君とNovember U

「数値下がりましたね。もう体調に異常が出る域じゃないので安心してください。今晩は泊まって、また明日検査しましょう」
「わかりました。ありがとうございます」
 お医者さんが消灯して病室を出て行くと、私はベッドで真っ白の天井を見上げて、一人の部屋いっぱいに広がるほどのため息を吐いた。
 どうしよう。これは確実に怒られる。
 職場の就労支援を利用している、見知った顔の女性がかなり混乱している様子で。彼女の個性である毒は、直接触れなくても気化して吸い込んだら危ないと知っていたから、つい人の間に入って距離を取るよう注意なんかして。たのに、うっかり自分が吸い込んでしまうなんてかっこ悪い。
 スマホも荷物も放置してきちゃった。消太に連絡を取る術もない。ぱふんとベッドで布団を被って、とにかく全て警察が何とかしてくれるって言ってたから、今日は寝てしまおうと瞼を閉じた、その時。
 パタパタと控えめな、だけどテンポの早い足音が廊下の向こうから近づいてきた。
 なぜだろう。足音の主は消太だと確信があった。
 無茶を怒られるに決まってる。本当なら今ごろ私の部屋で、電話の続きを話していたはずなのに。予想外の再会の形で、消太が眉間に深いシワを刻むのを想像した私は、寝たふりを決め込んだ。修学旅行で深夜に先生が見回りに来た時みたいにドキドキして、聴覚は扉の向こうの気配に集中する。
 やはり、足音はこの部屋の前で止まって、一呼吸の後、ゆっくり静かに扉が開いた。
 すう、と一筋の光が室内に流れ込み、ぱたん、とまた暗くなるのを、瞼を透かして感じる。
 消太の気配が、近づいてくる。
「ナマエ……」
 ふわり、低くて滑らかなバリトンが、味気ない病室に放たれて星を飛ばす。
 少し乱れた息遣いと、大きなため息。消太がどれだけ心配して、焦ってここへ飛んできたのかが、耳からの情報だけでひしひしと伝わってきた。
 寝ている風を装って、深くゆっくりした呼吸を演じても、酸素が回ってないみたいに心臓が苦しい。
「無茶しやがって」
 あまりに優しい叱責は、文字にしたならきっと、無事でよかった、とルビが振られている。
 それきり、消太は黙った。
 二人分の生きてる音だけが、暗闇に聞こえる。
 ほんの数秒の長い沈黙に、想像上の消太の視線が痛い。実は起きてました〜ってドッキリみたいに目を開けてしまおうか。と、思い始めた矢先、ギ、とベッドが揺れた。
 それからは、流れ星くらいの一瞬。ふっと消太の匂いがして、闇が濃くなって、頬を髪が掠めて、唇に熱が触れた。
 私の呼吸と体温を確かめる儀式は、ゆっくりと終わる。押し付けられた柔らかさの離れぎわ、弾力が名残惜しむ。
 だめ。離れたら顔を見られてしまう。寝たふりなんて続けられない。顔が、熱くてたまらない。
「消太」
 ぱちりとまつ毛を上げると、消太の瞳が間近で切なさを垂れ流していた。次の瞬間、うげ、と顔中を歪ませてのけぞった消太は、額に手を当てて項垂れる。
「っ……起きてたのかよ」
「ゴメン、なんとなく……寝たふりしちゃった……」
 キスなんて何度もしてるのに、なに、今の、顔が真っ赤になってまともに顔が見られない。
 こっそりキスなんて、するタイプなんだ。恋人でもないのに。それってつまり、そういう事。さっきの電話で、何か勘違いしていたらしいって。答え合わせの前に逸る気持ちが空回って、今更全部が恥ずかしい。じっと寝てられなくてもぞもぞと体を起こして、落ち着かない手が足の上に溜まった布団をもじもじと握った。
「大丈夫だったのか。毒」
「うん。意識失って搬送されたけど、すぐに解毒できたからもう大丈夫だって。心配かけてごめんね」
 そうか、と口元を覆う大きな手。何か言いたそうに、視線を真っ白なシーツの上で右往左往させている。
