yasumonoNIHAgotyuiwo | ナノ
 帰宅すると、すでに変態男の靴があった。私がこの家に帰宅するのは、今日が初めて。昨日変態男と出会い色々話してみて分かったことは、変態男は根っからの変態でドスケベで下劣だということだった。もっとマシな人と同居したかったな…。私はため息をついて、家にあがる。
リビングへ行くと、変態男がソファーで寝ていた。すやすやと眠る姿はとても子供っぽくて可愛かった。(ずっと寝てれば可愛いのに…)

「起こさなくて良いかな」
とりあえず自己完結。まあ気持ちよさそうに寝てるのに起こしちゃ悪い。私なりの気の使い方だった。私はそのまま自室へ向かう。早く着替えて夕飯作らないとな。そういえば、変態男は今までご飯はどうしていたんだろうか。まさか毎日コンビニ弁当とかじゃないだろうし、もしかしたら料理が得意だったりして。いやでもそれはないか。

「はあ…疲れた」
バスケ部のエースになってから、練習量をかなり増やした。皆に追い付かれないように。ずっとエースでいられるように。必死だった。そもそも二年の私がエースになれたことさえ、奇跡に等しいのだ。背番号四番をもらえたことも、まるで奇跡。もっと頑張らないと、奇跡は簡単に消えてしまう。
 制服をハンガーにかけて部屋着に着替えたところで、ふと思い出す。好きな先輩の苗字先輩に借りていた本を明日返さないと。今日の昼休みに、男子バスケ部の部長の好きな先輩の苗字先輩が本を貸してくれたのだ。

私は本を持ってリビングへと向かう。まだソファーで寝ている変態男はどうしたら良いのだろうか。とりあえず夕飯を作ってから起こすことにしよう。本を机に置き、キッチンへ移動した。

「材料は適当に使っちゃって平気だよね」
独り言を呟きながら、鍋を手に取る。一通りの材料を確認して今日はカレーに決めた。上手くできるかは分からないが、とりあえず作ってみよう。

 カレーをつくり始めてから十五分くらいして、変態男が目を覚ましたようだ。欠伸する声が聞こえたものだから声をかけてみた。

「起きた?」
「…あ、あー…俺ずっと寝てた?」
「うん。気持ちよさそうに寝てたから起こさなかったんだけど…カレーもうすぐできるから」
「カレー作ってんの?」
「うん」
「ふーん、料理できるんだ…」
「美味しいかは分からないけどね」
「……あのさ、名前」

 ぎゅう。変態男が後ろから抱き締めてきたものだから、驚いて手に持っていた菜箸を落としてしまった。「ちょ、ちょっと、離してよ」言ってみるも変態男は無視して私に言った。

「好きな先輩の苗字って、誰?」
「え…?」
「今日の昼休み、好きな先輩の苗字って先輩に呼び出されてただろ」
「…B組に来てたの?」
「ああ」
「好きな先輩の苗字先輩は部活の先輩で、優しいんだよ」
「付き合ってんの?」

抱き締める力が強まった。さっきから一向にカレー作りが進んでない。変態男の言葉ひとつひとつにビクビクしてる自分がいた。

「…そ、そんなわけないじゃん。ただの先輩だって」
「好きな先輩の苗字にとって、名前はただの後輩じゃないみたいだけどな」
「え…な、何言ってるの…」
「別に、何でもねーよ」
「……そ、そっか」

ちらりと変態男の顔を覗くと、かなり不機嫌な様子だった。だいたい何でこいつが好きな先輩の苗字先輩のことを知っているんだろう。言っている意味がわからない。

「…とりあえず離れてよ、変態男」
「赤也って呼べよ」
「!」

 私が振り向くと同時に、変態男はキスをしてきた。口が塞がって、喋ろうとした言葉が行き場を無くす。何でこの男は私にこんなことばかりするんだろう。確かセクハラは犯罪だった気がする。
三秒、五秒、八秒九秒と時間が経っていく。変態男の唇は一向に離れていかず、息が苦しくなった。びりびりと痺れるような感覚が指先から全身に広がっていく。変態男の体温とか、全然そんな気にすることでもないようなことが心臓に響くような感じがして、目をぎゅっと瞑った。嫌だ、怖い。このままでいると自分の中にある大切なブレーキが壊れてしまいそうで、もう限界だった。

「っは、あ、赤也…!」
「!」
「はなし、て…」
「…あ、ああ。悪い…」

苦し紛れに名前を呼んでやれば、パッと離れていく体温。(何なのよ、)焦ったような顔で私を見て、目が合ったらすぐに逸らして、さっきまでとはまるで別人のような表情。訳が分からない。ふと触れた指先がまるで静電気にでもあったかのように痺れる。心臓が音を立てる。どきどき、する。何これ、何で、私ドキドキしてるの。

「……カレー、作るから…ちょっと待ってて」
「あー、ああ」
「甘口で文句ないでしょ?」
「まあ」
「あっち、行ってて」
「……―――名前、」
「!」

 がしりと腕を掴まれて、焦る。さっきとは打って変わって真剣な目でこちらを見てくるものだから、思わず顔に熱が集まった。「な、何…」最後まで言い終える前に、再度口が塞がった。

「っん!?」
抵抗した。したのは事実だ。しかし、脳が付いていかないせいで力が入らない。全身が麻痺しているような感覚に襲われた。やめてほしいのに、やめてほしいのに体が言う事を聞いてくれない。

「……あか、や…!」
びりびりと痺れる感覚。痛いんじゃなくて、むず痒い感じの。くすぐったいんじゃなくて、ましてや気持ちいいなんてものじゃない。頭が混乱して、上手く思考が回らない中、私はとんでもない言葉を零してしまった。

「私はっ…好きな先輩の苗字先輩のことが、好きなの…!」
「!!」
「だから…だから、っ余計なことしないで!」

 言ってから、後悔した。言うんじゃなかった言うんじゃなかったと、ぐるぐると同じ言葉が脳を巡ってゆく。好きな先輩の苗字先輩のことは、私がバスケ部に入部した去年からずっと好きだった。優しくて面倒見が良くて、色んな女の子に好かれている先輩は私にとって手の届かない存在だけどそれでも諦められなかった。付き合いたいとかそういうんじゃないけど、これは憧れに近い"好き"なのかもしれない。良く分からないけど、目の前で目を真ん丸にして固まっている赤也を見て、息が止まる。

「っあ……やだ、い、今の忘れて!」
(だけどそんなの、この最低な男が許してくれるわけもなく)
「へえアンタ、好きな先輩の苗字のこと好きなのかよ」
「だからそれは…!」
「お似合いなんじゃねえの?俺には関係ねえ事だしどうでも良いけど」
「……っ、じゃあ応援してよ」
「、」
「私もう寝るから、カレーあとよろしく。おやすみ」

 そのまま赤也の隣を通り過ぎて、自室へと引きこもる。出会って一日が経って、けれどまだ一日しか経ってないのにこの空気って、この関係って何なんだろう。普通はもっと、一日や二日じゃお互いに上手くしゃべれなかったりするんだろうけど、私達は普通に喋ってる。それが悪いとかじゃなくて…。悪くはないけど、逆に違和感を感じなさすぎて感覚が麻痺しそうだ。

(わけわかんない…赤也のくせに)
一度でもあんな男にドキドキしたことを、心の底から悔やんだ午後八時半のことだった。

 20120801