猫とSeptember

「もしもし。お盆も帰れなくてごめんね」
 飛行機に乗らないとたどり着けない距離の実家は、就職してから一度も帰ることができていない。『年末年始もお盆も帰るどころか電話もろくによこさないじゃない』とお母さんは呆れと諦めを混ぜた愛情深い文句をたらす。その声に、故郷を想って安心する一方で、どこか緊張もしていた。
 ソファに寝転がると、シーリングライトが眩しい。肘掛けを枕に横向きになって、爪の甘皮を眺めながら、積もったような積もってないような話に耳を傾けた。畑の野菜を送ろうかとか、従兄弟がついにプロポーズして結婚が決まったとか。来春には挙式だから、その時くらいは帰ってきなさいね、とか。
『ナマエはいい人いないの?』
「ええー」
 結婚話からお決まりの流れ。想定の範囲内の質問なのに、どきりと緊張が増す。いい人。その言葉に、頭いっぱいに消太が浮かんで、胸がさざめいた。
 あの日、普段なら聞き流せるはずの揶揄いにものすごくダメージを受けて、荒んだ気分のままに消太に愚痴ってしまって、それから私はおかしい。キスなんて何度もしているのに、それなのに、あの優しすぎる唇の感触を忘れられない。
 緊張の正体は、後ろめたさだ。
「んー、いい人はいない、かな」
 そうよねぇ、なんて相槌。私がかつて叔父さんに憧れて撃沈してから、恋愛に消極的なことをお母さんは知っている。
「仕事ばっかりしてる。十一月にある研修と試験に向けて勉強したり」
 十一月の、五、六、七日と――。壁にかけてあるカレンダーへと目を向ける。まだそこは九月で、端に載ってるのは十月で、十一月の予定は見ることができない。
 なんだか、違和感が。十一月。何か忘れているような。
「あ」
 消太の誕生日だ。たぶん、きっと、十一月の、七日? 八日? 研修から戻っているだろうか。いや、別に祝うわけもないから、関係ないけど、もしかしたら消太だって流石に誕生日に一人ってのは寂しくて私のところに来るかも――。いやいや、来るわけないか。消太だってそういう日くらい、祝ってくれる友達がいるだろうし。祝うとか、きっとちょっと、セフレとしてうざいだろうし。
『どうしたの?』
「えと、ううん、何でもない。あの、ほら、同期の夏深くんも一緒にそれ受けるの。大体二年目に取るって決まってるやつだから、難しいわけじゃないけど落とさないようにしなくちゃ」
『そう。元気に働いてるなら、安心ね』
 お母さんは、女だからって腰掛けに仕事せずに、自立してしっかりと働けという人だ。お母さんからすると弟でヒーローの叔父さんは、怪我をして、ある日突然生活が百八十度変わってしまった。ヒーロー活動はおろか日常の動作すら困難になった。その時、叔父さんはすでに結婚していて、奥さんが社会的に自立していたことがどれだけ救いだったかとよく言っていた。
 備えあれば憂いなしだ。相手がヒーローかどうかによらず、事故や事件に巻き込まれることは誰にでもありえるから、女性も社会的地位を確立しているべきと。私は何度もそう言われて育った。
『ねぇ、そうだ、仕事といえばね』
 急に上がった声のトーンに、なぁにと返す。次に電話口から飛び出したのは、叔父さんの名前。
『就職したのよ』
「ほんとに?」
『ヒーローネットワークの事務の方で、情報管理してるの。座ったままでできる仕事だし、ヒーロー関係だし、ようやく働けて最近とても生き生きしてるわ』
 胸がぎゅっとする。お腹の底から喜びが湧いてくる。
 病院にお見舞いに行って、もう彼は歩けないだろうと言われた時の、暗転するような衝撃を思い出す。それら数年。リハビリを経て、車椅子を一人で操作できるようになって、やっとやっと。よかった。
「そっか……そっか、よかったね」
 目頭が熱くなって、ぐっと閉じた瞼の裏に記憶が蘇る。ベッドに横たわりまだ痛みの残る体で、生きていればなんとかなると笑った叔父さんが。
 それから、消太と重なる。怪我をしてきた時の姿が、匂いと感触を伴って意識にまとわりついてくる。つい、責めるような言い方をしてしまった時の、消太の泣きそうな顔。安心したように、痛いと言いながら、私に重なった重みを思い出す。
 私は、叔母さんのように耐えられるだろうか。消太を大切な人にしたくない、失う恐怖が胸を締め付ける。
