bookshelf | ナノ
 少し前、廊下で前を歩いていた女子がノートを落としたから俺はそれを拾って、そいつに声を掛けた。
俺の声に吃驚して振り向いたそいつは初めて見る顔で、すごく可愛かった。ぱっちりとした目が俺を見つめてから、すぐにノートに気付いて口を開く。
「あ。ノート」
綺麗な声。そこら辺で騒いでいる女子の甲高い声とは違って、すごく落ち着いたトーンのその声に俺は思わず驚いた。

「これ、落としたぞ」
そう言ってノートを渡すとそいつは「ありがとう」と言って薄く微笑んだ。そんな笑顔に俺は何だか照れくさくなって、逃げるように自分のクラスへと戻る。
 教室に入ってから、俺は拾ったノートに書いてあった名前を思い出した。(みょうじなまえ…か)聞いたことない名前だが、この廊下を歩いていたということは同じ学年なのだろう。クラスはどこなんだろうか。すごく綺麗な声だった。笑った顔が、未だに忘れられない。俺は色んなことを思って、もう一度あいつの名前を心の中で呟いた。



 昼休み。俺はバンやアミ達と屋上で昼飯を食べる約束をしていたが、その前にパンを買おうと思い購買へ向かった。
購買に着くとすでにパンやらお菓子やらをめぐる戦争が始まっており俺は重たく息を吐く。(パン買えるかな…)そんな不安さえ覚えつつパンのコーナーの前で足を止める。割り込んだせいで周りの視線が痛く感じたが、俺は目の前にラスイチのメロンパンが置いてあることに気付いた。(よっしゃ、ラッキー!)
 スッとメロンパンを手に取ると、メロンパンを取ろうとしていた誰かの手が視界の端に映る。俺はその手の主にはあまり興味がなく、そそくさと会計を済ませて屋上に行こうと足を進めた。
しかし、ある人物に似た後ろ姿を見つけたと同時に足が止まる。

「あれっ」
思わず零れた俺の声に反応したそいつは、やっぱりみょうじだった。

「お前さっきの…」
「っあ、青島君!」
「!」

みょうじが俺の言葉を遮って俺の名前を呼ぶ。俺がそれに驚き「俺の名前知ってたのか」と言って笑うと、みょうじは俺に釣られてか柔らかい笑顔を見せた。

「メロンパン取ろうとしてたのお前だったのか」
「! あっ、それ…」

俺は先ほどの手の主がみょうじだということに気付き、わざと見せつけるようにして顔の横にメロンパンを持っていく。みょうじは目を丸くして驚いていた。その顔がどこか幼くて、まるでおもちゃを取り上げられたような顔をするものだがらみょうじにメロンパンを差し出してサラリと言ってのけた。

「じゃあこれ、やるよ」
「え?」
「食いたかったんだろ?メロンパン」
「で、でも、それもう青島君が買ったんじゃ…」
「良いって良いって。お前にやるよ」

俺は笑顔でそう言ったのだがなかなか受け取ろうとしないみょうじに痺れを切らした俺は、無理矢理みょうじの手を取ってその小さな手にメロンパンを握らせる。するとみょうじはメロンパンと俺を交互に見たあと、嬉しそうに笑って「ありがとう青島君」と言った。

「私も何かお礼したいんだけど…」
「お礼?別に良いよ、気にしなくて」
「でも…」
未だにそんなことを言うみょうじに、俺はあることを思い出す。
(そういえば…俺はみょうじの名前、知らないことになってるんだっけ)

「じゃあ」
「!」

(この際だから、ちゃんと本人から聞いとくか)
俺はみょうじの顔を笑顔で見つめた。だけど、だんだん恥ずかしくなってきたから声量を落としてみょうじに問う。

「お前の名前」
「え?」
「教えてくんね?」

みょうじは一瞬驚いたような顔をしたけど、すぐに「みょうじなまえだよ」と答えてくれた。俺は然も知らなかったフリをして、「みょうじか!」と笑って言う。正々堂々?とみょうじの名前を声に出して呼べるのがどこか嬉しくて、何回かみょうじの名前を呼んだ。

「じゃあ、よろしくなっ みょうじ!」
「う、うん!よろしく、青島君」

最後にそんな言葉を交わして、俺は急いで屋上へと向かう。思わぬ時間をくってしまった。バンやアミ達がなかなか来ない俺を待っているだろうと焦っているのは事実だが、それでもみょうじと話せたことが嬉しくて俺は何も持っていない空っぽの掌を見つめ、頬を緩ませる。今日の昼飯は誰かに分けてもらうことにしよう。