「電話で、誤解させたのかもしれないと、気付いたんだが」
 待っていた切り出しに、うん、だけの相槌が食い気味に飛び出した。
 消太の声は、慎重に言葉を選びながら、もうお互いに理解している事実を丁寧に確認する。
「俺は、あの時……好きになってしまったと伝えたくて、けど、おまえがそれを悟って、拒絶したんだと思った」
 好き、という単語にわっと舞い上がる脳内は、同時に、でも、けど、だって、をいっぱい生み出して混乱する。消太は、ヒーローで、恋をしないって前提が引っかかって。
「好きって、それは、つまり、ええと」
 布団を握る手元へ落ちる視界の端、消太はベッドに腰掛けて、黒髪を揺らして、私を覗き込んだ。
 三白眼に、ヒーローしてる時のような鋭さはない。
 息が、止まる。目が逸らせない。瞬きすらできない。
「そういう好き≠セよ」
 薄い唇が、震える喉が、耳に心地良いバリトンが、確かにそう言葉を紡いだ。
 嘘じゃないと、真剣な眼差しが教えてくれる。
「ナマエは?」
「私、は……」
 突然の選手交代に、好きが頭の中で踊ってぐるぐるした。手に汗が滲んで、ごくりと唾を飲み込んでるのに喉は干涸びている。ゆっくり息を吸い込んでも、胸の高鳴りが制御できない。
「私も、消太のこと、好きになっちゃったから、それがバレてフラれたと思ってた」
 黒曜石の瞳が揺れる。絶対、今、キスしたいって思ったでしょ。目が喋ってた。なのに消太は誤魔化すみたいに、捻って私に向いていた体を戻して、大きなため息を吐いた。
「ひどい食い違いだな」
 笑いの混ざった声に、緊張がふわりと溶ける。
「消太の言葉が足りなすぎるんだよ」
「おまえが話切って逃げたんだろ」
「あんな切迫した顔、絶対別れ話の雰囲気だったもん」
「緊張してたんだよ悪いか」
「まって、両思いってこと?」
「そうなるな」
「それってどういうこと?」
「どうって……」
「だって、だって消太は、ヒーロー、だから恋人は作らないって」
「そうだな」
 そう。ふわふわしていた気持ちがギクリとした。好きだからって、恋人になるとは限らない。お互いに好きだから、相手を悲しませないために、一緒にいれない、のかもしれない。
「おまえも、ヒーローは恋人にしないって、言ってただろ」
「言った、けど」
 言ったけど、まだ不安だけど、じゃあ好きな気持ちとどうすればいいのかわからない。セフレじゃなく、大切な人になってしまったら、私は消太を笑って見送れるのだろうか。連絡の途切れた時間を、どんな気持ちで過ごすんだろう。怪我をしてきたら怒るかもしれない。
 大丈夫、なんて笑って言えない。でも、手放したくない。私はもう、この優しくて弱くて強い相澤消太という男に、恋してる。
 うまく言葉にならない気持ちが、じんわりと涙になって溜まる。布団を握りしめた拳を見つめていると、不意に、大きな手が私の手に重なった。
「ヒーローだから、不安にさせて、心配かけるだろうな」
 暖かい手が、戦う手が、あんまり優しくて苦しい。
 悲惨なヒーローの末路を私は知っていて、だから怖い。けど、叔父さんがまだ希望を捨てないで輝き始めたことも、決して周りが不幸に打ち拉がれてばかりじゃないことも、知っている。そうあれるだろうか、私も。
「何があるか分からないから、ずっと先の未来までは約束できない」
 約束しない誠実さが好き。
 瞬きで溢れた涙が、ぽたりと消太の手に落ちた。涙に呼ばれて、その手は私の頬を撫でる。少しかさついた硬い指先が目尻の水滴を拭って、俯いていた視線はまた、消太の瞳に奪われる。
 私よりも苦しそうに、いや、申し訳なさそうに眉根を寄せて、精悍な顔がまっすぐ私に向けられていた。
