの集合ポストに封筒を突っ込んで、私に出て行けと言うように自動で開いたドアを抜ける。
 外の空気は、乾燥していて私の水分を奪う。灰色の雲の隙間から、帯になって地上に降りる陽の光は琥珀のように輝いていた。

 その翌日、ホテルのベッドで目覚めると、スマホは消太さんからの不在着信が五件あったと知らせていた。
 非常識な時間に連続して五回。マナーモードにしていて気付かなかったのが、幸か不幸かは判断がつかない。
 緊急の要件なら折り返すべきだろうか。声を聞きたいような、聞きたくないような。かけても忙しかったら悪いし、履歴の時間を見るに今まさに寝ているかもしれない。
 何かあるならまた電話をくれるだろう。私に無理のないタイミングでかかってきたならば、話くらい普通にできる。
 自分から電話をかけるのは諦めて、週末は新しい部屋探しをしながらのんびりと過ごし、平日は出社して、昼休憩は一般的な時間でとり、定時に退社してホテルに戻る。
 そんな七日間を過ごしたけれど、あれっきり、私の着信履歴に消太さんの名前が並ぶことは無かった。
 夢の余韻が消えるのに十分な時間。消太さんは追ってこないと確信するのにも、十分な時間。
 やっぱり私があまりに熱烈に想いをぶつけたから、仕方なく付き合ってくれただけなのだろう。優しい彼は私の気持ちを無下にできなかったのだ。夢は夢のままの方が幸せなこともある。いい勉強になった。
 憧れで推しなことに変わりはない。かつてそうだったように、影から応援する。そう、戻っただけ。

 再び訪れた週末。空は爽やかに晴れ渡って絶好のお買い物日和。
 新しい部屋はどんなインテリアにしようかと、朝から木椰区の大型ショッピングモールへやって来た。家具だけじゃなく、キッチン用品とかも揃えなくてはいけない。
 いくつかのショップを見るだけ見て回ったけれど、結局方向性が定まらなくて何も買えないまま。歩くのに疲れた足を休めに、大きなヤシの木を囲むベンチへと腰を下ろした。
 家族連れが多い、ほどほどの人の流れ。誰もが楽しそうに行き交う広場の真ん中は、環境音がちょうどよくて休憩にぴったりだ。ホテルの部屋は、静かすぎるから。
 木漏れ日がそよそよと私を励ますように囁く。そんなに落ち込んでいませんよ、と頭の中でお返事して、ゆっくりと目を閉じた。
 この木漏れ日のような部屋にしたい。レースのカーテン越しに陽が差し込んで、太陽の匂いがして、お昼寝が気持ちいい部屋に住みたい。そしたら家具は木目調で揃えて。ラグは毛足の長いふわふわのもので。アースカラーで統一しよう。
 瞼を透かして揺れる光が心地いい。
 消太さんとの日々は、今となっては現実だったのか疑いたくなる。地に足がついていなくて、ふわふわしたまま過ごしていた。恋人という称号だけで舞い上がるほど幸福だったのに、恋人として扱われないことに孤独と感じる、贅沢な日々だった。
 もし叶うなら、一度でいいから、抱いて欲しかったと思う。それもまた、強欲極まりない。
 ふと、血色の瞼が陰って暗くなる。雲がかかったのかと、ゆっくり睫毛を持ち上げる。真っ黒な影から、聞き慣れた声が降ってきた。
「見つけた」
「消太さん」
 驚いて思考も体も固まっているのに、私の唇は気づけば愛しい名前を呼んでいた。
 どうしてここが分かったのか。見つけた、とは、探していたという事なのだろうか。何をしにわざわざ私の前に姿を見せたのか。その憔悴したような顔は、何なの。
「悪かった」
 短く告げられた謝罪。晴天の下、爽やかな午後に似つかわしくない、重たい声。
 ふわりと優しい風が、私と消太さんの髪を同じように揺らす。あぁ、やっぱりかっこいい。素敵。その隣が私なんて、私が許せない。
「雑誌のこと、傷つけたなら謝る。事前に言うべきだった」
「任務内容を一般人に漏らせないでしょう。巻き込まれる危険性について、わかっています」
 事前に知らせることなんて無理に決まっている。消太さんが仕事の内容を私に告げないのは、守秘義務があるから当たり前。加えて、無関係の私を守るため。それなのに、言うべきだった、なんて風に撤回してくるのは消太さんらしくない。
