君とNovember T

 チリン、と黒猫のキーホルダーが揺れる。
 あの日、別れ際に返すべきだったのに。合鍵のことなど、すっかり失念していた。
 数日経ってから思い出して、けれど、思い出してすぐに返しには行かなかった。行けなかった。俺と彼女を繋ぐ唯一だと思うと、この手に馴染んだ感覚を手放すことが惜しかった。合鍵をまだ返せていないことを理由に、連絡先だって、消すことができないでいる。
 帰り道の彼女を探すことは、意識して避けた。時間をずらしたりしてみたが、それでも、担当地区だから必然と、時々ナマエの姿は目に入った。
 彼女は大抵遅い時間に、コンビニ袋をぶら下げて、一人でのたのたと歩いているのだ。疲れているように見えて、大丈夫かと声をかけたくなるから逃げるようにその場を去って。少しも吹っ切れてなどいないのは明白だが、どうしようもない。
 怪我をしても、彼女のベッドを汚すこともないと思うと、手当てなんて馬鹿らしくておざなりになった。
 巡回ルート上に転がっている彼女との思い出が、ちくちくと胸を刺す。その痛みはまだ軽くはならないが、時藥のおかげで慣れてきたと思う。
 もう、十一月に入って数日。さすがにもう、跡を濁し続けるのはやめて、鍵を返さなければ。
 せめて最後に、きちんと、俺にとってもいい時間だったとか、怪我の手当ても助かったとか、口で言うべき感謝があるんじゃないかって。久々に、彼女の部屋の明かりを確認したのが、一昨日の事。真っ暗なまま、彼女はその日、帰宅しなかった。と、思う。
 ストーカーじみていて自分に嫌気がさすが、昨日もそこに人の気配は戻らなかった。
 一体、どこで何をやってんだ。
 今日は、帰って来るだろうか。いや、心配とか、干渉とかじゃなく。何をしようと彼女の勝手だ。今日こそ鍵を返したいという意味だ。だから、それ以外ない。断じて。
 俺は、空ぶる寂しさを抱く一方で、最後のさよならの延期に、確かに安堵もしているのだ。
 あの部屋に、今夜は光が戻るだろうか。
 すっかり闇に包まれた時間でも、駅前は昼間のように明るい。疲れた顔のサラリーマンから、陽気な酔っ払いまで、混雑する駅前広場では忙しなく人が動いている。
 仕事が一区切りして、ふっと集中が途切れてしまった。流れる雑踏の中にいては、何かに置き去りにされているような感傷で、気持ちが毒されてしまいそうだ。
「じゃあ、また明日ね」
 どこかから聞こえた声。懐かしい明朗さにハッとする。
 雑踏の中でも耳聡く拾った声へ、振り返ったのと後悔したのは同時だった。
「ミョウジさんも、気を付けて」
「はーい、おつかれ」
 小ぶりなキャリーバッグを引き連れた彼女が、あの同僚の男、夏深に手を振って離れていく。にこにこと、落ち込んだ様子もない普段の彼女の姿がそこにあった。
 俺の視線には気付いていない。去年、ヴィランから助けた時と同じコートの後ろ姿が、人の流れの一部になってスタスタと交差点へ消えてゆく。
 もう見えなくなってようやく、俺は瞬きを取り戻した。
 そういう、ことか。
 そりゃ家に帰らないわけだ。旅行に行っていたらしい。新しい男と――いや、俺の方が新しい男だった可能性もある。
 俺とあいつ、並行して関係を持っていたとしても何もおかしいことはない。俺は突然何日も連絡が取れなくなったりするし、義理立てる必要がないのがセフレのメリットだろ。
