曇天と秘密

 デート
 《名・ス自》(親しい)男女が日時を決めて会うこと。その約束。
(Oxford Languagesより)

 ふむ。つまり、男女が日時を決めて会えばデート。だからそこに深い意味はない。だろう。
 何しろ、恋愛関係の男女などとは明記されていないのだから、変に意識するのはお門違いだ。だから特別に山田くんの気持ちを勘繰ることなんてしなくていいはずで、ラジオの打ち合わせをした時みたいに、ちょっと緊張するけど別にやましいアレじゃない、ってこと、だ。
 もう大人になった私たちのデートが、俗語的意味を含有している可能性はもちろん考えないわけじゃない。けれどそんな事あるはずがない。だって、私と山田くんなんだから。
 あれから一週間。ぷちゃラジ開けの土曜日。
 どうやら今日、私は山田くんとデートをするらしいのだ。
 うっかり新しい服を買ったし、うっかり流行りのコスメを買ったし、うっかり可愛いパンプスも買ってしまった。
 ごりごりに気合を入れてきたと思われたらどうしよう。山田くんは、ただ懐かしい友達と遊ぶ感覚だろうけれど、私からすると推しとの外出だ。変な姿は見せたくない。
 だから綺麗めのパンツスタイルで、甘さも肌の露出も控えめで、トップスの色だって媚びてない感じのライムグリーン。
 何度も鏡の前に立っては、大丈夫、と自分に言い聞かせる。だってマネキンセット買いだもん。自分のセンスなら疑うけど、このコーディネートに関してはショップ店員さんが私の味方だ。
 ブブーとバイブの音がして、山田くんからオールマイトの「私が来た」スタンプが届く。
 急いでパンプスを履いて、鍵を閉めて、よし、と指差し確認してから階段を駆け降りる。いや、はしゃいでる感じが出ると良くないかもしれない。私は微妙に速度を落として、ふわふわとした足取りでアパート前に停まる彼の車に近づく。
 私に気づいた山田くんは、わざわざ降りて、助手席のドアを開けてくれた。
 黒のタイトなパンツに、オーバーサイズのTシャツ。シンプルな服装はスタイルの良さを際立たせ、あの頃より伸びた身長と長い脚に身分の差を感じてしまう。綺麗なブロンドは逆立っておらず、一つに括られて背中に柔らかく流れている。薄い色のついた丸いサングラスは、ヒーロー活動の時とは打って変わって落ち着いた印象だ。
 プレゼント・マイクを見慣れた私はやっぱり少し混乱して、それに高校生の山田くんとも違くて、全く知らない山田くんに緊張が隠せない。
 こんにちは、の意味でぺこりと会釈する。
 サングラス越しのグリーンが私を捉えて、頭のてっぺんからつま先までを三往復もする。何か変だったかな。学生の頃より太ったとか、いやそんなに変わってないと思うけど。居た堪れなくて俯く私に、まるで感嘆の吐息のような声が届く。
「めっちゃ可愛い……」
 嬉しいのに照れて、苦笑いしてしまう。山田くんは悪戯にニヤリと歯を見せて、それから。
「桜の妖精かと思ったぜ」
 ぶわりと、あの青い空が私を貫き駆け抜けた。あの出会いの。私たちの始まりの言葉。
 思わず両手で顔を隠して、指の間から彼を睨む。
 今は夏だよ、山田くん。桜無いよ、紙ばら撒いてないよ。
 にやにやと唇が広がるのを止められないし、なんだか泣きそうで顔が熱い。目の前にいる彼は確かに山田くんなんだ。
「覚えてた? あの屋上懐かしいなぁ」
 忘れるわけがない。やめてよ、もう、情緒が変になる。こんな、出発前から胸がいっぱいで、どうしたらいいの。
 クスクス笑う山田くんの腕をぺちんと叩いて、開けてくれた助手席に乗り込んだ。
 さ、もう、行くなら行きますよ、と真っ赤な顔のままシートベルトを装着すると、山田くんは笑いながらドアを閉め運転席にひらりと座る。
「んじゃ、行きますか」
 かくして私たちの初めてのデートなるものが始まったのである。

 ヒーローという山田くんの仕事の都合上、ドタキャン、遅刻、中断は十分あり得るので、そこはゴメンと事前の説明を受けていた。
