Kiss and Refight!!

 ――帰れなくなった
 マグカップの底に乾いたコーヒーが描く輪の模様は、再び注がれた熱いコーヒーに溶けて消えた。
 自分でメッセージを送っておきながら、自分でその事実に打ちのめされる。
 本当なら今頃、消太の家に向かっている時間だった。晩ご飯に何を作るかだって考えていたし、スーパーのチラシもチェックしてた。
 舞い降りたトラブルは、初見ではすぐに解決できそうだと思ったのに、よくよく掘り下げるとなんとも複雑かつ面倒な内容で、徐々にその重大さが知れるにつれて、私の心はじわじわと沈み今日の逢瀬を諦めた。
 とはいえ、それは仕事なので仕方ない。消太だって仕事を頑張っているし、私もそれなりにプライドを持ってやってるし。
 やってやろうじゃないの、と目つきを鋭くする一方で、手に入るはずだった暖かな時間を取り零す悔しさが、どうしようもなく私の眉尻を下げるのだ。
 ――迎えに行くか?
 ポコ、と届いた文字に、ふ、と鼻が小さく息を吐く。
 電車が止まったわけでも、大雨が降っているわけでもないのに、お迎えが必要なわけじゃないのよ。私のためならすぐに飛び出して来そうな消太を想像して、唇が力を取り戻す。
 言葉が足らなくてごめんね、まさかもう外に出てたらどうしよう。
 ――ごめん、仕事のトラブルで確実に日付超えるから、今日行けない
 音もなく電波に乗って飛んでゆくメッセージ。そうやって私も一瞬であなたの腕の中に行けたらいいのに。
 ――そうか。ご飯は食べなさいね
 頑張ってる事を知ってるから、頑張れが来ない、その理解が嬉しくなる。どんなに長引いても仕事に文句など言わない消太が、その誇りを私も持っていると信頼してくれている事が、この後の時間を乗り切る活力になる。愛されてる。大切にされている。そして愛してる。
 会えない事に折り合いをつけた私は、会えなくて残念がってるだろう消太に、特別に甘えてみようと親指を動かした。
 ――ぱわー
 たった三文字、脈絡のないその単語に、即座に電話が鳴る。
 あまりに嬉しくて、画面の名前をじっと眺めながら、使われていない会議室に入り込んだ。すっかり暗くなった窓の外に、まだ頑張ってるたくさんのオフィスの灯りが見える。
「はい」
 やっと通話を押すと、消太のほっとしたような吐息が聞こえた。
『ぱわー、届けようと思って』
 低くてぶっきらぼうな、覇気が無いくせに甘さだけたっぷりの声が私の耳を潤す。
「ありがとう」
『帰れそうなら、連絡しろよ』
「何時になるやら〜って感じだよ」
『ん。いいよ。おまえが、一人でとぼとぼ帰るよりは』
 迎えに来てくれる気なのか、それとも道中電話してくれるのか、メッセージでおつかれと労ってくれるのか、どれだって嬉しい。
「寝ててよ?」
『わかってる』
 本当にわかってるんでしょうかね。
 空に浮かぶ月に、ぜひ消太を監視しててとお願いしてみる。私が見れたら、そりゃあたっぷり寝させるんだけども。だけどもさ。
「消太」
『なんだ?』
「会いたかった?」
 わかってるよ、消太が私との時間を楽しみにしている事なんて。もう当然確認するまでもない事なんだけど、まだ終わらない今日を乗り越えるために、消太の声で聞かせてほしくて。
『当たり前だろ』
 笑うような吐息が混ざった、優しい声。
 私たちは同じ気持ちだって心の底から喜んで、ぐっと湧き上がる熱さに耐える。
「うん、そっか」
『外、』
 短く切られたその声に、月を見上げていた目線を下げる。会社の前の道路を見慣れた車が走って過ぎて、駐車場に入ったのが見えた。
『……パワー、チャージしにおいで』
 ほんの三分の電話のはずだったのに。休憩を前借りしますので、この後バリバリ働きますので、絶対に絶対に本気出しますので。
 階段を駆け下りる脚は羽のよう。
 どうしてと聞く前に答えが唇に降ってくる。
 予想外の逢瀬が、一度のキスが、私の体力を全回復させた。
「俺も、不足してたから」
 外なのに。消太はそういうの嫌がるくせに、よっぽど私と会いたかったのね、なんて。
 ぎゅうっとパワーを送り込むようなバグに、名残惜しさなど無い。これだけの応援を貰って、やれない私じゃない。
「いってらっしゃい」
 ほらね、頑張れじゃない、帰ってこいよの囁きが胸を満たす。
 優しく微笑んだ消太に、私はきりっと手を振った。
「いってきます」
 さぁ、やってやろうじゃないの!

-BACK-



- ナノ -