 そうか。そう思うと次から次へ、アレもコレも裏付けるように記憶が蘇る。最初から、俺だけじゃなかった可能性をどうして考えなかったのか。馬鹿みたいに一人で本気になって、俺なんて彼女からしたら間抜けで迷惑以外の何でもない。
 どうにも説明のできない、モヤモヤした気持ちが胸の穴を広げてゆく。
 アイツにも合鍵を渡してるのか? あぁ、部屋から出てきた所も見たってのに、クソ。だからあんなにあっさりと、別れに疑問も抱かずに背中を向けたのか。
 あぁ。何が、見返りは求めないから干渉を許してほしいだ。こんな独占欲に塗れて、どの口が言ってんだ。
 結局俺は、愛するだけじゃなくて、ナマエの唯一になることを求めてしまっていたんじゃないか。今更、そんなことに気が付いたってどうにもならない。
 思考が巡るのを制御できないまま、止まっていた足が動き始める。
 さっさと鍵を、返さなくては。
 まともに道を辿る彼女を、追い越して先回りするなんて造作もない。衝動のまま、一般人が通りようもない最短ルートでたどり着いたアパートで、告白したときと同じ場所に立つ。あの日より冷え込んで、風が冷たく感じた。
 少し待てば彼女が帰って来るだろう。いや、けれど――もう突然に会いに行く関係じゃないのに待ち構えているのは、気味悪がられてしまうだろうか。怯えさせたいわけじゃない。本物の不審者扱いはごめんだ。
 連絡先は消されたかもしれないが、着信拒否にしてないならば俺から電話をかける分には繋がるだろう。スマホを操作して呼び出し音を聞く心は、告白しようとした時とは全く違うざわざわした感覚を抱えている。
 数秒の後、ぷつりと途切れたコールの代わりに、コンビニのドアチャイムが小さく聞こえた。
「……俺だ。悪いな、鍵を返していなかったと思って」
『あ、消太……』
 本当に連絡先を消していたらしい。誰か分からずに電話に出たのが、声でわかった。
『……時間のあるときに、ポストに入れておいて』
 合理的な要望に、手の中で鍵と猫を握りしめる。
「わかった。入れておく。……アイツと仲良くな」
 捨て台詞なんてダサすぎる。けれど、綺麗に最後を飾るための感謝は、ここに来るまでに落っことしてしまった。
 感謝じゃなくたって、部屋を片付けろとか、野菜も食べろとか、仕事を頑張りすぎるなとか、言いたいことはいくらでもあったのに。もうそういうのは、すべてアイツに任せるべきなんだろう。
『アイツって、なに。誰?』
 とぼけた声を出して、この期に及んで誤魔化すこともないだろうに。
「同期のアイツと、旅行でも行ってたんだろ」
『違う、行ってない。どうして夏深くんが――見てたの?』
「二人で楽しそうに駅から出て来たところをな」
『研修受けに行っただけで、夏深くんとはそういうのは、何も』
「どうだか」
 悲しいのか怒っているのかすら自分でもわからないまま、攻めるような口調が止まらない。自分に苛立っているはずなのに、彼女に棘が向く。
「アイツがいたから、あっさり俺を切ったんだろ」
 好きになられると迷惑なら、こんなにどろどろとした好意を抱えた俺なんて、彼女の人生にお呼びでない。切られて当然だと理解して、それで、この気持ちは何なんだ。
 ナマエは、電話の向こうで、えっ、と戸惑う声を上げた。
『何、どうしてそうなるの。フったのは、消太でしょ』
 ……は?
