sketch | ナノ
※阿部視点


 こんなにも人を好きになったことはなかった。
今までそれなりに野球漬けの毎日を過ごし、それなりに人と付き合い、それなりに勉強をして、本当に普通の人生を送ってきた。だからこんなにも誰かのことを想って悩んだり後悔したり嬉しくなったり、そんなの全部はじめてで。経験すらないもんだから、自分の頭がおかしいのだと思い込んでいた。苗字と出会って俺の人生が変わってしまったと言っても過言ではない、と思う。

 苗字を理科室に連れ込んで鍵をかけた時、俺はかなり苛々していた。
「か、鍵かけたら駄目じゃない?」
人の気も知らないでそんなことを言う苗字に更に苛々が増して俺はぶっきらぼうに答える。
「良いんだよ。他の奴が入ってきたら困るし」
苗字は首を傾げた。まるで「他の人が入ってきたら困る会話でもするの?」みたいな顔をして、俺を見る。そんな顔を見て、ああコイツってほんとに思ってること顔に出るよな、と薄くため息を吐いた。

「それで。なんで三橋のことフッたんだよ、お前」
それが今一番知りたいことだった。俺は誰よりも苗字が三橋を好きだってことを知ってる。コイツがどれだけ三橋を想っているか、そしてどれだけ三橋のことで悩んだか。全部知ってる。他の奴は知らないだろうけど苗字だってただ鈍感なだけじゃないんだ。そう、俺はそんな苗字が好きなはずなのに、この鈍感な苗字を相手にすると苛々する。
 苗字は途切れ途切れに言葉を発して、明らかに焦っていた。そんな苗字に追い打ちをかけるようにして「おい」と声を掛け後ろの壁に押し付ければ、泣きそうな顔をされた。

「じ、じゃあ私も聞くけど…何で、阿部君怒ってるの」
動揺で微かに自分の瞳が揺れた。
それくらいお前が察してくれないと困るんだよなとか文句を言ってやろうかと思ったけど、それを言ったところでコイツはきっと理解しないだろうから俺は少し間を開けて答える。

「ムカつくから」
わざわざ分かりやすく答えてやったのに苗字はまだ「…え…?」と聞き返してくる。この鈍感には勝てる気がしないと判断した。

「お前、三橋のこと好き好き言うし、そのくせ誰にでもヘラヘラして嫌な奴だし、それにさっきだってお前、花井と楽しそうに話して、」
だんだん自分の語尾が大きくなるのを感じながら、俺は必死になっていた。頭に血が上ると声が大きくなるのは俺の悪い癖。
「俺には見せたことないような顔、あいつらには見せんのかよ!!」
「っ、!」

俺が一際でかい声でそう言うと、苗字の目が見開かれた。俺が口を閉じると静かな理科室がより静かになる。苗字は唖然と口を半開きにして俺を見た。

「…あ、阿部くん…」
「、んだよ」
「それって…」
「あーマジで苛々する!これだけ言ってまだわかんねえのかよ、この馬鹿!!」

言ってやった、言ってやったぞと少しスッキリしていると苗字がショックを受けたように肩を落とした。俺の息が整うと同時にふとした疑問が浮かんできて俺は再度、口を開ける。

「お前…俺のこと、どう思ってんの」
苗字が今日一番、目を真ん丸にさせて驚いた。まるでありえない台詞を聞かされたような顔をされて思わずムッとする。すると苗字はだんだん視線を下に下げながら、ぽつりぽつりと聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。

「…わ、私は…阿部君のこと、好きだよ」
「え?」
「あのね阿部君聞いて、私は…――っ、!?」
苗字が言い終わらないうちに抱きしめたのは、衝動だった。小さい声で言われた台詞をちゃんと聞き取れて良かったと思いながら苗字の華奢な体を強く抱きしめる。苗字は優しい匂いがした。よく女子から香るドキツイ香水みたいな匂いじゃなくて、そのまんまの苗字の匂い。

「あ、あべ、く…!?」
「好きだ」
「、え…?」
いきなり抱きしめられて焦る苗字なんか無視して、俺の気持ちも告げた。きっとこれが最後のチャンスだ。今まで散々苗字の気持ちを「無理」だの「無駄」だの言いつけて、そうして自分の嫉妬を発散させてきた。数えきれないくらい苗字を傷つけて悩ませたのは他の誰でもないこの俺だ。そんな俺の気持ちを、苗字は受け取ってくれるか分からない。だけど確かに分かっているのは、苗字が俺を好きだということ。いつから三橋よりも俺を好きになったのかは、この際どうでもよかった。ただ、苗字の気持ちが俺の自信になる。それでも微かに震える手を抑えきれなかった。

「この前は、悪かった」
それは、俺が苗字を襲おうとした日のこと。さすがの苗字もそれは悟ってくれたようで、「…私は、平気だよ」と笑った。だけど腑に落ちない。
「んなこと思ってねえくせに」
そう言うと、苗字は図星だったのか苦笑した。
 それから苗字が「田島君とは…その、話したの?」と聞いてきたから田島が言っていたことを話してやれば苗字は少し照れたようにしてまた笑う。

「…田島君は、ぜんぶ分かってるんだね」
そう言った苗字の言葉に、俺は嫉妬した。
確かに田島は俺よりずっと長い間、子供のころから苗字と一緒にいたから田島の方が苗字を知ってるのは当たり前だし、苗字だって俺よりも田島の方が一緒に居て気楽なんだと思う。それは幼馴染だから当たり前だとは理解しているものの、やはり苗字が田島を信頼していることを聞かされると苛立った。
 以前名前はいじめられていた。そのせいでいつも泣いてた名前を慰めていたのは田島だと聞いた時、俺は苗字にとって田島以上の存在になりたいと本気で思った。確かに時間はかかるかもしれない。それを叶えるには何年も必要かもしれねえけど、俺は田島がしたように苗字を避けるなんてことは絶対にしない。どんな苗字でも心から愛せると、決めたから。

「…阿部君」
「何だよ、」
「私も、好き」

そんな苗字の言葉に俺は顔を真っ赤にした。抱き締めていた苗字の体から離れて目を合わせると、俺の顔を見た苗字もつられて顔を赤くする。その瞬間、苗字の目からぶわっと涙が溢れて止まらなくなった。それが何から来る涙かは俺も分からない。けど、俺はそんな苗字を再度優しく抱きしめて、言ってやる。

「お前、最初から俺にしときゃあ、こんな涙流す必要なんてなかったくせに」
泣き止まない子供をあやすようにして背中を撫でてやれば、苗字は余計に涙を流し必死に「好き」だと言ってきやがった。これ以上そんなことを言われると理性が保てなくなりそうな反面かなり嬉しくて、俺は苗字を心から好きなんだと実感させられる。しばらく泣き止みそうにない苗字をしょうがねえ奴だなと思いながら頬を緩ませた。


(こんなにもお前が好きで仕方なくて、もうどうしようもない)

 20130326