さよならOctober T


 新涼の満月の下。足元には捕縛布に巻かれたヴィランが抵抗を諦めて転がっている。
 ヴィランと繋がった捕縛布を握り直しながら、スッパリと切れた腕の傷を見て、ナマエを思い出す。
 そんなに深くない。縫うほどじゃない。けれどぷくりと溢れた血は、熱く服を湿らせて広がった。ただ、ズキズキとした痛みが、ナマエの心配そうな顔を頭から消すことを許さない。
 脳の容量の片隅どころか、最近は何をしてても彼女を絡めて考えてしまう。恋に患うとはよく言ったもんだが、つまりそういう状態なんだろう。
 警察にヴィランを引き渡し、一緒にやってきた救急車で傷の処置を受ける。止血もガーゼも包帯の巻き方も、当たり前だが自分でやるよりずっと綺麗に仕上がった。これならば、ナマエも俺を追い返しはしないだろう。
 お手柄だったね、と労ってくれた馴染みの警察官に簡単に挨拶をして、現場を立ち去る。月が明るく照らす夜道を、確実な目的を持って進む。この一件を片付けたら、今日の治安維持活動は終わりと決めていた。
 向かう先は、ナマエの部屋だ。
 先月、肉まんを持って彼女に会いに行った時、本当は言ってしまおうかと思っていた。
 猫がどうという話じゃないが、死というものは何かの決断を迫ってくる。生きている事を自覚して、もっと足掻かなければと思わせる。一気に気温の下がるこの季節特有のセンチメンタルのせいだろうか。腹をくくれ、と、思い出の中の何かが俺を煽ったのだ。
 だけれど、言えなかった。
 家に上がり込んでしまったから。それに酒も飲んでしまった。
 力で敵わない相手から望んでいない告白をされるのに、逃げられない環境なんて嫌に決まっているだろう。告白するならば、彼女が自分のタイミングで俺から離れることができるような場所ですべきだ。それに酒も入っていたら、気の迷いにされてしまうかもしれない。
 いいや。いくつかの懸念を言い訳にして日和ったんだ。
 それ以来、俺は彼女の部屋に行けていない。
 次こそ、隠し切れない。そう思ったからだ。
 どうせ誤魔化しきれやしないなら、俺の口からはっきりと伝えるべきだ。想いが通ずるかどうかは問題ではない。俺たちの関係は、好きにならない、という条約のもと成り立ってきた合理的な関係。こんな劣情を内に秘めて彼女を抱くのは、裏切りだ。
 それに、はっきりと拒絶されたら、俺の中では区切りがつくだろう。
 彼女はまた他の男と適切な距離を保って体の関係を結ぶのかもしれないし、本気で心奪われる人に出会うかもしれない。幸せならばそれでいい。
 もし、もし、意味もなく抱きしめたり、甘やかしたり、ただ好きだからしたくなる干渉を許してもらえるならば、関係を継続したい。絶対に見返りを求めないと約束したら、まだセフレでいるくらいは、許してくれないだろうか。
 支離滅裂だと、自覚している。一つはっきりしているのは、感情が一線を超えたならば言わなければならない、という、それだけだ。
 俺は、スマホを取り出して、通話のアイコンをタップする。
 電話番号しか知らないし、ショートメールの短文でしかやりとりをしなかったから、ナマエへ電話をかけるのは初めてだ。呼び出し音が耳に響いて、待っているだけの短い時間がこんなに緊張を高まらせるものだとは。
『もしもし』
 スピーカーを押し付けた耳に、やっと聞こえたふやけた声。確実に寝起きらしい滑舌に、申し訳なさと愛おしさが同時にこみ上げる。
「……ナマエ、今、時間あるか?」
『うん、どうしたの? 電話珍しいね』
 出だしより凜とした口ぶりは、こんな時間に突然電話をかけた俺を責めることなく、柔らかい。
「もうすぐ着くから、少し外に出てきてくれないか」
『ん。どこに?』
「階段の下」
『わかった。ちょっと待ってね』
 近づいてきたアパートの窓に、パチンと明かりが灯ったのが見えた。あの部屋に上がることは、もう二度とないのかもしれない。きっと、少し放置しているからまた散らかっているだろう。仕事熱心で勉強好きで几帳面なのかと思いきや、片付けが苦手なんてギャップが、なんだか可愛らしくて。俺はどこに座ればいいんだよ、なんてため息を吐きながら片付けをするのだって、嫌いじゃなかった。