「恋人役という作戦を取ることになって、俺とおまえの関係性がヴィランにバレるわけにいかなかったんだ。会えなくて、すまなかった」
 そんな弁明をするために、消太さんはわざわざ、どこにいるかも分からない私を探していたのだろうか。ショッピングモールなんて、消太さんと一緒に来たのは一度きり。同棲を始める時にベッドを買い替えるって、一緒に探してたあの時以来。
「あの、大丈夫です。全部お仕事だったと、わかっていますから」
 消太さんの人生に私は必要ないのに。夢が、まだ続いていると勘違いしそうで、苦しくなる。
 立ち上がって逃げるように歩き出した私の後ろを、消太さんは付かず離れず追いかけてくる。
「なら、どうして」
 追いつかれたら、触れられたら、私はきっと未練を感じてしまう。消太さんは私より、もっと素敵で大人な女性と付き合った方が絶対に幸せになれるのに。
 ちゃんと足元も見ないで、エスカレーターに乗り込んだ。
 あぁけど、別れの理由を説明しなかったから、消太さんに余計な罪悪感を抱かせてしまったみたいだ。私が悪い。
「責任を感じさせちゃってごめんなさい。消太さんは、ヒーローとして教師として、責任感持って全力で仕事をしてる。そこに、悪い部分なんて一つもないんです」
 消太さんは私に続いてエスカレータに。足を止めない私と同じペースで段を上ってくる。
「自分勝手な欲望ばかり湧いてくる自分が、嫌になっただけなんです」
 エスカレーターから降りて、様々なお店の並ぶ通りをずんずん歩く。
 恋人というポジションだけでも十分なのに、もっと一緒にいたいとか、もっと触れ合いたいだとか、次々と欲張ってしまう私が醜いのだ。そんな自分に幻滅して自滅した。消太さんの仕事を理解しているふりして、気持ちがついていかなくて、迷惑はかけたくなくて、我儘は言えなくて、嫌われるなんてイヤで。
 別れると決めた時、私が泣かなかったのは、腑に落ちたからだ。
 自分は消太さんに相応しくない。
 そうストンと心が納得してしまったのだ。
「私、一人でも平気です。一人の方が楽です。向いているのかもしれないです」
 一人になってみれば、何だって一人でできる。自分の機嫌の取り方は自分が一番わかっている。
 消太さんに悪いところはない、私は平気、それでもう解決だ。実際、消太さんが不規則に現れたり消えたりする日々に比べたら、よっぽど安定してる。
 逃げ場に困って、人の少ない方へと進んで入った通路の先は、非常階段のドアだけで行き止まりだった。黙って同じ道を辿ってきた消太さんは、気づけばすぐ後ろにいて。
「捕まえた」
 きゅっと摘まれた袖の端。止まった二つの足音。背中に染みる声。
 遠くなった喧騒のせいで、消太さんの声はやたらとはっきり聞こえた。
 捕まってしまった。あぁほら、変に期待して欲に流されてしまいそう。消太さんが、私の側にいるメリットなんてないのに。消太さんの側にいたら私は、可愛くなくなる。消太さんの邪魔をしてしまう。嫌われたくない。
「は、離してほしいです」
「離さないよ。聞いた理由だと、別れる必要は無さそうだ」
 袖を小さく摘んでいた指先は解けて、するりと手に降りてくる。私よりずっと大きくてゴツゴツした手が、そっと私の手を握った。久しぶりの感触を、握り返すことはできない。
「消太さんは悪くないですけど、私には、私では、消太さんに迷惑をかけるだけなんです。だから、一緒にいたくない」
「側にいたいのは俺なんだ。それに、迷惑なんてかけられた覚えはない」
 こっち向け、と力の込められた手に抵抗して、必死に顔を背ける。
 消太さんは私がどれだけ我儘で独りよがりか、ちっともわかってない。醜い部分を知られて嫌われるよりは、消太さんに認知された行儀のいいファンでいたかったのに。
 期待を煽るような言葉に流されて手を握り返したい私と、憧れの側は眩し過ぎて離れたい私が、ごちゃごちゃになって正解がわからない。いっそ、ぶちまけてしまえば――。
「このままだと迷惑かけちゃうんです。だって私……会いたくなっちゃうんです。声が聞きたくなっちゃって、お仕事中だってわかってるのに電話したくなって。帰ってきてほしくて、ぎゅってしてほしくて、もっと深く触れ合いたくて、色々……欲張ってしまうんです」