 非番ではあるのだけれど、目の前で事件が起きたら見逃すわけにはいかないし、その対応の規模によっては仕方なく、山田くんが謝ることではない。現実起こってほしくはないけれど、任務で負った怪我でデートどころじゃない、ということもあるだろう。デート中の目の前が平和でも、緊急招集があれば行かなければならない。
 知っていたけど、実際に現役のプロヒーローから話を聞くと、その危険性や責任の重さには胃が重たくなる心地がした。
 だからこそ、それを支える私の仕事の――サポートアイテムの重要さを彼は語ってくれた。末端の作業員である私は、直接ヒーローと交流する機会は無いのだ。彼からのヒーローらしい断りで、より一層身が引き締まって勤めへの活力となる。
 山田くんは、ヒーローのお仕事事情を考慮して、行き先は時間に合わせて当日決めるってことで任せてくンない? と提言をくれた。それを断る代替案を用意できない私は、贅沢で恐れ多いお任せプランをお願いするしかなかった。
 車に乗ってからも、お楽しみね、と行き先はシークレット。
 彼は、最近の生活ぶりや趣味なんかについてトークして、セレクトしてくれた音楽をかける。まるでラジオ番組のようなドライブが、雨を降らしそうな曇天の街を爽やかに駆け抜けて、私をどこかに運んでゆく。
 ドキドキはしているけど、不安は無かった。知らぬ地へ車で連れて行かれるのにそう感じるのは、山田くんへの信頼だ。色眼鏡だろうか。いや、だって、車の中でだって随所に防音室の扉を開けておいてくれるような彼の優しさと気遣いが溢れているんだもの。
 冷房を調節して、寒すぎないかと聞いてくれる。段差を越える前にはスピードを落として衝撃を最小限にしてくれる。彼の飽きないトークの合間、私も話したいタイミングで文字の入力を待ってくれる。
「今パンケーキ屋見てた? あそこうまいよ、今度行こう。あ、ランチはカフェ系にするかぁ」
 なんて、私の視線の先と胃袋のことまで簡単に読み取られてしまって、不思議で仕方ない。運転しながらよくそんな観察眼が働くものだ。
「もうすぐ着くはず」
 デートの目的地候補は、彼の中には元々たくさんの選択肢があったのかもしれない。
 なんとなくそう感じた。ヒーロー活動での時間もあるけれど、ほら、今日のように天気が微妙ならアウトドアには不適だし、私の服装やお互いの体調を見てから決めようとしていたのかも。
 秘密、は秘密というより、溢れるパターンを説明しなかっただけなのではと。
 見慣れない街並みと、山田くんの横顔を交互に見ながら、耳に心地よい声を聞きながら、車は迷う事なく進む。
 ほどなくして、計画的にオチのついた見事なトークに合わせて、目的地へとたどり着いた。
 曇った空の下、懐かしいゲートを見上げる。
「水族館ですけど、どォ? 最近来た?」
 ううん。子どもの時一度来て、人が多くて、心を読む個性が発動しちゃって具合が悪くなってすぐに帰ってきたの。それから、一度も。
 首を振ってちょっと曇った表情を、山田くんは敏感に察知する。
「俺さ、子どもン時こーゆーとこ来れなくって、まァ、小学校上がってから動物園は行ったんだケド、この水族館初めてなンだよね」
 入り口を見つめて固まっていた私の視界に、山田くんが入り込む。
「ミョウジサンは、憧れなかった?」
 優しい瞳は私を伺いながら、けど懐かしむように、意識を遠く思い出の中に泳がせる。
 憧れた。テーマパークだって、ヒーローショーだって、みんなが楽しそうに話す思い出話のほとんどは人混みだ。
 そうだ。今なら別に、もう制御できているのだから問題なく楽しめるはず。無意識に外出の選択肢から外していた場所が、突然に幼い頃の羨望を蘇らせて輝きはじめた。
 それに、今日は、山田くんがいる。
「だろ、仲間。俺の初挑戦に付き合ってよ」
 また、話さなくても分かってくれる。
 私の戸惑いも、迷いも、なぜ理由まですぐに理解されてしまうのか。きっと、山田くんも同じ悩みを抱えて乗り越えてきたからなんだと思うと、どんな人気ヒーローになったって親近感を抱かずにはいられない。
