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 あれから赤也は帰ってこなかった。いや正しく言うと帰ってきたのか分からなかった。朝いつものように目を覚ますといつもと同じな自分の部屋あって、赤也の部屋を覗いてみたけど誰もいない。もう学校に行ったのか、それとも帰ってこなかったのか。私には分からなかった。
やけに寂しくて虚しい、学園祭一日目。

「あれ、今日は一人なのかい?」
「!あ…ブン太先輩に、幸村先輩」

昇降口のところでブン太先輩と幸村先輩に声を掛けられたものだから慌てて振り返ると、そこには朝練で疲れ果てたようなブン太先輩と、楽しそうに笑う幸村先輩。何だかすごくシュールだ。

「おはようございます。今日から二日間、やっと学園祭ですね!」
「あはは、楽しそうだね名前」
「はい!」
「つーか幸村君…何か今日の朝練やけにハードじゃなかったか?」
「そんな事ないよ。全くブン太はお菓子ばっかり食べているから体が重くなるんだよ少しはお菓子制限したらどうなの。ああそうだ、今日はブン太の断食デーにしようか」
「な、何でそんなに辛辣なんだよぃ!?」

騒ぎ始めたブン太先輩を見て、「あれ?そんなに大声出せるほど元気なら明日の朝練はもっとハードにしようか」なんて笑ってる。前から思ってはいたけど幸村先輩は精ちゃんの頃よりすごく性格が悪くなった。うん、今確信した。
何となく愛想笑いをしているとブン太先輩がこちらを見て眉をひそめた。

「…名前、何かあったのか?」
「え、」
思わぬ問いかけに笑顔が引きつる。ブン太先輩はこういうことにだけ鋭いから勘弁してほしい。幸村先輩は「赤也と喧嘩でもしたのかい?」なんて図星な事を言ってくる。

「な、何でもないですよ!それじゃあ私、えっと、これで失礼します、」
半分カタコトになりながら教室へと向かうフリしてその場から逃げた。背中に突き刺さる二人の視線がすごく痛い。とにかく走った。廊下は走らないなどというルールなんて無視無視。今の自分の安全が第一。
 そして始まった学園祭。チャイムと同時に騒ぎ出した生徒達に出遅れながらも廊下へ出ると、私を待っていたのは意外な人物だった。


「それにしても、お、驚きました。先輩から声を掛けて下さるなんて…」
「まあ俺も一緒に回りたい奴いなかったからさ、苗字となら楽しそうだなって」

サラリと恥ずかしい事を言いのけて隣を歩いているのは好きな先輩の苗字先輩。そういえば最近あまり話していなかったからこうして二人になるのは久しぶりだ。何だかすごく緊張する。
 私のクラスはメイド喫茶だけれど、私が実際に売り子をやるのは二日目の午前ということになっている為、一日目は自由の身だ。まさか好きな先輩の苗字先輩と一緒に回れるなんて思ってもいなくて、すごくすごく嬉しい。たまにすれ違う好きな先輩の苗字先輩のクラスメイトが冷やかしているが好きな先輩の苗字先輩は全く気にしていないようだ。もしかして慣れているのだろうか。それとも私は先輩に女として見られていないのだろうか。一人で勝手に考え込んでいたら好きな先輩の苗字先輩が口を開いた。

「あ、苗字あれ食おうぜ!」
「え?ドーナツ…ですか?」
「おう!」
すごく意外だった。好きな先輩の苗字先輩ってこう、何か、お洒落で大人なカフェとかでブラックコーヒーを飲んでいる印象があった。まさかドーナツがお好きだとは。何だか子供っぽい面がある所が少し赤也に似ている、なんて。そう思ってからすぐに、赤也のことは脳内から消した。

「良いですよ!ドーナツ食べましょう!」
「んじゃ俺の奢りな?」
「え、そ、そんな悪いですよ。私が払いますから…!」
むしろ私が奢りたいくらいです。そう言おうと思ったけどやめた。だって私もそんなにお金を持っているわけではないから。(ここ重要)

「良いんだって。奢らせてよ」
「で、でもやっぱり私が払います」
「すいません、ドーナツ2つちょうだい」
「ちょっ、好きな先輩の苗字先輩!?」

好きな先輩の苗字先輩は勝手にドーナツを2つ頼んで笑顔を向けてきた。してやったり、みたいな猫っぽい笑顔。それさえも「やられた!」みたいな気持ちになるもののすごく恰好良くて可愛らしくて。もっともっと好きになる。それなのに、

「……あか、や」
「え?」
「っあ、い、いえ!何でもないです!!あ、えっと、ドーナツ、ありがとうございます!」
気付けば呟いていた名前。どうしても、どうしても赤也のことが頭から離れない。好きな先輩の苗字先輩はキョトンとこちらを見つめたけれど、すぐに売り子さんにドーナツを渡されて笑顔になった。

「はい、苗字の分な!」
「何かすみません…せ、先輩に奢らせるなんて…!」
「良いんだって、俺が勝手に奢ったんだしさ」
「で、でも…」
「ほら、早く食えって」
「っう、あ、ありがとうございます」
「うん。良い子良い子」
「!」

ぽんぽんと頭を撫でられる。いつもなら心臓が高鳴るはずなのに、心拍数の上がらない自分に驚く。好きな先輩の苗字先輩は唖然としている私を見て首を傾げたが、すぐに笑った。その笑顔さえも私の心拍数を上げるはずなのに、なのに、どうして。

「別に。名前には関係ないことだし」

「、!」
「?…苗字、顔色悪いけど体調良くないのか?」
「あ、いえ、何でもないです!それより先輩、次は先輩のクラスに行きましょう!たこ焼きやってるんでしょう?」
「ってお前、何で知ってるんだよ」
「事前に調査済みです!」
「やられた…まぁ、よし行くか!」
「はいっ」

無理に笑うしかできなかった。赤也が頭から離れなくて、今どうしてるのか、何で昨日はあんなに怒っていたのか、もう私なんて嫌われてしまったんだろうか、なんて。たくさんたくさん聞きたい事も言いたい事もあって、気持ちがまとまらない。どうして私はこんなに赤也のことを気にするんだろう。もしかしたら、なんて。今はそれさえも考えたくなかった。

(少しだけで良いから、今だけで良いから、好きな先輩の苗字先輩との時間を楽しんでいたい)


 20121115