死んでリトライ

 テーブル、おしぼり、焼き鳥、漬物、ビールジョッキ、消太の黒い服、節のしっかりした手。私の視界の全て。
 店員さんの溌剌とした声と、半個室の向こう側の不明瞭な会話、食器のぶつかり合う音と、遠くに聞こえる流行曲、消太のビールを煽る喉が鳴る。私の聴覚の全て。
 消太。消太。消太。私の心の全て。


死んでリトライ


「ねぇ、消太ぁ〜、私と付き合おう?」
 そう声に出したタイミングで、陽気でハッピーだったBGMは切なさ満点の失恋バラードに切り替わる。
 彼氏と別れた、と消太を呼び出して飲むのが定例になってしまってから、これで何度目だろう。
 愚痴や弱音のオンパレードを披露してすっきりと心を空にして、入れ替えでドバドバお酒を取り込んだ私のお決まりのセリフ。半分以上酔ったフリで、ちょっとは本当に酔ってる私の逃げ道だらけの告白を、消太は慣れたように手で払いかわす。
「何言ってんだ酔っ払い。ほら、水」
 ぐでりとテーブルに伏せた私の目の前に差し出されたグラス。鼻先がその冷気を感じてツンとした。
「飲ませてよぉ、消太気が利かない〜」
 透明なはずのガラスは細かな結露で曇って向こう側が見えない。つう、と線を描いた水滴の軌跡を覗いても、たっぷりの冷水で光は歪んでしまって、グラス越しの消太の表情はわからない。けど、同じく消太からも、私のこの恋に溺れた瞳は見えてないのだから、全てがクリアじゃなくて良かったと思う。
「仕方ないな」
 ため息混じりの低い声と、わざわざ向かいの席から立ち上がり私の横へやって来る行動が、嫌がっているように感じられないから大問題なのだ。
 誘えば飲みに付き合ってくれて、楽しくもないだろうに愚痴を黙って聞いてくれて、甘えれば甘やかしてくれて。
「酒弱いくせに、まったく」
 すぐ横に腰を下ろした消太の、呆れと愛情の混ざった声が耳にこびりつく。世話を焼いてはくれるけど、消太が私に向ける感情は恋じゃない。それだけは確実なのに、いつまでも諦められないのは、指先まで鍛えられたその手が私に触れるから。その度に、きゅうっと絞られるように心が泣くから。
「よわくないもーん」
 おどけて言うから酔ってると思ってて。
 消太の前でだけ。この程度でこんなにふにゃふにゃになるのは、被った猫が下戸だから。
「起きろ。突っ伏してたら飲めないだろ」
 ごつごつした手が遠慮なく私の肩を揺する。別れた男から受けた理不尽よりも、消太が当たり前の顔してくれる優しさのほうがよっぽど苦しくて、私の痛みはすり替わる。
「うぅ……」
 ちょっと乱暴に引き起こされたら、そんな扱いできる私たちの距離感が少し嬉しくて、喜びの三倍切ない。
 大きな手でがしりと首の後ろを支えられて、唇に冷たいグラスが押し付けられる。
「ん。飲め」
 流れ込んでくる液体は、私の焦げるような熱に触れてジュウと音を立てる。ごくりごくりと強制的に飲み込むしかない冷静が、胃に落ちて恋を鎮火させてくれたらどんなに楽か。
「んん……っ」
 口の横を水が伝って、もういい、と顔を顰めてようやく介助は終わる。グラスから解放されてぷはぁと息を吐く私の間抜け面を、消太は軽く笑って、おしぼりで雑に口元を拭ってきた。
「んぶ、やだ、メイクが」
「大して変わんないだろ」
「しっつれい、ふぎ、む」
 むすっと鼻息鳴らして、がしっと掴んだ手首。逞しさに、硬さに、体温に、クラクラする。私はちゃんと嫌そうな顔をできているのか、分からなくなる。
 がしがし唇を削る勢いのそれをとぐっと避けると、大人しく剥がされてくれた。消太はそのままの流れで手を遠ざけて、テーブルにおしぼりを置く。
 空になった私の手は、ふわふわと彷徨いながらグラスにたどり着き、冷たい水滴を撫でる。
