さよならOctober U
動揺を隠そうとして、意識してゆっくりと階段を上がった。いや、うまく足が動かなかったから、ゆっくりとしか上がれなかった。笑顔で手を振ることなんて、とても出来なかった。
十月の気温とは関係なく、凍えるように全身の血が冷たくなって震える。頭が真っ白のままもぞもぞとベッドに潜り込んでからようやく、冷たい鼻先を熱い涙が流れた。
夜中に、それも寝ている時に、しかも明日も普通に仕事だってのに、突然の電話が嬉しかった。呼び出されて綺麗な月を見上げて浮かれていた自分が恥ずかしい。
消太は、私に別れを告げにきたのに。
もう会えないと思うと、芽生えたはずの恋が喪失感で余計に成長して、もうとっくにとっくに消太が掛け替えのない存在になっていたと思い知らされる。
きっと私がきちんと認める前に、消太はこの気持ちを悟ってしまったんだ。だから、あの日から会いに来なくなってたんだ。
合理的な関係でいられなくなると、私のことをそういう目で見ていない消太からすると迷惑で面倒で大変だもの。キッパリとここで終わらせる。そういうことでしょう。
枕がどんどん濡れていく。落ち込んだ時に抱きしめて欲しい相手はもういない。
あまりに突然で、なんだかそれが消太らしくて、フェードアウトしないところに好感が持てて、終わり方まで好きなんて思うくらい、やっぱり私は消太に惚れている。
一人の夜なんていくらでもあったのに、しじまの中に鼻をすする音が響く度、孤独が重く暗くのしかかってくる。
「っ……ぅ……」
連絡先、消さなくちゃ。
暗い寝室の中で光る画面には、さっきの着信履歴。そこから辿る、電話番号と『消太』としか入ってない連絡先。
どうやって消すんだっけ。トークアプリのやり方しか知らないよ。ようやく辿り着いた削除を押すと、ダメ押しに本当に消していいか確認までしてくる。指先が震えて、誤タップひとつで、ほんの数キロバイトの容量が空いて、私たちの繋がりはゼロになる。
ショートメールの履歴も――。
飾り気もなければ無駄もない、簡潔なやりとりが全て抹消される。
約一年前に、ヴィランから助けてもらった夜が懐かしい。
月に数回会うだけ。なのに、私たちの距離は確実に、最初の頃とは違う。走馬灯のように脳裏を駆け抜ける一年分の消太が、涙になって溢れてくる。
好き。
一度も言わなかった。何度もセックスはしたけれど、好きとか愛してるとか可愛いとか、お互い一度も言わなかった。そんな関係じゃなかった。そんな感情も、無かったはずなのに。今は、こんなにも言いたい。
ごめんなさい。私は絶対にヒーローに恋なんてしないなんて、啖呵切っておきながら。好きになっちゃってごめんなさい。
別れを切り出す苦しさを、消太に押し付けてごめんなさい。
ぐちゃぐちゃの思考は次第に泥に沈んで、ぐちゃぐちゃの枕を抱きしめたまま眠っていたらしい。気が付けば、朝だった。
夢でも消太のことを考えていた気がする。まったく良質な睡眠といえないお粗末な休息。頭痛を伴う目覚め。
でも、仕事だと思うと体は起きるし準備を始める。
泣き腫らした顔は化粧で隠されて、気に入ってるスカートを履いて、ヒールを鳴らして外に出ると自然と背筋が伸びた。
ほらね、やっぱり、仕事に一生懸命でよかった。私の仕事へのプライドが、私を前に動かしてくれる。忙しくしていれば、忘れられるはず。残業すれば、消太が訪ねてくるかもしれないとか、考えなくてすむ。
系列の事業所のヘルプも、相談業務も、手当たり次第に引き受けてこなす日々。
時折、遠くでパトカーのサイレンが聞こえてくると、ぐいっと引っ張られるように心が騒がしくなる。消太もそこにいるんじゃないかって。ヒーローしている姿を思い出す。こんな未練たらしい女、消太が一番嫌いなタイプなのに。
ヒーローなんて。付き合ったら、こんな風に事あるごとに消太の安否を憂惧することになるんだから。そんなの。そんなの、私は。
泣く暇が無いほど働いて、私の十月は、まるで消えたかのように記憶に残らず、あっという間に月末を迎えた。
夜遅くなる帰り道、どんなにゆっくり歩いても、消太が現れることは一度もなかった。
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