 あの、防音の部屋を思い出す。あそこから飛び出して、全国に響く声を電波に乗せて。
 そんな山田くんにもまだ初めてがあるのだ。
 私も、彼の何にでも向かって行く精神を尊敬している。一緒に挑んでくれるなら、これ以上心強いことなんてない。
 私たちは、二人で初めての一歩を踏み出した。

 そこは、未知の世界だった。
 薄暗い館内の水槽はどれも輝いていて、通路の床まで川の流れるような映像を映していた。水面の不安定な光がそこかしこでゆらめく空間に、終始圧倒されて息を呑んだ。
 壮麗な巨大水槽にはサメまでいるし、大量のイワシがアートのように群行しているし、触れるプールではタコの吸盤に吸いつかれて鳥肌が立った。
 山田くんは、はぁっと感動の吐息を漏らす私を満足気に見つめて、私のペースに合わせて歩いてくれた。
 立ち止まって眺めては、あ、あっちも可愛い、こっちはなぁに、これ見忘れてた、なんて無計画に興味が定まらない私に、「OK、次ね」「おっと見逃しはもったいねーな」って嫌な顔ひとつせず、それどころか機嫌良く盛り上げてくれる。
 憧れとトラウマの水族館で、きちんと楽しめていることに安堵してテンションが上がってしまう。
 山田くんは、高校生の私の頑なな殻をノックしてくれただけじゃなく、もっと幼い頃のやり切れなかった気持ちまで掬い上げてくれたのだ。やっぱり私のヒーローだ。これ以上かっこよく見えてしまったらどうしてくれるんだろう。
 カラフルな熱帯魚に、可愛い、可愛いね、って微笑めば、「かわいーなぁ」って同意を言葉にしてくれる。
 美味しそうだなぁって鯛を見てたら、「お腹すいてる?」って聞かれる。
 山田くんは、すごい。
 ――どうしてそんなにバレちゃうの?
 永遠に眺めていられそうな、水槽のトンネルの中、ゆったりとエイが白いお腹を見せて目の前を横切ってゆく様に足を止めて、私は山田くんにスマホを差し出した。
「んー……どうしてかなぁ」
 隣で緩慢に呟く山田くんは、ラジオとも違うし、今まで私と話していた時とも違う、控えめな囁きを保っていた。
「ミョウジさんはさ、感情表現が苦手だって思ってンだろ?」
 見上げた横顔は、頭上を泳ぐサメを追いかけて顎を上げて、喉を大きく晒している。
「高校ン時からそーだけど、ちゃんと顔にも視線にも表れてるぜ。俺にとっちゃ分かりやすいから、こう思ってンだろうなって想像して返事してるケド、大体合ってたなら良かった」
 喋るのに合わせて喉仏が震えている。遥か上から降り注ぐ光が水面に散らばされて、山田くんをまだらに照らしている。
 ――間違えたこと無いと思う
 文字を用意した私の気配に、ぱっと視線は下がりスマホを覗き込む。
「マジ? そりゃ奇跡の相性だな」
 嬉しそうな彼の笑顔に、私も嬉しい、のだけれど。水槽を見ていた瞳がスマホに向くのは、なんだかとても――。うまく言えない。罪悪感に似た何かが、しんしんと心に積もっていく。
 笑顔を上手に返せなかった私は、彼の目を見られず水槽へと顔を向けた。不自然だっただろう。奇跡だね相性抜群だねってニコニコしとけばよかったのに、不快にさせただろうか。
 山田くんは私と同じ魚を見ながら、一歩、水槽に近づいた。私からはほとんど後ろ姿だけで、表情が読めなくなる。彼の、ポケットに入っていた手がふっと上がって、長い人差し指が、鼻の下をちょんと飾る髭をポリポリとかいた。
「高校の時より感情豊かってゆーかさ、表情明るくなったから、もしそういう風にミョウジサンを変えた相手がいるなら、ちょっとジェラシーかもなァ、なーんて……」
 それは、完全に山田くんの影響なんですけど。
 振り向いてもらわないと、視界に入らないと会話すらできない私は、山田くんに倣って一歩前へ。
 ――山田くんの影響だよ。ファンなので。いつも元気もらって、頑張れてるの
 ほんの少しバツの悪そうに眉を歪めた山田くんは、緩く首を振る私を見て、ふーん、と得意げに唇を尖らせた。今度は私も、自然に微笑むことができていたと思う。
