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 翌日、またなまえは腰を抑えながら教室に入ってきた。
普段ならばなまえと話す内容など全くと言っていいほどないため、日常で会話を交わすことすら珍しいのだが今日は違う。僕は迷いのない足取りでなまえの目の前に立ち塞がった。

「おはよう、なまえ」
「あ、ヒカル、おはよう」

僕が先に声を掛けるとなまえは整った顔を可愛らしく崩して笑う。それがどこか空白のような笑顔だったのを僕は見逃さなかった。

「腰、痛むのか」

デリカシーがないことは承知でそう言うと、なまえの肩が大きく揺れる。明らかに動揺しているのが分かった。なまえは少しばかり目を泳がせながら、蚊の鳴くような声で言う。
「き、昨日ちょっと、捻っちゃって」
まるで自分の失敗談を恥じるかのように苦笑したなまえを見て、僕は、アラタに弄られて泣き乱れるなまえを想像した。自分でも、最低だと思った。しかしそんな僕の想像になまえが気付くわけもなく、「心配してくれてありがとね」と続けて笑う。
 なまえは本当に、よく笑う奴だと思う。だからこそ人気があるし、別に、アラタじゃなくても良いのではないだろうか。なまえなら男などいくらでも選び放題だろうし、そうじゃなくたって楽しい日々を送れるはずだ。それなのにわざわざアラタを想って、縋って依存する意味が僕には分からない。

「アラタは君のこと、道具としか思ってない」
「え……?」

 思わず口から零れてしまった黒い感情に、なまえは目を見開いた。
まだ教室に人は少なかったが、それでもここでこの話をするのは好ましくないと思い、僕はなまえの腕を引っ張って人目に付かない廊下まで移動した。
掴んでいたなまえの腕を離すと、なまえは未だに動揺を隠し切れていない瞳で地面を見つめる。僕の顔を見ようとはしていなかった。

「ヒカル…道具って、なに?どういうこと?」
「性欲処理の道具だ」
「、っな、なんでヒカルがそれを…」

額に冷や汗をかき焦るなまえを見て、僕は、今すぐ彼女を抱き締めて僕がその体に上書きをすればなまえはどうなるのだろうと、そんなことを考えた。

「……アラタは、優しいよ」

一ミリの揺るぎもないその言葉に、思わず唇を噛み締めてしまう。どうして、どうして、どうして。いくら考えても分からない。僕がなまえだったら絶対にアラタなんか選ばない。アラタは優しくなんかない。

「どうして…君は、あいつに散々遊ばれたじゃないか!」

柄にもなく大声を出した僕に、なまえは薄く笑って言った。

「遊んでくれたんだよ」
「…!!」
ひどくハッキリとした表情。後悔や迷いすら感じないその瞳はあまりにも美しくて、僕は直視することができなかった。どうしてこんなにも傷付いているのに、汚れてしまっているのに、痛々しいのに、笑っていられるのだろう。

「…君は、アラタが好きなのか」
「好き。大好きだよ」
「っでもアラタは…!」

こんなにも一途に純粋にアラタを愛しているなまえに、恐怖に似たようなものを感じた。なまえにとっての"幸せ"は、アラタにしか作れないとでもいうのか。
僕がきつく口を紡ぐと、なまえは今までで一番優しい笑顔を見せた。

「私はこのままでいいの」

その笑顔を作ってあげられるのが、僕ならば良かったのに。僕なら彼女を利用したりしない。道具にもしない。心から、幸せにしてあげられるかもしれないのに。人生は残酷だ。良いことと悪いことが平等に繰り返されるなんて考え方があるけれど、実際、思うようにいかないことばかりで。
 この時だけは、アラタが憎いという感情よりも、僕が彼女を奪ってしまいたいという気持ちの方が大きかった。


 20140531