骨まで愛させて

 ぼんやりと、何かに引っ張られるみたいにして、意識が浮上した。瞼はまだ重く、いや、身体中の全てが重く、動かせる気がしない。
 ようよう意識が輪郭を持ち始める。目を開けなくても、規則的な電子音と匂いで病院だとわかる。あと、誰かがそばにいる事も。

「消太、」

 ああ、お前だったか。
 一番聴きたかったその声に、重かった瞼はピクリと動き、薄く光をとらえた。
 世界一愛しいその姿を目に映したくて、未だぼやぼやした視界に気が早る。
 次第に色の境目がくっきりして、お前が、安心したように微笑むから、また心配かけたなって。

「……ごめん」

 掠れた喉が絞り出したその一言に、ナマエは呆れたように笑った。
「起き抜けに何謝ってるの」
 おはようの挨拶みたいに穏やかに言って、ナマエは背中を向けて俺から離れる。行くな、と、喉は動かなかった。
「生徒さんたち、みんな無事でよかったね」
 ジャーと水の音がしてタオルを絞っているらしい。すぐに、ナマエは戻ってきて俺の顔を覗き込んだ。
「がんばったね、消太、かっこいいね」
 子どもを褒めるような口調に、酷く切なそうな微笑みがちぐはぐだ。
 温いタオルが俺の顔を撫でた。暗くなる視界。目の不快感が消えて、スッキリしてきた。
 長いまつ毛に縁取られた、丸くて綺麗な双眸が俺を見つめている。その目が、化粧で隠しきれない赤味を帯びている。
「…… ナマエ」
 名前を呼べば、ほんの少し、その瞳がぼやけた気がした。
「あ、そうだ、とりあえず報告するね」
 また離れたナマエは、タオルを洗いながら続ける。それは2人で暮らしている家での会話のように、軽やかで淀みない。
「今日は00月00日。怪我についてはこの前一瞬起きた時に聞いたかな? 入院の書類は記入しておいたよ。あと保険下りるから必要書類も申請しておいた」
 そんな話はいいから、戻ってきて顔を見せろ。
「私は、マイクさんに連絡貰って来たの。着替えとか歯ブラシとか、いつもの入院グッズもあるよ」
 ベッドの横に置かれたいつもの黒いバッグを指差す。それから、ナマエは自分のバッグを漁って、何か封筒を取り出した。
「あのね、これだけ、消太に、書いてほしい書類があって」
 封筒を開けて、中から薄い紙を出す。ぺらりと広げて俺の方に向けられた紙には、ナマエの名前があった。
「おい、これ……」
「消太、聞いて、言いたいこと全部言うから、まず聞いて。その上で、消太の答えがほしい」
 優しいのにはっきりした声が、俺の疑問を断ち切った。婚姻届、と書かれた紙を、ナマエはまた封筒にしまう。
「私、もし、消太が――」
 一度唇を噛んで、もう一度息を吸う、その口から何が紡がれるのか。勇気を振り絞って凛とした顔を保つお前を、抱きしめたいのに、自由に動かせない体がもどかしい。
 俺を見つめるお前の瞳は揺れない。
「たとえ消太が、どんな姿になっても、私のところに、帰ってきてほしいの」
 どんな姿になっても。
 赤らんだ瞼を感じさせないくらいの、真っ直ぐで意志の強い瞳が、俺の心臓を熱くした。
 言葉の範囲を考えるまでもない。その決意が降り注ぐ。
「消太が生きてる限り、その生活に不自由はさせないよ。経済的にも、日常生活においてもね」
 まるでおすすめ商品をプレゼンするかのように、堂々と話す姿に惚れ惚れする。
 布団の上から、ナマエの手が、途中までしか無い脚を撫でた。
「私の仕事ぶりを聞いてて分かってると思うけど、私、要領も良いし、家事とかもたぶんやる気になればできると思うの。今は仕事が忙しいというか、つい家事より仕事優先しちゃっててアレだけどさ、料理は得意だし。介護やリハビリの資格も取るよ。なんならサポートアイテム作る会社に転職して消太の脚を作りたいって計画してる」
 冗談めかして笑っても、半分以上本気の目をしてる。恐らく放っておいたらいつの間にか転職してる可能性があるくらいには。
 それから、そっと手が握られた。少し握り返すと、その目は喜びに細められる。
「私以上に消太を支えられる人なんかいない」
 一分の隙もなく断言されたが、それには笑えるくらい完全に同意する。
「そうだな」
「でしょう?」
 けれど彼女の人生を考えた時、それは戸籍への傷にならないか。こんなに強くて、だけど寂しいと言えないだけの甘え下手なお前を、さらに我慢させる事にならないか。
 お前を、全て俺のものにしたいのは、随分前から思っていた。男と2人で残業なんて、と心配して、自分の独占欲の強さに初めて気付かされた時の事を思い出す。あの時からずっとずっと、同じ指輪を付けて、周りに俺の存在をアピールしてくれと思っていた。
 でも、でもお前は、お前の人生は、
「――」
 感情は言葉にならないままで、口を開けても空気が少し漏れただけだった。ナマエは、そんな俺を見て、きっと何が言いたいのか理解している。
「――消太、これが、今回一番思ったことなんだけど、分かってないみたいだからハッキリ言うね」
 強い瞳が、湖に沈む。それでもなおキラキラと太陽の光を取り込んで輝く深い色が、世界で一番綺麗だと思った。
 形のいい唇が、ありったけの熱を持って、穏やな声を紡ぐ。
「万が一の事があったら、完璧にスムーズに葬儀を上げるって約束するから、私が喪主で、骨を拾いたいの」
 あぁ、本当に、
「一参列者じゃ嫌。私に、消太を送らせてほしい。私が骨を持ち帰りたいの。その先の人生で、消太の魂が感じられなくなるのが嫌なの。消太の使ってた物がどれだけ残ってても――意味不明だけど、そうしたいって思ったの」
 どうしてナマエがここまでの覚悟を決めるまでに、俺が決断できなかったんだろう。合理的なところが似ている俺たちが、好きという理由だけでは踏み越えられなかった壁を、先に一人で越えさせてしまった。
 それなのに、それなのにまだ、俺はその申し出をで受け入れられない。それだけの愛を、俺に受け取る資格は無い。
「お前は……」
「消太が支えてよ」
 当然、というように微笑む、けれど俺にはその自信がない。
「何も、できないよ」
 お前に心配をかけることしかできない。センスのいいプレゼントもわからないし、流行りの音楽の話もできない。それに、毎日愛の言葉を囁ける性格じゃないんだ。きっと不安にさせる事もあるだろう。何より、辛い時に側にいれるとは限らない。それにもしかしたら、側にいたとしても、もう、守る事だってできないかもしれない。
「何も、かぁ。私たちはそんなに、支え合わずに生きてきたかな?」
 どうだろう。
 いつも元気をくれたのはお前の方だから。
「私、消太といると、会社での私でもなくて、友達といる私でもなくて、なんだか本当の自分な気がするの」
 ほらまた。俺の不安をふっと一息で軽く吹き飛ばして、喜ばせて、どうしたいんだ。