「俺が特別ミョウジサンを理解してると感じるなら、きっと俺も声を出せなくてリアクションで会話してた時期があるからだろうなァ」
 なんとなく、止まっていた足がふたり同時に動き出した。進行方向側にいた山田くんがほんの少し前にいて、私は斜め後ろを歩く。横並びよりも、山田くんといる、って気分がして、それにこの景色と山田くんの組み合わせっていうのが最高に綺麗で、わざと追いつかないようにゆっくりと歩いた。
「なら、声の出せなかった時期にも感謝だな! こーしてミョウジサンと円滑なコミュニケーションとれてンだから」
 私はまた、衝撃を受ける。声を出せなかった時期をそんな前向きに捉える方法があるなんて。
 大きな魚がのろのろと私の横を追い抜いて行く。長身の背中は少し離れ、サメの影に撫でられている。
 かっこいいね。
 声にならない気持ちだけが、喉元に溜まって苦しくて、肩にかけたバッグの紐をぎゅっと握った。
「あの、もしかして、プレゼント・マイクさんですか……」
 水槽のトンネルを抜け、暗い館内への境界線の上で、前からやってきた女性二人が山田くんの行手を遮った。
 高くて甘い、恋する女の子の声。
「あ、ウン」
「きゃあ! ファンなんです! ぷちゃラジ、あの、毎週声が聞けて嬉しいです!」
「サンキューリスナー! っつーかこの格好でよく分かったな?!」
 きゃっきゃと湧き立つファンに、写真だサインだとねだられている山田くんは、一瞬でプレゼント・マイクに変身した。
 すらりとスタイルのいいファンの女性は、山田くんと並ぶととってもお似合いに見える。
 ここで私の存在がバレたら、勘違いでファンを失うかもしれない。彼女たちは、後ろを歩いていた私のことなど認識していないだろう。山田くんしか目に入りませんってテンションだもの。
 私は、笑顔を振りまく山田くんを追い越して、一人トンネルの境界を越える。
 薄暗い順路を少し進むと、鮮やかなネオンに揺らめく幻想的な空間にたどり着いた。
 左右の壁を埋めるクラゲの水槽群。
 グラデーションで色を変えてくライトが、ふわり、ふわりと漂うクラゲを染める。自然界ではあり得ない色を受けて、どんな気分で泳いでいるのだろう。
 綺麗だね。
 私が表情で伝えられる感想なんて、そんなところだ。山田くんはその何の変哲もない感想を、楽しく受け取って会話に変えてくれるから、私たちのコミュニケーションが成り立っているにすぎない。
 声が出たなら。どう伝えるだろう。
 芸術的ともいえる風景は、一時として同じ状態を保ってはいない。私だってきっと、日々変化して、その先にいつか声が出たら。
 ぼんやりと見惚れていると、パタパタと忙しいのに控えめな足音が空間に反響した。
「ミョウジサン、ごめん」
 山田くんが謝ることないよ。聞こえた声に、振り返ると、困ったように笑った山田くんが早足を緩めずに私の手を握った。
「いーや、わりーけど、きて」
 え。
 クンと引かれた手と、何が待っているか分からない道の先へ向いた瞳。
 動き出した足が、波紋模様の床を蹴る。少しずつ、早足になる。
 クラゲの海を抜け、深海魚の紹介パネルの廊下を駆ける。キラキラとした青が、前から後ろに流れて、水槽の魚たちと同じ速度で、泳ぐように駆け抜ける。
 繋がった手から優しさばかりが伝わってくる。
 ぎゅっと握られているのに優しくて、大きくて、骨とは違う筋肉質な硬さがある、私と違う男の人の手。
 こっちを振り返らない山田くんの、斜め後ろから見える耳が赤い。
 透明なドアが自動的に開き、私たちは眩しすぎる外へと逃げ出した。ぶわりと吹き付けた湿った風が、髪を後ろへ乱す。
 歩調を緩めた彼は、それでも手を繋いだまま、アザラシとかセイウチとか、大きな海獣のプールをいくつか通り過ぎてゆく。
 どうやらさっきまで少し雨が降っていたらしい。アスファルトは濡れている所と乾いている所があって、山田くんは水溜りを避けて緩く蛇行して進んだ。
 どこまで行くの。
 ファンの子たち、いいの?
