お風呂とメッセージ

 ちゃぷん、と暖かなお湯に、足先からゆっくりと沈めて座り込む。真っ白の入浴剤で濁ったお湯の中に、私の体はすっかり見えなくなってしまった。
 嬉しくなって、はしゃいで、沈んで、ドキドキして、混乱して、楽しくて。山田くんと過ごした今日は、まるで感情のレパートリーを全て披露したみたいに怒涛の一日だった。
 湯船に浸かってほうっと息を吐いてようやく、肉体的よりも精神的な疲れを自覚した。満足に似ている心地よい疲労感で、心がとっぷりと達成感に満ちる。
 足を曲げると、ゆらゆらと水面が揺れて膝がぽっかりと白いお湯から顔をのぞかせた。
 今日、厚く雨を含んだ雲は空から消えなかったけれど、その後降り出す事もなく。
 イルカショーを見て、カフェで遅めのランチをして、私たちは無事、楽しくデートを遂行した。少しのぎこちなさはあったものの、落ち着いて過ごすことができたから、山田くんとのお出かけは残念な思い出にならなくて済んだ。
 なんと、言い合いもすることができた。
 水族館の入館料を払ってくれた山田くんに、ランチは出させてほしいと言ったのに、彼は俺が払うと譲らなかった。最終的にじゃんけんをして私が勝ったら割り勘という、なんとも私優位な勝負に発展し、私の勝利でランチは割り勘にしてもらったのだ。そんなの、自分の分を自分で払ったってだけで、結局入館料の分は返せていないけど。
 じゃんけんで負けた時の山田くんの「うお!?」って顔が面白かった。カッコつかねぇなーって笑うのも、私には十分カッコよく見えた。
 喋れなくても成立するコミュニケーションが気持ちいい。山田くんといると声が出ないなんてのは些細なことに思えてしまうから不思議で、なのに、その一方で私は、声が出たら、と願いを抱いていた。
 社会人になると、声が出ないからといって変に特別扱いされることがなくて、学生より生きやすいと感じていた。みんないい人ばかりなのと、仕事柄職人気質の無口な人も多いからかもしれない。不必要に手を差し伸べる人もいなくて、腫れ物扱いする人もいなくて、謂れのない嫉妬も向けられることもない。
 それで慣れきってしまっていた。声が出ない自分を、もう諦めて受け入れていた。喋れなくても仕事ができているのだし、今更もう無理だろうと。期待して努力するだけ時間と精神の無駄だと、見切りをつけて早数年。
 けど、山田くんに会って、言葉で、声で、伝えたいと、心が叫ぶのだ。
 憧れているのだと思う。すごいものを見て、「すげぇ」と感心した声を上げて、美味しいものに「うめー!」と笑い、真面目に伝えたいことは真剣な目で静かな声で語る。彼の感情表現が私を幸せな気持ちにさせるから、私も、そうできたらと。
 そして嫉妬だ。今日彼に声をかけたファンの子たちは、声色から恋を感じた。言葉そのものよりも、あの甘く喜びに溢れた声が、羨ましくて仕方ない。
 潤った空気を吸い込んで、喉を通して吐き出しても、私の唇から音は漏れない。ただ、湯気をふわりと掻き混ぜて、吐息だけがふわふわと漂って溶けて消える。
 ツキンと痛んで沈みかける私の思考を断ち切るように、脱衣室からメッセージの着信音が鳴った。
 山田くんかもしれない、と思うと、湯船の中にいても後回しにはできなくて。ざぶんと立ち上がって、脱衣室の洗濯機の上に置いていたスマホに手を伸ばす。ぽたぽたと水滴が床に落ちたのも気にせず、ロック解除に指を滑らせながら湯船に戻る、その慌てぶりに自分で笑ってしまいそうだ。フゥと画面を確認すると、やはり、メッセージは山田くんからで、間髪入れずに既読をつける。
『今日はサンキューな! 疲れちゃってない? 体調は大丈夫そ?』
 そう喋るアイコンが、今日の水族館の写真になっていて顔が綻ぶ。私が撮影した、顔ハメパネルでペンギンになった山田くんの写真。
『大丈夫。今日はありがとう』
 送ったと同時についた既読に、今同じ時間に繋がっている喜びを感じる。
『楽しかったし、ありがとは俺の方だって』
『私もとても楽しかった』
 ほっ、とした顔の猫のスタンプが送られてきた。猫のスタンプなんて使うんだ。
『可愛い』
 山田くんから連絡をくれてよかった。今日の事をきちんと山田くんに説明したいと思っていた。パニックになった後、彼は努めて目の前の明るい話題に注力して、私の意識が自責に向く暇を与えずにいてくれた。巧みなトークに惹きつけられて、謝るのすら忘れて帰宅してしまったのだ。
『今日、ごめんね。個性使っちゃって。ああいうのは年一回くらいあるの』
 この話題を避けることに神経を使う必要はなくて、山田くんのおかげで今日の一件に関して気持ちの整理ができていると伝えたかった。
『俺は気にしてないよ』
『いつもは少し深呼吸して、それで落ち着いてたのに』
『まさか俺すげー嫌なこと考えてた?』
『全然。ただ、山田くんに嫌われるかもとか、もっとしっかりした私を見せたかったのに、って思ったら悲しくなっちゃって』
 ぞわりと全身が震えるようなあの感覚を思い出しても、水族館でのようなメンタルの揺らぎは感じない。時々個性が発動してしまっても、それはどうでもいい人の、どうでもいい雑音が聞こえという状況が多かった。発動してしまった事を、心を読んでしまった事をどうにか隠し通して、何も知らないふりをしてやり過ごすスキルも身につけたはずだった。今日は、相手が山田くんだからショックだった。