「ねぇ、私の最高の幸せって何だと思う?」
 すこぶる楽しそうに、最高の幸せを脳裏に思い描いてるように、ふわりと笑う。
 その頭に何を描いているのか。それが分かったら、苦労はしないだろ。そんなもの分かってたら、分かって俺にどうにかできるもんなら、それを用意してプロポーズするさ。
「消太、あのね、できれば毎日、おはようのキスをして。暇な時はくだらない話を聞いて。落ち込んだら甘やかして。時々部屋の片付け手伝って。わーわー言いながら料理してる私を見守って。そうやって、死ぬまで一緒に生きて」
 そんな事で。そんな事すら。
「頭のいい消太くんなら、それが、誰でもいいわけじゃないって、分かってるでしょ?」
 両手が、俺の頬を包んだ。その親指が、いつの間にか流れていた雫をぬぐう。細い指、小さな手。
 どんな姿になっても。
 怪我で入院する事になっても。
 脚も目も失っても。
 要介護レベルになっても。
 骨になっても。

「この世界から、消太の質量がどれだけ減っても」

 左手の親指は、開けても暗い眼帯の下をなぞる。

「元気な生徒たちと、私がいれば、人生プラスでしょ?」

 完敗だ。

「私は覚悟を決めたから、消太の全部を、かっこいいって言う覚悟決めたから、そろそろ、消太も私のものになる覚悟、決めて?」
 
「ずっと……情けなくて、ごめんな」
 俺が踏み越えられるように、合理的な理由を並べてくれてありがとう。
「ふふ、なんで? 情けなくないよかっこいいよ」
「愛してるよ」
「知ってた」
「結婚式したい」
「それ、消太の口から聞くとは思わなかったなぁ」
「お前をみんなに見せびらかしたい」
「……ダイエットしようかな」

(もし俺がこの世からいなくなっても)
「俺と生きてくれ」

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