なくねこはせんせいをとる

 私は今、三年間の教育課程を成し遂げた満足と、友人と過ごす居心地のいい日々への名残惜しさで、心がいっぱいに満ち満ちている。たくさんのさよならと元気でねとまた会おうねの後、私は人気のない校舎の脇を通り、思い出のありすぎるかけがえのない場所へと足を運ぶ。まだ涼しい三月の風は、少しだけ赤くなった目元を冷ましてくれた。
「せんせ、お待たせしました」
 緑の中、ひとつきりのベンチの半分を空けて、相澤先生が座っていた。
「来たのか」
 先生は、用意された半分に私が収まるのを待ってから口を開いた。すんと澄ましたその表情からは、募らせた思いを読み取ることができない。ただ、ふわりと風に乗る微香には、その意味には、突っ込まないわけにはいかないのですよ。
「ふふ、何を言ってるんです。卒業式の間、ずっと感じてましたよ。あの入浴剤の香り」
 すんすん、身を乗り出して先生の胸に顔を寄せる。朝、例の猫に好かれる入浴剤を入れたお風呂に浸かって来たのだろう。一日のイベントをこなした後で、ほとんど消えかけているまたたびの香りをかき集めて吸い込んだ。吸った分大きく息を吐き出して、そのまま、上目遣いをしてみる。
「来て、って、言われてると思ったんですけど」
「そうだよ」
 ふにゃ。からかったつもりが、案外にあっさりと認められてしまった。ぱちくりと瞬きで切り替えて居住まいを正す。
「それで、二人きりになって、卒業のお祝いでもくれるんですか?」
 木々の中から、よく私に懐いている猫が一匹、こちらにゆらりと近づいてくる。私たちの視線はそっちに向いて、なのに視覚以外の感覚でお互いを探ろうとしているのが空気でわかる。甘ずっぱく心が引き締まる。
「いや、悪い。それは用意してなかった」
「そうですか。ではそれより重要な用があるんですね」
 空気を揺らさずに息を止める気配がした。それっきり先生は黙って、なんと私たちは数分に渡って沈黙のやりとりをした。先生の視線は、猫、ベンチの端、木の葉を揺らす風を眺めて、それからチラリと私を見て、また猫に戻った。
 静寂を打ち破ったのは、舌打ちだった。
「ただの生徒だと、思ってたんだがな……」
 心だけにんまりして、わざとらしくきょとんと首を傾げてみる。
「にゃ? 生徒ですよ、それ以外何です?」
 大きな片手が鼻の下から顎までを覆う。薄い頬の肉が上に寄って、可愛らしい。苦く眉をしかめて、すうっと鼻から入った空気が、肺で入れ替えられて、口からふーっと長く吐き出される。
「女性として、好きになっちまったんだよ」
 ゆっくりと、噛みしめるような、引き絞るような、そんな低い声が空気を揺らした。
 今度は、にんまりを心だけに留めることはできなかった。どんなに頑張っても、口の端が勝手に釣り上がってしまう。せめて喜びの声だけは漏れないように、私も両手で口を隠してみる。
「うにゃ、はい。んん、結論がはっきりしなくて合理的じゃないですよ。それで先生はどうしたいんです?」
 スカートから伸びた膝小僧が揺れる。今日限りでもう着ることもなくなる制服を、早く取り去りたいとうずうずしてる。
 笑い出しそうになるのをぎゅっと手の中で押し込めて隣を伺うと、先生も私を見ていた。
「クソ、生意気言うようになったじゃねえか」
 眉間のシワをくっきりと寄せて、目の下を引きつらせたその顔に、どうしようもなくはずんでしまう。
「はっきり言ってもらわないと、分からないんです」
 そろそろ我慢できなくて、言葉に笑いが乗ってしまった。私のわがままな質問に先生は応えるしかない。なんてったって、先生は私のことが好きになっちゃって、私との繋がりを今日で切らさないようにしたくて、そのためには今ここで新しい関係を取り付ける他ないんだもの!
