sketch | ナノ
(阿部視点)

 あれから俺は苗字から逃げるようにして職員室へと向かった。その時篠岡が丁度職員室から出てきて、俺は篠岡に声を掛けた。篠岡は焦っていたようだったが、別にそんなのは頭になかった。脳内を埋め尽くすのは先ほどの苗字の顔だけで。何であんな表情したんだよ、何で俺を引き止めたんだよ、なんて下らないけれどそれでも俺にとっては重要な疑問ばかり。篠岡は顔を真っ赤にして言った。

「す、好きです。阿部君のこと、ずっと前から好きでした」

俺の脳をループしていた苗字が、やっと消えた。

「え?」
「…私と、付き合って下さい」

生まれて初めて、だったか?告白されたのは。
俺は昔から女子とは無縁だったからな。まさかこんな場面で告白されるとは思わなくて、俺は思わず言葉をなくす。篠岡は俯いたままだった。

「…その、…さあ」
「は、はい」

 言葉が出ないのはマジだったけど、ちゃんと言わなきゃいけない。こういう時ばっかり俺は律儀だと自分でも思うよ。篠岡はバッと顔を上げて俺を見る。その時、急に苗字の顔が浮かんで俺は思わず唇を噛み締めた。

「阿部君…?」
「!あ、悪ィ…えっと、…俺は篠岡の気持ちには答えらんねーし、篠岡の事そういう風に見た事なかったから」
「……そ、そっか」

篠岡の顔が一瞬曇った。だけどすぐに、その独特で阿呆っぽい笑顔を見せて「ありがとう、スッキリした」と俺に言う。無理をしているのは、俺が見ても分かった。篠岡の目は笑ってない。それどころか、涙さえ浮かんでいる。(俺が泣かしたんだよな……)
俺はずっしりと体が重くなったように感じたが、それでも後悔はしていなかった。篠岡を好きじゃないわけではない。むしろ野球部のために一生懸命頑張ってくれている良いマネージャーだ。だからこそ、"マネージャー"としてしか俺は篠岡を見れないし、それ以上の感情は抱かない。ここで曖昧な返事をすればコイツを傷つけるだけだ。

 それから篠岡はすぐ部活に向かった。まあ俺も行く場所は同じだから、篠岡と時間差でグラウンドへ向かう。今日一日だけで、一生分の疲れのように感じた。肩が重い。クソ、何で俺がこんな目に…


「あ!おい阿部!遅刻だぞー!」
グラウンドへ着いた途端、田島がデカい声でそんな事を言ってきたから「うるせー、言われなくても分かってる!」と返してやった。八つ当たりだったかもしれない。ただでさえ疲れているのに、これから部活だというその重みが余計に肩に乗っかった気分だったから。田島はふてくされた顔をして、また練習に戻った。(何なんだアイツは…)

 それから各自練習メニューをこなし、もう下校時間となった。練習の前は疲れていたが、練習が始まってしまえばこっちのもの。山のような四時間なんて、たった四分のように感じた。
 号令をかけてから、野球部員はせっせと帰りの支度をする。早く帰って休みたい。そう思っていたら、ふと三橋が俺に言ってきた。

「あ、べくん」
「あ?」

相変わらず聞き取りにくい喋り方だったが、そんなのはもう慣れてしまった。俺は無意識に眉間に皺をよせて三橋を見る。ビビっているようだった

「き、今日遅れての、って…ど、どうしてかなって 思っ て…」
「遅れた理由?んなのどーでも良いだろ」
「よっ、良く な い!」
「…!」

三橋は声を上げた。それに驚いたのは俺だけじゃなかったみたいで、田島が寄ってきて三橋に言う

「どーした三橋、んなでっかい声出して」
「あ、いや そ その…!お、俺みたんだ!苗字さん、が 走って校門出て行く、の…」
「苗字が?」

やばい、今ちょっと顔引きつったかも。俺は慌てて手で口元を隠す。しかし三橋はそれに気づいていないようで、俺は安心した。その矢先、田島が俺の奇行に気付いたようにして俺を見た。

