bookshelf | ナノ
「先輩」

その声が、大好きだった。控えめで落ち着いていて、耳にすうっと滑り込んでくる優しい低音。
だけど、いつからだろう。いつも近くにいたはずの声が少しずつ、本当に少しずつ離れていって、私にとってその声は"二番目"のものになっていた。



 いつもと同じ放課後の自由な時間。私は校門のすぐそばにある壁に寄りかかりながら、二ヶ月前から付き合い始めた恋人からの連絡を待っていた。
(……あ)
ふと顔を上げると少し向こうでは自転車部の皆が片付けを進めていて。その中に、彼の姿も見つけた。高い背丈と、綺麗な黒髪。それに、大切に扱われているであろう青い自転車は他の誰でもない今泉君の証拠だ。
 しばらくぼーっとしながら今泉君を見つめていると、彼も気付いたのか周りを確認してから私の方へと足を進めていた。


「先輩」


いつぶりに聞いたか分からないその声に、少しだけ胸が苦しくなる。

「久しぶり、今泉君」
「はい。なかなか機会がなくて…」
「…そうだね」

 やっぱり今泉君の声は、優しくて、綺麗だ。私の耳に溶け込むように滲んでいく。そんな心地よさに思わず微笑むと、ポケットの中で携帯が震えた。

「…電話、ですか?」
「あ、ううん、メールだよ」

気遣うように聞いてきた今泉君に笑顔を向けてから、その視線を携帯へと移す。と、そこにはやっぱり"裕介"の文字。恋人からの連絡だった。
裕介からのメールは、空白の多い小ざっぱりしたシンプルなもの。無駄なものを省いて「すぐ終わるから待ってろ」と、要点だけを書いて送ってくる。そのメールの書き方は少し、目の前に立つ彼に似てるような気がした。そんなことを考えながら携帯をポケットにしまい、今泉君を見上げようとした時、

「……巻島さん…」
「、……え…?」

今泉君がいつもより苦しそうな声で、そう言った。

「付き合ってるんですよね」

黙ったまま何も言えない私に、今泉君が静かに追い打ちをかける。どくんと心臓が嫌な音を立てた。いつの間にそのことを知ったのだろう。まだ話してなかったのに。今泉君は大事な後輩だから、私は裕介とはまた別の意味で今泉君のことが好きだったから、ちゃんと自分から伝えたかったのに。
(それで、……それで、)
今泉君に、言ってほしい言葉があったのに。

「……噂で聞きました」
「…そう、なんだ」
「間違ってたらすいません」
「…ううん、合ってるよ」

 ――二ヶ月前にね、告白されたの。私はずっと裕介のことが好きだったから本当に嬉しくて、悩む間もなくオーケイしたんだよ。今泉君には話してなかったし他の誰にも言ってなかったけど、でも今泉君は気付いてたでしょ?私が裕介を好きだったってこと。

そんなことを、途切れ途切れの情けない声で今泉君に話した。本当はもっと、ちゃんと話したかったんだけど。どうしてか今泉君があまりに悲しそうな顔をするから私まで悲しくなってきた。何でだろう。


「……先輩」


 その声にはっとして顔を上げれば、今泉君がポケットから何かを出して私に差し出した。水色と白の、とても可愛らしい包装紙。私はしばらくそれを見つめてから今泉君に視線を向ける。

「これ、どうしたの?」
「プレゼントです、先輩に」
「…プレゼント…?」
「だって先輩、もうすぐ誕生日じゃないですか」
「!」

そうだっけ、と言ってもう一度それに目を向ければ、今泉君が少しぎこちない口調で言った。どこか照れ臭そうな声だ。

「俺、来週忙しくてプレゼント買いに行く暇ないんで…ちょっと早いですけど、どうぞ」

今泉君はそう言うと私の手を取って、無理矢理プレゼントを握らせる。大きな今泉君の手はひんやりと冷たくて少しだけびっくりした。私はぎゅっと唇を噛み締めて、緩んでしまいそうな頬に力を入れる。
ありがとう、と伝えようと今泉君を見れば、そこには今にも泣き出しそうな顔があって私は思わず目を丸くした。

「え、っ……」

どうしたの、とか、大丈夫?とか、何から口にすれば良いのか何も口にしない方がいいのか分からずに混乱していると今泉君は泣きそうな顔のまま俯いてしまう。
今日の今泉君は明らかに変だ。私が裕介と付き合っていることを知ったからだろうか。でもそれなら普通、笑ってお祝いしてくれるんじゃないのかな。幸せに浸ってる私を見て、呆れたように笑って言うんじゃないの?先輩おめでとうございます、って。

なのに何で。


「い、今泉く……」
「先輩」
「、」
「おめでとうございます俺二人のこと応援してますから」
「!!」

どうしようもなくなっている私に、今泉君は少し掠れた声でそう言った。それは、まるで吐き捨てるような言い方だった。
(……すごい、ノーブレスだったよ、今)
今泉君があまりにいつもと違いすぎて、私はずっと言ってほしかった"おめでとう"をもらっても全然嬉しいと思うことができない。そんな私の顔なんて見ようともせずに、今泉君はぎゅっと両手で拳を作った。そして俯いたまま、小さな声で言う。

「……応援、します、から」
「…今泉君……?」
「だから…俺…」

 ――先輩のこと、これからもずっと気が済むまで好きで居て良いですか。

今泉君は、掠れた声を絞り出した。それは私の好きな声とは少し違って、すごく辛くて悲しそうで。今泉君は私を好きになったからこんなにも苦しそうなのか。私を好きになったせいで、私がその想いに応えられなかったせいでそんなにも、泣きそうな顔をしているのか。