「恋人は作らない。そう、思っていたが……俺が、耐えられなくなった。おまえが他の男と歩いているのも、一番に頼ってもらえないのも。泣いてたら抱きしめたいし、頑張ってたら甘やかしたいし、愚痴だって聞きたい。ヒーローだからじゃなく、もっと根本的に、ナマエが大切だから、一番に駆けつけられる関係でいたい。……自分勝手で、悪い」
 自分勝手なんかじゃない。私もそうしたい。
 いつ途切れてもいい割り切った関係なんて、お互いとっくに無理だった。消太はヒーローだけど、もう、そんな肩書きでは止められないくらい、好き。
 今までしてきた恋なんて、全部本物じゃなかったと思えてしまう。
 独立独行のアングラヒーロー。危険な仕事だから、相手を悲しませないように一人を選んだ彼の孤独を、私が隣で癒したい。親しくなった人を失って悲しむ事を恐れて、一人を選んだ彼の弱さを、優しく包んで愛したい。日々戦う彼と、あたたかいだけの時間を過ごしたい。
「私、消太が思うほど、さっぱり強くいられないかもしれないけど、いい?」
「あぁ。いいよ。今も泣いてるしな」
「う。ばか。消太のせい」
 柔らかく微笑んだ消太は、また指の腹で涙を拭ってくれた。濡れそうな横髪を耳にかけてくれる指先がくすぐったい。
「今度は最後まで聞けよ」
 肩をすくめてクスクス笑う私に、消太は低く囁いた。
 その瞬間、空気が変わる。
 あぁ。消太が緊張してるのがわかる。ちょっと怖い顔してる。
 弱い光を反射して、消太をヒーローにしている個性を宿した瞳が、私だけを映している。
 少し震えた唇が、静かに息を吸い込んだ。
「怖いことは怖いままかもしれない。ただ、もっと深くナマエに関わりたい」
 いつから、そう思っていたんだろう。熱を出した時も、ハンバーガー奢ってくれようとした時も、落ち込んだ私にキスをくれた時も、本当はもっと踏み込むのを我慢していたのかもしれない。どうしよう。好き。好き。
「未来の確約はできないが――それでも今を、ナマエと一緒に過ごしたい。ナマエと明日を迎えたい」
 刹那的な、小さな願いを、日ごとに繰り返す。
 今を。次の一瞬を。今日を。明日を。それを重ねていきたい。私も。消太と。
「そういう関係を、恋人というなら――俺を、恋人にしてくれないか」
 あぁ、もう。
 伸ばした腕は消太を捉えて、どちらともなく身を寄せ合う。逞しい首を引き寄せて、捕縛布に顔を埋めて、広い背中を抱きしめる。
 それでいい。約束なんてしなくていい。未来のことなんて知らない。お互いに必要な存在なんだっていう、その事実だけでいい。
「うん。私も、消太といたい」
 私たちは、弱いまま、勇気のないまま、それを許しあって、二人の関係に新しい名前を授けた。
 太い腕が私をしっかりと捕まえて、くっついたところから体温も鼓動も呼吸も伝わってくる。心まで一つになって、愛しいが体の隅々まで満ちて、暗い病室がきらきらと魔法にでもかけられたように輝きだす。
「消太、あのさ」
「うん?」
「誕生日、お祝いしてもいい?」
「あぁ……明日か」
 よく覚えてたな、と嬉しそうに言うから、昨日か今日か明日か曖昧だったのは秘密にしておく。来年も再来年も、お祝いしたいなんてのも、まだ怖くて言えないけど。
 緩んだ抱擁の隙間、髭のちくちくする頬にちゅっと小さなキスをする。
「ねぇ、あのさ」
「なんだ」
「だいすき」
 息を呑んで、奪われた唇。もっと、もっと、深く何度も角度を変えて、急速に熱を上げる。
 隠してきた大好きが、堰を切って溢れ出す。




 一年後どうなっているか分からないけど。
 来月どうなってるかも分からないけど。
 不安じゃないなんて言えないけど。
 だからこそ、今は、あなたと、手を繋いでいたい。
 今という一瞬を、続く限り、大切に重ねていきたい。

 私たちは、恋をしている。

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