 そんな想像をしてしまう段階で、もう、ダメなのに。この不安こそが、私の気持ちが何なのかを物語っている。
「あのさ、お母さん。ヒーローと付き合うって、どう思う?」
 電話の向こうで、んー、と悩ましい声。けれど小さなため息は暖かい。
『……ヒーローの家族として、正直言うと、心配が多すぎて大変よ』
 しゅんと萎んだ心が正直すぎる。
 そうだよね。きっと大変。怪我が絶えないし、少しのミスでバッシングを受ける。華やかで誇らしいだけが全てじゃない。
 だよね、と挟んだ相槌に、お母さんは、でもね、と続ける。
『結局、ヒーローかどうかを理由に相手を選ぶわけじゃないよね』
「まぁ、そ、っか」
『まさか〜、ナマエ』
「ちがうよ、友達の話!」
 不意に、かちゃりと聞こえた鍵の音。
 心臓の鼓動が波紋のように全身に広がる。
「あ、切るね。今年は年末帰れたらいいな」
 ばいばい、と切れた通話。それと同時にリビングの扉を開けたのは、もちろん消太だ。
「邪魔したか?」
 無気力そうな目が、ソファでごろんと寝転んだ部屋着の女を、当たり前の光景として見つめる。
「大丈夫。お疲れ」
 私はだらけていた体をさっと起こして、座り直して、肘掛けについて乱れた髪に手櫛を通した。何を、意識してるんだろう。前まではソファに寝たまま、スマホを見たままできた返事が、自然体でできない。
 消太は、手首にぶら下げたビニール袋をガサガサいわせながら捕縛布を外し、私の横にやってきてぽすんとソファに沈んだ。小さな衝撃で私もくらりと揺れる。
「ナマエ、これ」
 目も合わせずぶっきらぼうに突き出されたコンビニ袋。
「なぁに?」
 両手で受け取ると、それは袋越しでも暖かくて柔らかくて。
「肉まんだ」
「ん」
「何かお願いでもあるの?」
「いや、なんとなく……いらなかったか」
「いるいる。ありがと。肉まんのお礼はビールでいい?」
 別に、の後、うん、と歯切れ悪く答えた消太は、背もたれに頭まで預け、ふうーと大きなため息を吐いた。どことなく、お疲れの雰囲気がある。冷蔵庫から買い置きのビールを持ってきて渡すと、彼はすぐにタブを起こして、ぐびぐびと煽った。
 せっかく熱々のままやってきた肉まんは、熱々のうちに頂かなくては。ソファに座り直して、私も早速ぱくりと白い艶肌にかぶりついた。
「ん〜!」
 今年の初めに、一度だけこうして私の分の食べ物を買ってきてくれた時も、肉まんだった。消太はきっと、それくらいしか私の好きな食べ物を知らない。
「うまいか?」
 はふはふと大きな口で肉まんを頬張る私を、三白眼がしっとりと見つめていた。その目は切なそうに細められ、眉間はシワまでないけど力んでいて、唇は力なく。熱っぽいというより、苦しそうな視線は、もぐもぐと咀嚼する頬から、ゆっくりと落ちる。
「おいしいよ?」
 コトン、と缶をテーブルに置いて、空いた手がそのまま、私に伸びて来る。
「一口」
 大きくてゴツゴツした手が、私の手首を掴んだ。引かれて肉まんを落としそうになって、ぎゅっと指先に力が入る。あ、と言う間に、綺麗な歯並びが迫って、がぶりと私の食べ口を塗り替えた。
 私より冷たい指が手首を掴んだまま、目の前で食べ物を口にして、噛んで、噛んで、飲み込む。
 消太がここにいる尊さ、という、意味不明の感情が込み上げて来て、彼の、栄養を摂取する内臓までの全部が、愛しくなる。
 消太はいつも通りにしているつもりなのかもしれないけれど、髪の隙間からちらちらとしか見えない目は、普段より淀んでいる。
「うん……うまいね」
 そのくせ消太は笑った。ギリギリ笑えたくらいの、崩れそうな微笑みに息が止まる。何を堪えているのか、何に傷ついているのか、私が聞いていいのか、知りたくて、分からなくて、私もへらっと微笑んだ。
「半分こしようよ」
 二つに割った片方、消太に掴まれた手の方をそのまま口に近づけてやる。あぐ、と歯を見せて開いた口が私の指ごと食べる勢いで食らいついて閉じた。
「わ」
 ぺろりと一口で消え去った半分は、ごくんと消太の胃におさまった。放された手首は熱く、手の中には包み紙だけが残っている。
 残された半分は、頑張っても二回に分けなければ食べられなくて、私の無謀な挑戦に消太は少しだけ普段のようにふっと笑った。空気がほんの少し和んで、安堵で息が軽くなる。