 見られてたらどうするの。
 背中で長い金の尻尾が揺れている。こんな風に手を繋がれて、前ばかり見られたら、何も聞けない。あの時と同じだ。自転車の二人乗りをした花火の日の。
 ねぇ、あの日怖くてしがみつくのに必死だったけど、もしかして、あの時も山田くんは耳を赤くしていたの?
 そんなわけない。分かっているのに当時の切なさが蘇って、期待が胸に込み上げる。勘違いしてしまう。都合よく捉えてしまう。どうしてデートなんて言って誘ってくれたの。どうしてまだ手を離さないの。山田くん、どうして私を。
『手ェちっちぇー! ってか手汗すげーかも』
 キン、と心臓が冷えた。
 脚は凍ったようにぴたりと動かなくなって、暖かな手は解けてぶらんと落ちる。
 突然聞こえた山田くんの声は、鼓膜を震わすことなく、頭に直接響いてきた。
 ぐにゃりと、世界が歪む。地面が不安定に波打つ。深呼吸を、しなければ、しなければと思うのに、体が脳の命令に従わない。
 振り返った山田くんは、焦って私を覗き込んだ。
「大丈夫? 体調悪い?」
 違う。
『真っ青じゃんどうしよう、ミョウジサンに無理させた?』
 待って待って、今目を合わせようとしないで、触ろうとしないで。流れ込んできちゃう。落ち着くまで待って。
 首を振って下がろうとする私の背中に、山田くんの腕が回る。嫌だ。逃れようとした足はもつれて、ふらついた肩は大きな手にがっしりと掴まれた。
「アッ、もしかして個性?!」
 コクコクと頷いた私に、『やっべーマジか』とトドメを指す声が届く。
 嫌なんだ。やっぱり嫌だよね。ごめんなさい。もう二度と手を繋げないかも。もう二度と、会えないかも。なんとか今制御できたって、崩れた信頼は戻らない。
 謝ろうにもポケットのスマホを出す余裕なんてなくて、両手は耳を塞ぐ。
「こっちで休もう、な」
 霞んで聞こえた声が優しくて涙が出る。
 山田くんは肩を支えたまま道の端へと移動を介助すると、へなへなと力の抜けた私に合わせて一緒にしゃがみ込んでくれた。
 じわじわ涙の滲んだ目をぎゅっと閉じて、ゆっくりの呼吸に意識を集中させる。集中、したいのに、山田くんはそっと背中をさする。膝に顔を埋めた真っ暗な意識の中、山田くんの手の暖かさと声だけが、混乱した私に着地点を示して呼んでいる。
 台無しだ。仕事もちゃんとしてて、元気にやってて、友達は少ないけどちゃんと生きている私を見せたかった。水族館みたいな場所にも挑戦できて、山田くんのおかげでそうやって、前向きになれた私を、あなたのおかげです、こんなに元気ですって。なのに全部ダメになっちゃった。私は山田くんを安心させるどころか、救ってあげなきゃいけない弱い人間のまま印象を残してしまう。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 何が大丈夫なの。嫌だって思ったくせに。
 今までも私のこと警戒した? 読まれたくないなって思いながら一緒にいたの? ヒーローだから。
「ごめん、違うよ、俺は読まれていい、んだケド」
 嘘つかないでよ。やべーって心が言ってた。
 一生懸命吸って吐き出す息が、熱になって、新品の服を湿らせる。
 個性は、大丈夫。大丈夫なの。制御できる。ほら落ち着いてきた。もう聞こえない。山田くんの、焦った吐息くらいしか。
 何度も呼吸に合わせるように背中を撫でられて、足が硬い地面の感触を取り戻す。個性発動のざわつきは落ち着いてきた、けれど、心だけはどうしたって波立って荒れたまま。
「ちょっと落ち着いた?」
 個性は大丈夫、そう伝えたくて僅かに顔を上げると、予想以上に間近でぱちりと合った宝石の瞳。私より明るいのに、深い。
 指で涙を払って頷くと、山田くんはほっとしたように息を吐いた。
 そうだよね、安心するよね。