「……ごめんなさい」
「何で謝るんですか」
「…分からないよ」
「……俺に、先輩を諦めろって言うんですか」
「…!!」

少しきつめの口調に驚いて今泉君の目を見れば、そこには、細い目から流れる涙があった。

「…ごめ…ん…」
私は思わず今泉君からのプレゼントを握り締めて、もう一度震える声で謝罪する。それに対して、もう今泉君が何かを言うことはなかった。ただ苦しいくらいの沈黙が私たちの間に流れ、不意にポケットの中で携帯が震える。帰りの支度が終わったことを知らせる裕介からのメールだった。

「……すいませんでした。急に、自分勝手なことばっかり…」

(…ホントだよ、今泉君の馬鹿)
心の中で、そう言ってやった。しかし私は決して今泉君を責めるわけでなく、彼の気持ちにずっと気付かないままだった自分を叱るようにスカートの裾を握り締める。その仕草に今泉君は、気付いただろうか。

「…ありがとう、ずっと好きで居てくれて」
「!……」

今泉君が驚いたように目を見開くのを見て、私は自分の頬を濡らす涙に気付いた。
それからすぐに裕介が私を呼ぶ声がしたから急いで乱暴に涙を拭う。(痛い…) ワイシャツの袖が瞼に擦れて、痛かった。だけどそれ以上に、心が痛かった。
(でも…今泉君の心は、もっともっと痛いんだ)

「練習お疲れ様、今泉君」
「……ありがとう、ございます…」
「…久しぶりに…話できて良かった」
「…俺もです」

それじゃあ、と私は今泉君に背を向ける。すると少し向こうの方から裕介が走ってくるのが見えた。

「なまえ!」
「裕介、お疲れ様」
「悪ィ…結構待ったっショ?」
「ううん。大丈夫だよ」

裕介に笑い掛けて、私は鞄を持ち直す。どうしても後ろにいる彼のことが気になって振り返れば、もうそこに今泉君の姿はなくなっていた。
(……今泉君…)


 ねえ今泉君。私も好きだよ、今泉君のこと。だけどね、でもね、私はそれ以上にこの人のことが好きなんだ。今泉君とは別の意味でこの人が大切で、この人と一緒に居たくてたまらない。好きで好きでたまらない。

「帰ろっか、裕介」
「おう。今日はもう遅いし、送ってくっショ」
「…ありがとう」

私は裕介の手にそっと自分の手を絡めて、微笑んだ。心はまだ少し痛むけど、裕介のぎこちない笑顔を見るとそれが少し和らいだ気がして。こんな私は、酷い女なのかな。今泉君の気持ちに応えられなかったのは、酷いことかな。

黙り込んだまま足を進める私の手元に目をやって、裕介は不思議そうに首を傾げた。そして私が持っているものを指差してから裕介が言う。

「…それ、何ショ?」
「え?あ……これはさっき…」
「さっき?」
「……、…さっき…友達がくれたの」
「へえ…そういやなまえ、もうすぐ誕生日だもんな」
「うん」
「良かったじゃん」
「…うん」

私はさっき今泉君がくれたプレゼントをじっと見つめて頷いた。
可愛い包装紙とリボン。きっと、女の子しか入らないようなお店で買ったんだろう。わざわざ私のために、一人で買いに行ったのかな。今泉君のことだから誰かに手伝ってもらって買ったなんて少し考えにくいし。だとしたらすごく、すごく恥ずかしかっただろうな。選ぶのだって、苦労しただろうな。

(…プレゼント……)

私も、今泉君に買ってあげなきゃ。誕生日、いつだったっけ。
(……あれ…、)
ああそっか、私、今泉君の誕生日知らないじゃん。


「っ……」
「! なまえ、どうしたっショ…!?」

考えれば考えるほどに切なくて、罪悪感に埋もれて息すらできなくなってしまいそうだ。苦しくて思わず俯けば裕介は心配して私の背中を何度も何度もさすってくれた。

「どっか痛いのか?それとも何か…」
「だい、じょうぶだよ」
「!……なまえ…」

今にも溢れてきそうな涙を必死に堪えて裕介に笑顔を見せれば、裕介は安心するどころか唖然と口を開けてしまう。そしてゆっくりと、優しく私の目元を指でなぞった。


「……泣いてる、ショ…」


二秒、いや五秒かもしれない。私は裕介を見つめたまま、裕介と同じように唖然とする。一度瞬きをすれば涙が零れ落ちて頬を伝った。それを指ですくう裕介は、黙ったまま何も言わない。こういう時、裕介は心配はするけど何となく察してくれるのだ。無理に詮索することもなく、問い質すこともない。だけど今はそれが余計に辛いと感じてしまう。

「…ごめん……ごめんね、裕介」


 いつだって一番好きだったのは、今泉君の声だった。今泉君の声を聞くと心が落ち着くような、幸せな気持ちになるはずだった。先輩、と声を掛けてくれた時は嬉しくてたまらなかったのに。私が今求めているのは「先輩」ではなくて、

「なまえ」

この声が、一番になってしまった。

「もう帰るっショ」
「……う、ん」

もう一度ちゃんと裕介と手を繋げば、涙はまた一粒二粒と溢れてくる。裕介は、私の涙が止まるまで今日は一緒に居てくれると呟いた。今泉君のせいで、私はもっと裕介を好きになってしまうのだ。


 ――先輩のこと、これからもずっと気が済むまで好きで居て良いですか。


気が済むのっていつだろう。これからもずっとって、どれくらいなんだろう。好きで居続けることが、彼を幸せにするなんて根拠はどこにもない。きっと苦しいだけなのに。


最後に聞いた今泉君の優しい声が、耳から離れることはなかった。あの声を忘れることができたら、今泉君も私を忘れてくれるだろうか。


20150112
声が泣いているみたい