 ぐっと一度噤んだ唇が躊躇いがちに開かれる。吐き出される呼吸の温度まで逃すまいと、私は全神経を使う。
「……恋人、に、ならないか」
 先生、先生、こういう時はもっと、優しい顔をしてくださいよ。やけっぱちというか、何というか。いや、照れているのですね。仕方ないですね。
「えへ、よろしくお願いします」
 まぁいいです。いいどころか、満点です。教師と生徒の壁を、先生から乗り越えてくれたのだから。
 やっとやっと、満面の笑みを隠す事なく見せつける。先生は私の返事に安心したように眉を下げて、鼻で息をついた。ぱっと花が開いたように高揚して、私の心は解き放たれて自由になる。
 急に、春を運ぶ強い風が私たちの間を吹き抜けて、驚いたように先生の薄い笑顔が引っ込んでしまった。その黒髪は乱されて頬にかかって、顔が半分くらいも見えなくなる。手を持ち上げたのは、同時だった。そして、その手を戻したのは先生の方だった。
 許された気がして、そっと指を伸ばす。先生は目をピクリとさせて、でも避けずにじっと私を見た。指先が触れる、皮膚の下の頬骨を感じる。指の腹がざらりと髭を撫でる。風に遊ぶ髪を耳まで届ける間、先生の瞳はうっとりと私を射抜いていた。耳輪をなぞるように黒髪を宥めると、私の視線は三白眼に吸い寄せられる。黒点は深く熱を帯びていた。ぴっと閉じた唇に誘われて、風に押されて、私はふわりと顔を寄せる。
「何してる」
 ぱしっと、私の意外と広いおでこが叩かれた。そのままぐっと乗り出した体を押し戻してくる。一瞬で緩みを正し私を睨む瞳。子供のように唇を尖らせてぶう垂れる私。
「何って、キスですよ。今、私たち恋人同士になったんですよね?」
 負けじとぐぐっとその手を押し返してみるけれど、敵うはずもない。諦めてその手を握ると警戒が抜け、おでこから離れてくれた。
「雄英の敷地内だ、やめなさい」
 大きく暖かく、手のひらの皮の硬い、努力の滲む人を守る手。両手で丁寧に包み込むと、私の甘やかされてきた手が恥ずかしくなる。指を絡めるように組んで、するりとその肌の感触を味わう。
「どこならいいんです?」
「お前なあ」
 そっと、手のひらに顔を寄せる。先生の匂いがする。
「はぁ、いい匂い」
「こら」
 ちっとも怖くない"こら"だった。だって全く手を引こうとはしないんだもの。鼻先を指の股に擦り付けて匂いを堪能していれば、先生の匂いの中に確かに入浴剤の香りがした。
「先生、顔に出さないから、私はこの気持ちを押し殺すべきか迷いました」
 されるがままだった手が、そうっと私の頬へすべる。手を離して擦り寄れば、顔の側面は広い手のひらですっぽりと暖められた。
「だから先生から言ってくれて嬉しいです」
 髪を梳いた指先が、さっきのお返しと言わんばかりに、私の猫耳をこねはじめた。その気持ち良さに思わず目を閉じて、初めての愛撫を堪能する。
「これからは遠慮なく」
 低く穏やかな声色が私の頬を紅潮させた。さっきまではどこか現実味がなくて、喜びながらもふわふわしてたのに、今ようやく果てしなく幸福な叫びがお腹の奥底から湧き出てきた。心臓の鼓動に合わせてじわりと身体に熱が広がる。目の奥がツンとして、何かが堪えきれなくなる。
「楽しみです」
 ゆっくりとまつ毛を持ち上げれば、先生は猫耳の付け根をかいてふと微笑んだ。と思えば、夢の終わりみたいに途端に手を離し、ポケットを探り始める。そして衝撃の一言を口にした。
「とりあえず、俺の部屋に住みなさい」
「……にゃ?」
 夢から覚めたら、先生は夢よりも大胆な一歩を踏み出そうとしていた。
「教師寮ができる前に使ってた部屋、残してるから」
「そういう問題ではなく」
「お前実家だろ。俺の部屋の方が大学に近い」
「え? 本気ですか?」
 手を手に取られ、鈴の根付が付いた鍵を握らされる。
「週4くらいで俺も帰る」
「え、みゃっ」
 突然の、抱擁。ハグ。ぎゅう。つまり抱きしめられている。混乱に輪をかけて大混乱だ。赤くなる暇もない。強くなったマタタビの香り。くらくらと回る脳みそは、さっきの先生の言葉を思い出す。
「あの、先生……敷地内ですよ」
 ヒーロースーツ越しの腕の筋肉を感じる。私の体の華奢な線を確かめるように、その手が背中を這う。
「定時過ぎたんだよ」
「そんな理屈?!」
 吐息が笑って、空気が二人の間を通る。
「今はこれで我慢、な」
「続きは?」
「……ここで待ってろ」
 鍵を閉じ込めた拳を、とんとんと指で突かれる。でも、そりゃ、待ちたいけど無理。
「今日は帰りますよ。親がご馳走様作って待ってるんで」
 雰囲気が無くて申し訳ないけど、今日まさに高校を卒業した私には家族の祝福を受ける義務がある。
 ふいと視線を逸らした先生は、ん、と短く返事を寄越した。それから、ちょっと尖らせた唇を、私に向けた。その目は告白の時より真剣で。
「今日は無理だが……こんど、挨拶に行かせてくれ」
「展開が早い」
「合理的だろ」
 ニッと歯を見せて笑う。
 先生の本気が伝わってきて、泣きそうになる。どこにでも行って、ハグでもキスでも何でもしたいのに、ポケットの中の振動が私を呼んでいる。まだ子供の私は、帰らなくてはいけない。
「行かなきゃです」
 思い出のベンチから立ち上がって、くるりと相澤先生を見下ろす。夏の日差しも、秋の空も、冬のココアも、春のお昼寝も、このベンチに詰まってる。卒業。嬉しく晴れやかなのに、なんて切ないんだろう。想いの叶った喜びと、もうここに一緒に座ることのない物寂しさが、身体の中でぐちゃぐちゃになる。猫は家に着くっていうから、個性のせいなのかな。他の誰も、ここに、座らせないで欲しいと身勝手な事まで思う。
「うちのソファに座るのはお前だけだよ」
 耳がしょげたからか、顔が歪んだからか。先生は優しく微笑んだ。用意された特等席はとびきり上等で、これに満足しないなんてあり得ないほどの高待遇で、私を待ってくれている。
 私はにっこりと一番綺麗な笑顔を作って、胸につけていた造花を、先生の捕縛布にずぼっと突っ込んだ。
「私からもプレゼントですっ」
 眉を上げて固まる、髭の頬に唇を押し付ける。ちりん、と鈴を鳴らして、私ははずむ。
「えへへ、連絡まってまーす!」
 あ、と口を開いた先生は、清涼な音を響かせながらぴょんと走り去る私を追いかけてはこない。
 造花のリボンには、電話番号が書かれている。
 この鍵を使うのは今日じゃないけど、きっと、今日のうちに知らない番号からの着信があるだろう。
 時間は有限だから。善は急げだから。
 待ってます、先生。残業終わりまででも。待つのは、得意なのです。

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