『消太が、よっぽど恋愛を拒絶してるってことはよくわかった。最初言ってた事を破ってごめん』
 どうしてナマエがフラれたと思ってるんだ。気持ちが変わってしまったのは俺で、ナマエは一貫してセフレとしての距離を守っていたじゃないか。
「いや……。それは、俺の方だろ……?」
『え?』
 え、はこっちのセリフだ。お互い処理できない情報を抱えて、沈黙が流れる。どうやら認識の違いがある事は確かで。誤解だとしたら。最初言ってた事を破るってのはつまり。
『消太……』
 小さく震えて俺の名前を呼ぶ声。滲み出る切なさが、懐かしくて、愛おしくて。ナマエも、俺と同じ答えに行き着いたのだと感じた。
「部屋の前で、待っててもいいか?」
『うん、いい、あ……あっ』
「どうした?」
 何の脈絡もなく焦り出した彼女が息を飲む。電話の向こうに小さく聞こえる悲鳴。
「おい」
『職場に通って来てる利用者さん、やばい、あれ、暴走する』
 ナマエの職場を利用している人。つまり、個性が原因で就労困難な人ってことだ。危険な個性であったり、コントロールができなかったりする人の、暴走。
「今行く。安全な場所に」
 言い終わる前に、ブツンと電話は切れた。
 サッと血の気が引いて、脚は勢いよく地面を蹴って、アパートの敷地を転がり出る。
 彼女に繋がっていないスマホを無意味に握りしめたまま、ひたすらにあのコンビニへ向かって走った。普段の倍も心臓がどくどくと動いて、あっという間に息が上がる。
 最悪の想像をしてしまう。
 コンビニへ近づくにつれ、空気で騒ぎが伝わって来た。すでにパトカーのサイレンが響き、野次馬を整備している大声が聞こえ始める。視界に人混を捉えても、そこに彼女の姿はない。
 何台か駐車した警察車両の近くに、見覚えのある顔を見つけた。
「状況は!?」
 捕縛布を街灯にかけて野次馬を飛び越え、見知った警察官の横に降り立つ。
 視覚と聴覚が彼女の気配を探してぐるぐると周囲に神経を飛ばす。救急車が一台、サイレンを鳴らして現場から遠ざかって行った。けが人がいた、ということか。雨も降っていないのに、記憶の中から線香が香る。
「イレイザー! よかった! 毒の個性が暴走して、近づくことができません」
 最低限の合理的な状況説明だけで、足早に規制線を越えて対象の元へと向かう。真っ暗な道の端で、女性がうずくまって身体中から毒液を垂れ流していた。ごめんなさい、ごめんなさいと呟き続ける様子に敵意は見られない。
「抹消します。確保を」
 抹消で毒の噴出が止まると、女性は自ら毒の水溜りから出て、大人しく移動式牢《メイデン》に入って搬送されて行った。
 事件としてはあっさりと解決されて、除染作業員がすぐに毒の掃除をはじめ、野次馬もどんどん減ってゆく。個性がらみの騒動には慣れっこな鳴羽田だ。一時間もすれば何事もなかったかのように、静かな夜に戻るのだろう。
 解決したのはいいものの、結局、ナマエの姿がない。一体どこに、という疑問への答えは選択肢が絞られて、もう、さっきの救急車で搬送された線が濃厚すぎて頭痛がする。
「被害者は……ッ」
 すっかり安堵した様子の警察官は、俺の必死の形相にぎょっとして表情を引き締めた。
「若い女性が一名、毒に触れて搬送されてます」
 チッ。やっぱり予想通りじゃないか。こみ上げる吐き気に息が止まって、詳細を求める声が出ない。
「その方が通報もしてくれて、早く対処できました。お知り合い……ですよね。イレイザーヘッドが来ると、言っていたので。彼女のおかげで、パニックが収まって暴走も狭範囲ですみました」
 馬鹿じゃないのか。それでナマエが被害を受けてたら、そんなの褒められるわけがない。容態は不明。解毒が安易ならばいいが、病院で調べなくては分からないだろう。
「搬送先を、教えてもらえますか」
 病院を聞くなり走り出そうとした俺を、彼の手が止めた。送ります、と手配してくれたパトカーへ飛び込むように乗り込んで、走り出した車内で、膝が落ち着かずに揺れる。
 失う恐怖を、焦燥を、喚き散らしたい。
 交通ルールを遵守して病院へ向かうパトカーに、もっと早くと怒鳴りたくなる。
 現場ではヒーローとしてなんとか保っていた虚勢が、無様に崩れて俺の本心が剥き出しになってゆく。
 心配をかけたくないとか傷つけたくないとか、そんな綺麗事が激情を前にして吹き飛んでしまう。
 ナマエが幸せなら、隣にいるのが俺じゃなくてもいい?
 嫌に決まってる。俺が守りたい。駆けつけたい。バカなことするなと叱りたい。
 愛してると、伝えたい。

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