 一度流れ出したら止まらなかった。勢いに任せて、言わなくていい恥ずかしいことまで言った気がする。
 余計に振り向けなくなって、ぎゅっと身構える私の後ろで、ほっと息を吐くのが聞こえた。
「そのままのおまえでいい」
 嫌われる覚悟をして言ったのに、消太さんは、なんだそんな事かと言わんばかりにあっさりと応えた。一方通行じゃ嫌だと伝えているのに、受け入れられたら勘違いしてしまう。まるで消太さんが、私を、そんなわけないのに。
「どうしてそんなに優しいこと言うんですか? だって、私がしつこいから消太さんは仕方なく――」
「仕方なく?」
 言葉を遮る強い声色に、びくりと肩がすくむ。背中に感じる空気が変わる。
「待て。何か勘違いしてないか」
「あっ」
 いつまでも振り向かない私にしびれを切らし、消太さんが回り込んできた。俯いていた頭は反射的に上がり、ばちりとかち合った鋭い三白眼から目が逸らせない。
「え、と……」
 勘違いとは、何のことだろう。消太さんの言うことを理解できない自分の頭が憎い。焦って困って眉を下げて頭の上にはてなを浮かべた馬鹿な私を見て、彼は額に手を当てて項垂れた。
「あぁそうか。わかった。はぁ。俺が悪かった」
「いえ、あの」
 大きなため息が怖い。大好きな人に呆れられるのは苦しい。
 消太さんは気まずそうに頭をかいて、苦い顔をした。
「手を出さなかったのは、アレだ。そんな純粋に憧れの目で見られたら、性欲なんて煩悩は汚らわしいような気がして」
 珍しく、消太さんがクールな無表情を崩して、戸惑いを表に出している。視線を明後日の方向にうろうろさせながら、迷いながら言葉を紡いでいる。
「おまえはずっと俺一筋だったんだろ。大げさに言えば、神聖視されているような、そのイメージを壊したくなくて、タイミングが……」
 きゅうっと胸が締め付けられて、息ができない。
 消太さんは小さく深呼吸して、ほんの少し頬を赤くして、まっすぐに私を見つめた。
「真面目に恋して、真面目に悩んでるんだよ。いい歳したおっさんが、おまえみたいな若い子相手に」
「う、え、あ」
 予想外の吐露に圧倒されていた頭が、ようやく意味を理解して混乱する。顔が熱くなって、心臓がバクバクうるさくなって、鼻の奥がツンとする。
「仕方なく、じゃない。そんな相手と一緒に住むわけないだろ」
 私の恋は一方通行じゃなかった。迷惑な好きの押し付けじゃなかった。
 ちょっと突き出た下唇。眉間のしわ。さっき怖いと思ったのと同じ顔なのに、キラキラと輝き出す。瞳に張った涙の幕のせいじゃない。パチパチと生きて爆ぜる光が全身を駆け巡って、押し殺していた恋の奔流が戻ってくる。
「……帰るぞ」
 心の内を晒して照れているのか、消太さんは突然ぶっきらぼうにそう言って、強く私の手を引いた。その手に心ごと掻っ攫われて、長躯の背中を見つめて歩き出す。
「本当に、私、勘違いじゃ」
 夢みたい。現実じゃないみたい。あまりに私に都合が良すぎる。ただ許されて隣にいる以上の、身に余る光栄が、信じられなくて。
「……ラブレター、また書いてくれるか」
 消太さんは力強く私の手を引いて、来た道を戻りながら、表情を見せずにぽつりと呟いた。
 最後が鍵の返却だなんて、そんなのは嫌だ。と。
 あの封筒を、覚えていてくれたのだ。
 ついに溢れてしまった涙がバレないように、私は笑いながら、はい、と元気な返事をした。
 その足ですぐにホテルの荷物を引き上げて、戻って来た二人の住処。一週間の短い家出をした後みたいで、むず痒い気持ちでくぐった玄関。
「おかえり」
 消太さんの腕の中に抱きすくめられて、おずおずと広い背中を抱きしめ返す。
「……ただいま、です」
 なぜだろう。おかえりと言われたら自然に、住まわせてもらってる、じゃなくて、私の帰る場所なのだと、そう思えた。
 その夜、消太さんが「ん」と差し出してくれたココアは、捨てたはずのお揃いのマグカップに入っていた。

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