 当然すぎる反応にまで、卑屈に捉えてしまう思考回路が嫌い。謝らなくちゃ。そしてもう帰る。山田くんにこれ以上迷惑をかけられない。ポケットを探ってスマホを取り出すと、山田くんは、あのさ、と不安げに眉を下げて、私を覗き見た。
「俺、なんて言ってた? 心の中」
 ごめんと打とうとした指が止まる。
 気になるのか。当然そうか。色々と一般市民に漏らしてはいけない情報も、ヒーローとして持っているのだろうし。でも、心配するような内容は聞いてない。最初、なんて言ってたっけ。
 ――手汗やべーとか、どうしよう、とか
「うわッ、かっこわりー!」
 山田くんは大袈裟に頭を抱えて項垂れた。
「だー、って、そりゃ緊張するっつーの」
 膝の間から聞こえてきた声は、いつもの張りに欠けている。山田くんの手汗は気にしないけど、というか全然ベタついてなかったと思うけど、何をそんなに気にしているんだろう。
「あのさ、俺本当に、読まれる事は全然気にしてないから」
 山田くんは、面をもたげて、丸い綺麗な瞳に私を写した。申し訳なさと安心と疑心が、ぐるぐると脳みそをかき回す。
「そりゃ、そのォ、まぁ手汗とかさ? カッコわりーって、恥ずかしいのはあんだけど、読まれて嫌いになったりしない。それは信じてくんねェ?」
 切実な眼差しは、個性に頼らずそれが本心であると伝えてくれる。
「嫌じゃないってコト、個性使って確かめてくれてもいーぜ」
 泣いて目元を赤くしてキョトンと彼を見つめる私と、なぜか頬を染めて真剣な顔で私を見つめる山田くん。
 俺に個性使ってみろ、との堂々とした宣言は「ん?」と首を傾げた彼の声で頼もしさを取りこぼす。
「あ、やっぱちょっとタンマ!」
 大きな口が大きく開いて、焦ってわたわたと手を動かし始める。
「だから俺はいつでも読まれて良いんだケド、その、つまり俺も健全な男子なワケでさ! タイミングによっては、ミョウジサンを不快にさせるかも、いや変なコト考えてるワケじゃねーよ!? あの〜、ほら、ぶ、ブラウスの襟が開きすぎてて、身長差的にホラ、ドキドキしちゃうっつーか? なんつーか、いいんだけどな? 読んでくれても! いやだめか!? 俺何言ってんだ?! ちょっと待てよDJ言語化できてねーぞ」
 意味不明な身振り手振りと、支離滅裂な必死の訴え。
 今日の服そんなに襟広くないけど、あ、もしかして花火を見た時の服装のことだろうか。可愛い。下着が見えそうとかですらない服に対して、まさか高校生男子みたいなドキドキの仕方をしていたのかと思うと。山田くんは、ヒーローでD Jで、そして普通の健全な男子だったのか。
 私の心はふわりと柔らかさを取り戻して、全身に血が巡って、緊張していた顔が綻んだ。
「ハハハ、まぁ、落ち着いたンならよかった」
 山田くんの言う通り、大丈夫だった。
 曇天の外はさっきまで人通りが少なかったのに、いつの間にか往来が増えている。こんなところでいつまでも蹲ってられない。
 先に立ち上がった山田くんは、私に手を差し出してくれた。その手を取って、力を借りて立ち上がる。
 そうだ、帰ると言おうとして――。
「よし!」
 なに。
 突然の気合の掛け声にビクッと肩が跳ねる。山田くんは、キラキラした目で、すぐそこの建物をビシッと指差した。 
「イルカショー始まるから、見に行こーぜ!」
 いるかしょー。その楽しげな響きに、帰りたかった気持ちはわずかに萎える。楽しかった時間をぺしゃんこにした罪悪感から、私はここから立ち去りたくて、でも山田くんはそんなこと気にもしていない様子で。
「今日を、失敗みたいな感覚で終わらせねェよ」
 個性が出ちゃっても、パニックになって泣いても、引いたりしないどころか取り返すチャンスをくれる。私も、今日を残念な気持ちで終わらせたくない。ここで逃げたら、きっと後悔する。
 痛いほど優しい緑の瞳が私に微笑む。断る選択肢なんて、浮かばなかった。

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