 触っていたかった。できることならそのまま指を絡めたりして、見つめ合ったりして、キスしたりしたいのに。
 妄想の中で私に熱い眼差しをくれる消太は、今現実私のすぐ横で肩をくっつけて、涼しげな目をしてビールジョッキを引き寄せている。
「こんなに落ち込んでたらさ、ここはさぁ……俺にしとけよ……とかイケボで言うとこじゃない?」
「俺にしとかれたら困るからな」
「あはは」
 酔っ払いの戯言を本気にしないどころか、今日はもうついに、困るって言われちゃったよ。あーあ。冗談にして流しても貰えないなんて、笑うしかない。
 肩が触れてる。身勝手を宥めてくれる。軽口叩き合う。なのに、私の消太にはならない。この近さが残酷に思えるほど、私たちは遠くて、消太は私の知らない別の景色を眺めている。
「きっともっと大切にしてくれる人がいるさ。次は、そうだな……もう少し安定した仕事のやつにしとけ」
 他の男に大切にしてもらえないのは、私が本気にならないから。消太とどこかしらが似てる、消太じゃない人を捕まえて、消太に似てる部分だけしか愛せないから。
「いい人なんていないよ……」
 消太以外に、こんな気持ちになれる人は、いるわけがない。
 こてん、と頭を傾けて、がっしりした肩もたれてみる。消太は気にした風もなく、ビールを一口飲むと静かにジョッキを置いた。
 こんなの女友達には普通しないよ。どうして許すの。今こそべしっと頭を押し返してくれたらいいのに、どうして、慰めるように肩を抱いてくれるの。
 ひどい。
 ひどい。
 すき。
「焦って妥協なんかするな。大丈夫だ、おまえはまぁ、見た目も悪くないし、性格だっていい」
 すぐ頭上で聞こえる声は、その振動まで優しくて心地よくて、鼻の奥がツキンと変に痛む。
 そう思うなら――。
 湧き上がる、冗談めかしても言えない欲望は、声にならずにあふれて涙腺こじ開けてこぼれ出してくる。
「消太ぁ……」
 肩に目を擦り付け、誤魔化しきれずに鼻を啜ると、消太が少しだけ動揺する気配がした。
「あー、泣くな。どうしたんだよ」
 トントンと大きな手が背中を叩く。嬉しくて苦しくて切なくて愛しくて爆発してしまいそう。
 優しいリズムは私の心臓の半分のテンポで、私たちはいつだってシンクロしない。
「失恋、したんだもん」
「そんなに本気だったのか」
 ねぇ、本気だよ。いつだって消太に本気だよ。
 私は恋人を作って別れて、そのたびに付き合って飲んでくれる消太に告白をする。
 もう大真面目になんて言えないくらい、本気の告白を。
「本当に、好きだったの」
 涙声でかっこわるいけど、過去形にしただけ頑張ったと自分を褒めたい。
 よしよしと髪をぐちゃぐちゃにしてくる指先。頭に寄せられた髭の頬。
 すき。
 消太。
 消太。
 この恋はズタボロで、心はこんなにも大量に血を流してるのに、肉体が息絶えないから恋も終わることを許されない。
 いっそ、肉体まで――。死因が消太なら、私はそれだけ愛してたことを証明できるのかな。
 私たちは深夜になってもどんなに酔っても、サヨナラと手を振って健全にお互いの家に帰り、強制的に与えられる明日を生きる。
 私は死んだ恋を生き返らせて、大切に心の奥に置いたまま、また別の人に微笑むのだ。
 フラれて傷付いたら慰めてもらって、大きな傷をつけてもらう。
 私の恋は、消太にぶつかりあっけなく倒れるだけのステージを、きっと永遠に繰り返す。
 それでいい。



 私と同じ回数だけ、消太もきっと恋を塞ぎ殺しているから。

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