「何か、あったの?」
 肉まんを分け合って食べ終わり、包み紙をくしゃくしゃと丸めながら、私は出来るだけどうとでも取れる言い方で消太を探る。
「いや……うん」
 黒いまつ毛は伏せて、穏やかな声は湿った吐息混じり。誤魔化せないと諦めたように、消太は薄い唇を小さく動かした。
「猫が、死んでたんだ」
 ぽつり。吐露は、猫の死を悼む。
 私は、消太がきっと野良猫を可愛がっていたことを、想像でしか知らない。
 消太は、ただ親しみのある猫の死を悲しんでいるだけではなく、もっと何か遠くを見つめているようだった。消太は、時々遠い目をする。その時、過去のどんな景色を見ているのかも、彼が乗り越えて来た悲しみの一つも、私は知らない。
「よく餌をあげてたヤツだった。歳だったから、今日路地裏で見つけた時には、もう冷たくて……。埋葬してきた。それで、俺もこんな風に人知れず……」
 その後、彼の喉は音を絞り出すことはなく、つま先へ落ちていた視線は私へと向いた。思い詰めたような、切なさを閉じ込めたような、優しさに首を絞められているような、そんな複雑な瞳に縫い付けられる。
 彼が何を言おうとしたのか、私には分からない。
 消太のことなんて、知らないこと分からない事ばっかりだ。それなのに、好きだ。一匹の猫のために心を痛める消太が。
 好きなんだ。これは恋だ。
 消太はヒーローなのに。
 あぁ、今まで無意識に、ヒーローだから恋愛対象じゃないと、芽生えはじめていたこの気持ちから目を背けて来たのだろう。そうでもなければ、こんなに、こんなに心が近くなってしまった理由に説明がつかない。
 もっと早く適切な距離を取るべきだった。セックスもしないのにふらりと現れるのは止めてと、線を引くべきだった。
 それなのに、寂しい気持ちを抱えて私の所に頼って来てくれたのが、嬉しくて。
 私の指先が、髭の頬に触れたから、小さな黒点は揺れて、ゆっくりと瞼が閉じる。
「消太……」
 筋肉質な肉体へ、身体を寄せて抱きしめる。私の体格では、大柄な彼を包み込むとは言えないのが悔しい。
 抵抗しないで身を任せる構えの消太へ、触れるだけのキスをする。ありえないくらい鼓動が大きく聞こえて、溢れそうな何かを抑え込むのに必死で、啄むような拙い口付けしかできない。
 かさついた唇が私の潤いを奪って湿る。長い髪を分けて、彼の耳に触れると、消太は息を吹き返したように攻めに転じて舌を捻じ込んできた。
 突然深くなって、吐息が鼻から抜ける。舌を絡めて応じながら、ツナギのファスナーを手探りで下ろす。ほぼ同時に、部屋着のTシャツの裾から消太の手が滑り込んできてウエストを撫でた。
 ヒーローである消太は、私の気持ちの変化に気がついたら、すぐに関係を終わらせるだろう。だって、彼は優しいから。口では面倒って言いながら、本気になればなるだけ傷付く相手を案じてる。
 気付かれたくない。
 だから今まで通り、求めるまま、求められるまま、身体を繋げて慰め合うしかない。
 私たちの間には、最初からセックスしかない。だから。きっと、きっともう終わりにしなきゃいけない。
 ソファの上で、電気すら消さずに。一枚一枚脱ぎ捨てて、私たちはお互いの血の巡りを確かめるように肌を寄せ合って、息苦しさが愛しくて呼吸を奪い合い、何かを忘れたくて快楽に溺れた。
 眩しい照明の光と目の前に爆ぜる火花がぐちゃぐちゃになってゆく。
 人知れず亡くなる猫のように、いつか倒れるその日が消太にも訪れるのだろうか。その危険があるから、消太は、恋人を作らないんだから。きっと刹那的な関係に留めるように、決意を強くしたに決まってる。私だって、きっと耐えられない。危険と隣り合わせの生活を送る彼に、心をすり減らす日々に。ああ、別れの哀愁が色濃く匂うのは、猫のせいじゃない。
 がつがつと私の中を掻き乱す熱が、ほんのり汗ばんだ首筋が、黒髪の湛える土埃の香りが、愛おしさと同じだけの痛みを生む。
 体温を分け合って、快楽に溶けて一つになって、深く、強く、繋がっている。けれど、この気持ちは絶対に届きはしない。
 好きな人に抱かれているのに、涙が出そうだった。

-BACK-



- ナノ -