 山田くんに嫌われるのが怖かった。
『だから、山田くんが読んでもいいよって言ってくれたから、もう大丈夫』
 忘れ去りたい失敗じゃない。彼のおかげで、受け止めてくれたおかげで、また一歩前に進めそうだと。
『泣いたっていいんだぜ? 俺の胸ならいつでも貸しますんで』
『それはまぁその時考えるね』
『シヴィー!』
 暖かい言葉に頬が緩む。
 声が出ないことを壁だと思わず接してくれて、個性で心を読んでしまっても気にしないよと言ってくれる。正直、そこまで受け入れられると怖いものなしだ。
『俺はまた会いたいんだけど、ご予定は?』
 心を読まれた人は大抵、私との接触を避ける。山田くんはまた会おうと言ってくれる。それがどれだけ救われるか彼はわかっているのだろうか。
『来週空いてた。また土曜日でもいい?』
『了解! また俺の方で勝手に行き先決めていい?』
『お願いします』
『任せとけ!』
 綺麗に会話が終わってしまった、その途端、何を送ればいいか分からなくなる。可愛いスタンプでも送ればいいのか、それともここで終わらせていいのか。
 メッセージのやりとりは、声の出ない私にも平等でとても気が楽で、つい相手の都合度外視でもっと色々お話ししたいなんて思ってしまう。じゃあまた、と送ろうか、それとも違う話題を振ろうか迷っていると、それを気づいたかのようにメッセージが更新される。
『ゆっくり休めよ』
 ぴちゃんと白い水面から脚を出して、湯船の縁に引っ掛けて冷ます。ほかほかに濡れた足先が温度を下げるのが気持ちがいい。
『うん。今お風呂でのんびりしてたよ』
 山田くんは何してるのだろう。
 そのメッセージを送って以降、テンポよくきていた返事が止まった。既読は送った瞬間ついたのに。まぁ仕方ない。山田くんは私のように、スマホにかじりついているわけではないんだろうし。
 手持ち無沙汰にSNSのアプリを開いてヒーロー関係のニュースを眺めていると、通知バナーがぴょこぴょこと画面上ではしゃぎはじめた。
『ゴメン』『ミョウジサンには誤魔化しがきかないので白状します』『想像した』『いや変な意味じゃなく』『不可抗力』『次会った時、俺が心の中でオフロって思ってても笑うなよ』
 数分の静寂を打ち切った怒涛のレスポンス。沈黙は私のお風呂発言のせいだったらしい。やってしまった。
『配慮の足らない発言してごめん』
『イヤ、俺こそ煩悩の塊でゴメン』
 考えたくなくても想像してしまって、うっかりそれを私に読まれるなんて彼にしたら悲劇だ。そんなの想像させるような事を言った私が悪い。
『あのさ、水族館でも変な事言ったかもしれないけど、俺誰にでもドキドキしてるわけじゃねーよ』
 返事の手が止まる。どういう意味だろう。女性の好みの話だろうか。タイプじゃない人には確かにドキドキしないだろうけど、ならば私は山田くんのお眼鏡に叶っていると思っていいのか。
『俺さ、実はかなーり硬派なんだけど、知ってた?』
 頭より先に何かを感じ取った心臓が、とくとく鼓動を速くする。
 誰にでもじゃない、のあと、硬派をアピールするその意味。勘違いをしそうで、指先は画面に触れずにゆらゆらと彷徨う。数秒の沈黙の後、メッセージは山田くんによって押し上げられた。
 ポコンと現れたのは、可愛い猫が投げキッスしてハートを散らすスタンプ。
 お湯に漂っていた淡い期待が、笑いになってちゃぷんと音を立てる。
『キュートすぎてあざとい』
『シヴィー!』
 ジョークに切り替えられたことに安堵して、つま先がミルキーなお湯をかき混ぜる。
『でもホントの気持ちだから、頭の片隅に置いといて』
 え。油断がデコピンで飛ばされたみたいにペチンと弾けて、胸騒ぎがした。
 山田くんの冗談めかした言い方に静まったときめきが、また存在を主張し始める。
『うん』
 自分でも何が了解なのかよくわからないまま、了解の返事をしてしまった。
『そろそろのぼせねぇ? 風邪ひかないようにちゃーんと髪乾かせよ!』
『のぼせそう。ありがとうまたね』
 おやすみのスタンプをつけて、私は上手にバイバイできた安心感にふぅと息を吐いて、画面を暗くした。
 のぼせるように顔が熱くなったのは、お風呂の温度のせいではない。彼の気持ちの影法師を踏んでしまって、心音が聞こえそうなほど脈打っている。
 なんで。なんだか、お互い測りかねている本心を探り合うような、妙に色気のある駆け引きが、私の知らないうちに展開されていた。
 こんなに素敵な人が、本当に私のことを、そんな風に見るだろうか。
 正直、彼の言うホントの気持ちが意味するところを、全く想像できないほど子供ではない。常に向けられてきた優しさ、あの赤く染まった頬や、真剣な眼差しが、言葉にしなくても色々な感情を伝えてくれた。だって、信じられないけれど、私の想像通りだとしたら、今までのいろいろなことが一気に腑に落ちる。
 知りたいと思いすぎては、また個性が出てしまうかもしれない。そうならないように、私は少しだけ、自分の心に無関心の蓋をした。

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