sketch | ナノ
 阿部君に連れて来られたのは理科室だった。理科の担当教師はかなり自由な性格で、こうしてよく理科室の鍵を開けたまま職員室に行ったりしているため、もはや理科室は生徒が自由に出入りできるようになっている。それもそれで問題だが、それはまた別の話。
阿部君は理科室に入ってから私の腕を離してドアを閉めた。ピシャンと音が鳴り、私は思わず肩をビクつかせた。そしてどういうわけか内側から鍵をかけて私に向き直る。

「か、鍵かけたら駄目じゃない?」
「良いんだよ。他の奴が入ってきたら困るし」
他の人に聞かれちゃいけない会話でもするつもりなのだろうか。
 阿部君は薄く息を吐き、また真剣な顔で私に問いかけた。

「それで。なんで三橋のことフッたんだよ、お前」
「!……そ、それは…」
下唇を噛み締めて黙りこめば、阿部君は呆れ腐った顔で一歩ずつ私に近づく。私は逃げることすら考えずに、私の気持ちを伝えるべきか伝えないべきか考えていた。
 今ここで阿部君に気持ちを伝えたら、私は嫌われてしまうかもしれない。もう人に嫌われるのは嫌だ。でも、でも私は、

「おい」
「っ、あ」
「黙んなよ」
ぐいっと腕を掴まれてそのまま後ろの壁に叩きつけられる。

「い、痛いよ、阿部君」
「良いからとっとと理由言えよ」
「……、」

こんな風に悩むことは、千代ちゃんに失礼だと思った。あの時千代ちゃんは私に、阿部君と幸せにならなかったら許さないと言った。その通りだ、千代ちゃんは私のせいで自分の恋を諦める羽目になったんだから。その分私が、無駄にしちゃいけないのに。それなのに口が動かなくて、目の前に立つ阿部君が、どうして怒っているのかも分からなくて、

「なんで?」
「じ、じゃあ私も聞くけど…何で、阿部君怒ってるの」
「、」

阿部君の瞳が微かに揺れる。阿部君は少し間をあけて、言った。

「ムカつくから」
「…え…?」
「お前、三橋のこと好き好き言うし、そのくせ誰にでもヘラヘラして嫌な奴だし、それにさっきだってお前、花井と楽しそうに話して、」
だんだん阿部君の語尾が大きくなる。最後に阿部君は、大きな声を出した。
「俺には見せたことないような顔、あいつらには見せんのかよ!!」
「っ、!」

阿部君が悔しそうな顔をして口を閉じると、理科室がやけに静かに感じた。シンと静まり返った空間の中、私は驚きのあまり口を半開きにする。阿部君は私を見ようとしなかった。

「…あ、阿部くん…」
「、んだよ」
「それって…」
「あーマジで苛々する!これだけ言ってまだわかんねえのかよ、この馬鹿!!」
「うっ」

そんなに大きな声で言わなくても…。私はショックで肩を下ろした。阿部君は荒い呼吸を繰り返し、でもすぐに落ち着いた呼吸に戻る。
「お前…俺のこと、どう思ってんの」
「え…?」
「それだけ聞ければ、もう良いから。教えろよ」

阿部君が苦しそうな顔で私を見つめる。私は徐々に視線を下げながら、ぽつりぽつりと小さな声で気持ちを伝えた。

「…わ、私は…阿部君のこと、好きだよ」
「え?」
「あのね阿部君聞いて、私は…――っ、!?」

ぎゅう。まだ自分の気持ちをちゃんと伝えられてないのに、思い切り抱きしめられて一瞬息ができなくなった。阿部君は私の背中をぎゅっと握るようにして包み込む。阿部君の匂いが、いっぱいに広がった。

「あ、あべ、く…!?」
「好きだ」
「、え…?」

不意に言われた言葉に目を見開く。阿部君の顔は見えないけど、その手が震えているのに気付いた。緊張しているのか阿部君の手は冷たくて、私はどうしようもない気持ちでいっぱいになる。

「阿部君と幸せにならなかったら、許さないから」
ふと千代ちゃんの言葉が頭に浮かぶ。千代ちゃんは、このことを知っていたのだろうか。阿部君が私を好きだったことも、全部知っていたのだろうか。そんなことを考えて自分勝手に胸を痛めた。阿部君が私を抱きしめている感覚に、顔に熱が集まる。恥ずかしいのに、ずっとこのままでいれれば良いのに、なんて。
 私は本当に、阿部君のことが好きだ。それが私なりの自信だった。

「苗字」
「な、に?」
「この前は、悪かった」
この前っていうのは多分、私に無理矢理キスしたことだと思う。

「…私は、平気だよ」
「んなこと思ってねえくせに」
嘘は案外すぐにバレてしまうものだ。私は苦笑した。

「田島君とは…その、話したの?」
「ああ。…あいつ、お前のこと守りたかったんだってよ」
「…え?」
「だからあの時、咄嗟に名前の気持ちも後回しにして阿部にサイテーって言って悪かったって、言ってた」
「…田島君は、ぜんぶ分かってるんだね」
「は?」
「…阿部君」
「何だよ、」
「私も、好き」
「、」

私を抱きしめる力が弱まって、阿部君はゆっくりと私から離れた。目が合うと阿部君は真っ赤になっていた。つられて私も益々赤くなる。そのまま何秒か見つめあって、気付けば野球部の放課後練習の開始時間はとっくのとうに過ぎていた。
 阿部君の言葉と自分の気持ちが頭の中でぐちゃぐちゃになって、嬉しいのか恥ずかしいのか、どちらか分からないけれど涙があふれた。大粒の涙に、声までもがこぼれる。阿部君はそんな私をあやすかのようにして再度優しく抱きしめた。

「お前、最初から俺にしときゃあ、こんな涙流す必要なんてなかったくせに」
背中を優しく撫でられても涙は止まらなくて、つっかえながらも喉をしゃくり上げて「好き」と必死に伝えた。


(あなたが好きで、好きで、どうしようもないんです)


 20130325