 今日の昼食は、屋上には行かず教室で済ませた。
お弁当を片づけた後、俺は隣のクラスの友達に用事があることを思い出し、教室を出て隣のクラスを覗く。
(!!)
ふと目をやった先にはみょうじが友達と何やら楽しそうにお弁当を食べていたから俺は吃驚して立ち止まった。(このクラスだったのか…)またひとつ、みょうじを知れて嬉しくなる。

 しかしそれは、俺がみょうじから気を逸らして友達を呼び、用件を済ませている時のことだった。

「ちっ違う違う!恋なんてしてないよ!」

(…!)それは紛れのないみょうじの声。俺は思わず友達に向けていた視線をみょうじにやる。するとそこには、何やら顔を隠して友達に宥められているみょうじの姿があった。(なんだ…?)
もう、みょうじのことで頭が一杯だった。気付けばみょうじを目で追ってしまって、正気に戻っては「俺は何をしてるんだ」と自分を叱る。何とか友達との用件を終えた時、みょうじがこっちに駆け寄ってくるのに気付き笑顔が零れた。

「おっ、みょうじ」

みょうじは俺の反応に嬉しそうな顔をする。
「もう昼食い終わったのか?」
「う、うん。もう終わったよ」

少しだけ戸惑ったようなその声に疑問を覚えたが、みょうじが「あっ」と声を漏らしたことによりすぐに忘れて俺はみょうじを見つめる。
「ん?」
「こ、この前のメロンパン…すごくおいしかったよ、ありがとう!」
「あぁ、なら良かった」
「今度、絶対お礼するから…な、何か欲しいパンとかあったら、私買ってくるよ」
「ははっ、それじゃあパシリじゃん!」
「!!」

 みょうじのどこか抜けたその言葉に俺は腹を抱えて笑った。みょうじは面白いやつだ。みょうじと話しているとすごく楽しいし嬉しい。みょうじはぽかんと口を半開きにして顔を赤くしていたが、俺はそれに気付かず「ふう…」と薄く息を吐いてからみょうじに言う。
「そんだけ喜んでくれりゃあ、もう十分だって」
それは紛れもない本心だった。
「! っあ、青島君…」
「ん?何だ?」
「あ、あの、ありがとう」
「…!」

(う、うわ)俺はみょうじの満面の笑みに唖然として、口元を手で押さえる。(やばい……)うっすらと赤く染まった頬も、ちょっと首を傾げたせいで揺れた髪も、この笑顔も、声も、全部。あまりの可愛さに、顔の筋肉が緩んでしまうのを俺は必死に隠した。
 気付けばさっきまで廊下にいたやつらがいなくなって、俺の前にはみょうじだけが立っている。俺より少しばかり背が小さいみょうじから目を逸らして、自分のよく分からない気持ちと葛藤した。

(言い、たい)

一体何を言いたかったのかは自分でも分からない。だけど口が勝手に開いた。全ては本能のままだった。

「あ、あのさ、みょうじ…」
だけど俺の言葉は突然のみょうじの声にかき消される。
「あっ青島君!」
俺は吃驚したようにみょうじを見たがみょうじはそんなの気にしないといった様子で続けた。

「も、もうそろそろ教室戻ったら?」
「えっ、なんで」
「いいからっ!」

本当はもう少し話していたかったのだけれど、半ば無理矢理俺の教室に押し込まれて何も言えなくなってしまう。しかしみょうじの「辛かったら無理しないでちゃんと保健室行くんだよ!」という言葉に、俺はハッとした。
(ああ、もしかして…)
 一体何をどういう風に勘違いしたのかは知らないが、そんなドジさえも可愛いと思えた。きっと、さっき俺が顔を赤くしたのを熱とでも勘違いしているのだろう。俺は勝手にそんな推理をして、「ありがとな」と笑って返した。

 みょうじは走って自分の教室に戻り、すぐにドアを閉めたようだ。少し荒々しくドアが閉まる音が聞こえたが今はそんなことよりも、このうるさいほどに高鳴る心臓のほうが問題である。
(くそっ、くそ…なんなんだよ、これ…!)
まるで本当に熱でもあるかのように熱くなる頬も、全身がくすぐったいようなこの感覚も、何もかもがよく分からなくて。ただ頭に浮かぶみょうじのあの笑顔にまた頬が緩みそうになった時だった。さっき俺が本能のままに言おうとした言葉が、確かにハッキリと頭に響く。


(……"好き"…?)

 これは、もしかしてもしかすると恋なのかもしれない。



 20140108