「…阿部さ、最近おかしくね?」
「は?何言ってんだよ…」
「だってお前、練習に集中できてねーじゃん」
「俺が?」

 田島の鋭い眼は、俺の嘘さえも見透かしているようである意味恐ろしい。こいつに嘘は通用しない、そう分かっていても俺は否定した

「んなわけねーだろ!俺はちゃんと集中してたよ」
「嘘だね、頭ん中は他のことでイッパイだったろ!」
「何でそんなのがお前に分かるんだよ…!」
「阿部が分かりやすいだけだっての!なーんかいちいちキョロキョロしてるし、三橋への指示とかの声ユルかったし、ソワソワしてて変なカンジ!!」
「!」

否定、できなかった。俺は肩の力を抜いて、田島を見る。冷や汗みてーなのが額から零れ落ちた。その時モモカンが早く帰れだのグラウンド閉めるだの言っていたから俺達は校門へと場所を移動させる。三橋は疲れていたようで、俺と田島の二人だけになった。

「…水谷が言ってたけど」
「は?」
「阿部って名前のことスキなのか?」
「っ、はああ!?何でそうなるんだよ!っつか水谷アイツ…!!」
「でもそれはホントだって俺思うよ」
「は…!?」

 田島は真っ直ぐな目で俺を見た。

「だって阿部、名前の話になると肩が上がる。あと動揺もする。ゲンミツにさ、意識してるってことだろ」
「…お前に何が分かるんだよ」
「分かるよ。っていうかお前が分からせてんの!!」
「……むしろ、お前が苗字のこと好きなんじゃねえの?」
「好きだよ」
「は?」

俺は思わず間抜けな声を出す。え、今コイツなんて言った?

「俺は名前がスキだよ。ちっせー頃からずっとスキだった。だから阿部に渡すつもりないし、名前は俺のモンにする」
「……田島…」
「俺さ。今のお前ってスゲーかっこわりいと思うよ」
「!」
「自分の気持ちにくらい素直になっても良いんじゃねーの?」
「お、俺は別に
「昔の名前見てるみたいで、つらくなってくるんだよ!!」
「……え?」

(昔の苗字…?)俺は目を見開いて、田島の肩を掴む。田島の顔が歪んだ。いつもヘラヘラしてるコイツのこんな顔を見るのは初めてだ。田島は俺の手を掴み返した。その手が少しだけ震えてんのが分かって、俺は田島を凝視する

「名前さ、昔クラスの一部のヤツラにいじめられてたんだよ」
「苗字が…?」
「ああ。名前はもともとスゲー控えめで内気だったから、とにかく人に嫌われたくねー!って気持ちがデカかったんだと思う。毎日毎日嫌がらせされてすっげーすっげー泣いててさ、俺いっつも慰めてたんだけど、それでも泣き止まなくて俺まで泣きそうになりながら慰めても名前は余計に笑わなくなって、それが俺怖くて、一時期名前を避けてた」
「!!」

改めて俺は、苗字の強さを知った。(アイツ、すげーよ)昔いじめられて、毎日のように泣きまくっては最終的に笑わなくなって、周りに誰もいなくなって…それを想像しただけで、俺なら心が折れるね。それなのにアイツ、今すっげー笑ってるじゃん。毎日のように笑ってんじゃん。友達だって一杯いんじゃん。

「…俺、さ。苗字の事、好きだって…自分の気持ちに気付きたくなくて、"俺は苗字が嫌いなんだ、大っ嫌いなんだ"って思いこませて、自分に嘘ついてた」
「阿部…」
「田島と苗字、俺はお似合いだと思うよ。だけど俺は負けねえ。苗字は絶対俺の物にする…!」

俺がそう決心したと同時に、田島は二カッと笑って「言ったな?」と俺の肩を叩いた。

「…は?」
「嘘だよ、俺は名前を恋愛対象としてじゃなくて、友達としてしか見てねーから」
「……は?」
「まあ大切な奴ではあるけど、彼女にするとかそういうつもりねーもん!これからもずっと、大切な幼馴染兼トモダチ!!」
「…お、お前、まさか…」
「阿部のこと応援すっから!がんばれよ!ゲンミツにな!!」

(そう言った田島がかなり恨めしかったが、コイツのおかげで俺の気持ちが決まったと思えば、それほど苛立ちは無かった)
(…気がした)

 20120521