 外階段の下に着くと、途端に手に汗を感じた。
 夜中の静寂がキンと張り詰める中に、コツコツと足音が聞こえて、ゆっくりと視線を上げる。月を背負った彼女が、階段をゆったりと降りて来た。部屋着にカーディガンを羽織って、絶対に会社で見せないだろう、ふわりと蕩けるような微笑みを携えて。
「涼しいね」
「満月だよ」
 ほんとだぁ、と夜空を見上げた彼女は無邪気に感嘆の吐息を漏らす。
 キラキラと星を溶かした瞳に見惚れながら、月が綺麗ですね、といった文学的な言葉が頭を過ってしまうくらいには、俺は俺らしさを見失っている。
 心臓は情けないほど早鐘を打つし、つばを飲み込んだ喉はごくりと鳴って、なかなか言葉を紡げない。
「あ、消太怪我してる」
 目ざとい彼女に、俺は今日は、堂々と腕を捲って見せた。
「大した怪我じゃないし、ちゃんと治療を受けた。問題ない」
「そう。そっか。それならよかった」
 ポケットに突っ込んだ手は無意識に拳を握る。会ってしまえばやっぱり、もうこの気持ちを隠していることなどできない。どんな流れで、告白に持っていくのか。普通どうするんだ。突然、言っていいのか。よく晴れた満月だから、外に呼び出すにいいだろうと勢いでここに来たのに、流れなんてちっとも考えていなかった。
「ナマエ」
 とにかく、言わなくては。
「ん?」
 なぁに、と首を傾げて、ナマエは俺を見上げて瞬きをひとつ。
 まっすぐに見つめ返して、狭まった喉から、目一杯平静を装った声を意識する。
「今の、俺たちの関係について、話があって来たんだ」
「……うん」
 ナマエはカーディガンの前を閉じるように、前で腕を交差して、肘のところを小さく握った。すでに、拒絶の態度が表れているように思えて、怖くなる。
 いや、怖いも何も、俺は最初から、彼女の気持ちが俺に向く可能性なんてほとんど考えていないのに。俺は、ヒーローだから。
 けれど全く期待しないでいることだって、やっぱりできなかった。幸せな結末の妄想を、完全に捨てきることができなかった。それくらい、好きだ。好きだからこそ――。
「今のままで、続けることはできない」
 彼女は丸く大きな目をさらに見開いて、唇をぎゅっと結んだ。戸惑う目が、俺から離れてうろうろと泳ぐ。
「わ、わかった……うん」
 好きになってしまった。
 そう伝えるつもりで吸った息は、彼女の声で止まる。
「じゃあ、これでお別れね」
 ふいっとそっぽを向かれて、心臓が凍ったように苦しくなる。
 喉に用意した声は声にならないで、胃へ逆流して吐き気になる。
 足元が崩れたように、平衡感覚がわからなくなる。
 想いを告げることすら、許されなかった。
 それが答えだ。俺のことはセフレ以上には思えないから、それ以上を望むならこれでオシマイ。そういう、意味だろ。
 どうして、なんて問い詰め縋るには、理由が明白すぎる。
「連絡先、消すね」
 カツン、と階段の一段目に早くも片足をかけて、ナマエは俺に背中を向けた。
「悪かった……」
 好きにならないと言ったのに、好きになってしまって。
「いや、私こそごめんね。楽しかったから、ありがとう……怪我、気を付けてね」
 ナマエは俺を一瞥もすることなく、後ろ姿はすぐに見上げる高さになって、視界から消えて、バタンガチャと聞こえて、俺はまるでそれっきり音が消えてしまったみたいに、脳が情報の処理を放棄したみたいに、景色も匂いもわからないまま、気付けば自宅に戻っていた。
 想像以上にあっさりとした別れ。
 いや、別れることになるだろうとは、思っていたじゃないか。
 言わなきゃよかった≠ニこれでよかったんだ≠ェ頭のなかでぐちゃぐちゃになって、思考はとりとめもなく彼女との穏やかな時間を再生する。
 潰れそうなほどの切なさを抱いて眠るには、秋の夜は長すぎる。
 夜の空から満月がぽっかりと抜け落ちた。そんな、気分だ。

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