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 幼馴染の海士は、私達が小さい頃からずっと私の後をついてくるような子だった。そんな海士よりひとつ年上の私はいつだって海士が可愛くて本当の弟みたいだったから、海士がいればもうそれで良い。友達はそれなりにたくさんいたけど、「大好き」や「私たち友達だよね」みたいな言葉を交わしあわないと一緒にいられないような人達を友達だとは思いたくなかった。私には、どんな時でも笑顔でお飾りみたいな言葉を交わしあわなくても一緒にいられる海士がいる。それだけで良かったんだ。そう、私が高校生になるまでは。

 私が高校受験に無事合格した時、海士は滅多に見せない泣き顔を私に見せた。封筒の上に置かれた合格通知の紙をただじっと見つめながら涙を堪える海士を見て、私は思わず強く抱きしめて言う。
「大丈夫だよ」
別に学校が違うからって、海士から離れるわけじゃない。それでも泣きやまない海士を見て、何度も「大丈夫」と繰り返した。海士も早く高校生になって、そしたら彼女の一人でも出来て、私から自然と離れていくのだろう。学校が別れるというだけで、私が卒業するだけでこんなにも泣きじゃくる海士からは想像もつかないが、いつか海士がいっちょ前に私をあしらう日がくるのを少しだけ楽しみにしていた。

「ね、海士も受験勉強頑張って、早く高校生になれば良いの」
「っ…違う、そーゆーんじゃなくてさぁ!!」
「!」
「なまえ…高校なんてさ、行かなくて良いじゃん…!」

 はじめて海士が私に怒鳴った。
思えば昔から海士はわりと適当で陽気で、あんまり自分の気持ちをハッキリ叫んだりしなかったから、こんなことは初めてで私は少し焦ってしまう。しかしそれと同時に、どこか不可解に感じた。海士がこんなワガママ言うなんて。

(何か…嫌な予感が、する)

 私が高校に入学して、海士は受験勉強に集中するようになってからお互いに顔を合わすことがなくなった。ちょうど帰宅時間が重なって帰宅路を共にする時もあったけど、はじめは「高校楽しー?やっぱさ、勉強とかどうなの?難しいんしょ?」みたいにわくわくしながら聞いてきてくれた海士が、だんだんと日が経つにつれて口数も減って、私たちの間には見えない距離ができた。
話すことなんていくらでもあったはずなのに、今では帰宅路で目が合って「あ、」みたいにお互い反応するのに何を言ったらいいのかどんな言葉をかければ良いのか何も分からずに結局無言のまま家につく。幼馴染って、合わない日々が続くだけでこうなっちゃうものだっけ?

「俺さ、みょうじのこと好きなんだ」

 入学して一ヶ月、ひとつ上の先輩に告白されて付き合うことになった。べつにその先輩のことが好きだったわけではないのだけれど、少しばかり気になっていたしすごく良い先輩だから付き合おうと思った。海士のことなんて、考えるのすら忘れてしまっていた。

「会いたい」とだけ書かれたメールが、真夜中に送られてきた。差出人は海士で、私は思わず吃驚してしまう。海士はカラフルすぎるくらい絵文字と顔文字で溢れたメールを書く子なのに、ただ率直な気持ちだけが絵文字や顔文字に邪魔されず私に伝わって、パーカーを一枚羽織った私は走って家を出た。
 海士の家はすぐ近くにあって、走ればすぐに着いてしまう。震える指でインターホンを押せばそう時間はかからずに海士がドアを開けて「なまえ…!」と私の名前を呼んだ。たぶん、海士に名前を呼ばれるのは一ヶ月振りくらいだろう。なんだか海士が急に恋しくなって抱きしめたくなったけど、私にはちゃんと彼氏がいるんだからそういうのはもうやめておいた。ぎゅっと両手で拳を作り、海士を見つめる。

「…彼氏、できたっしょ」
「え…?」
「ふつーに、分かるし…ちゅーか俺を誰だと思ってんの?たまに帰りが一緒になった時とか、俺の顔なんて見もせずに…ずっと嬉しそうに誰かとメールしてんの、おれ…わかってた、し」
「!」

 海士は、私が思っている以上に私のことを好きでいてくれてた。
私の合格通知を見たあの時みたいに唇を噛み締めて、ただただ涙を堪える海士を見てたら、見えない距離がだんだんと見えてくようになっちゃって。前みたいに、抱きしめることができたら。せめて、昔みたいに「大丈夫だよ」と声をかけてあげることができたら。どれだけ、幸せになれただろうか。

「だから俺、嫌だった…なまえは自分が思ってるよりずっとずっと、優しくて綺麗だから…!っお、俺なんかさ…どーせ、弟みたいな存在としか思ってなかっただろう、けど、でも俺は!なまえのこと、好き、だったし…ずっと見てた、し、誰よりもなまえの近くにいて誰よりもなまえのこと大事に思ってて…!っちゅーか…俺、わかってた…何となくだけど、ホントにすっげえ何となく、だけど…」

海士の声がだんだんと小さく弱いものになっていく。ぼろぼろ零れ落ちる海士の涙が、ただひたすらに私の心を締め付けた。

(ああ、あの時の、)

「俺…なまえにどっか行ってほしくなくて…なまえのことずっと、す、好きだったから…!」

(そうだ。あの時の嫌な予感は、)

「高校行ったらきっと、なまえ…すぐ彼氏とか、できて…!だから、だから俺、っ」

いつかの海士のワガママが、今目の前に立っている海士のワガママと重なった。

「高校なんて…行ってほしくなかった!!」
「なまえ…高校なんてさ、行かなくて良いじゃん…!」

(これ、だったんだ)

 海士は怒鳴り散らした後もずっと泣いていた。私はそんな海士に、何もしてあげられなくて。ただ悔しくて、どうしてあの時、海士のこの気持ちに気付いてあげられなかったんだろう。もしあの時気付いていたら、私は海士とどうなっていたんだろう。色々考えてるうちに海士が一歩ずつ私に近づいてきて、私のすぐ目の前で足を止めた。

「…かい、じ……」
「好き」

 震えた声。こんな海士は、知らない。

「俺、頑張って勉強してさ、なまえと同じ高校行く…だからそれまで、」
「ごめん」
「、」
「海士は…いつまでも大切な幼馴染だよ」
「っそれでも俺は…!!」

不意に、海士の腕が伸びてきた。昔みたいに、私に甘える時の仕草。私の首に腕を回して、「なまえ!」って可愛い声で私を呼ぶ。だけど今の海士はあの時の海士よりも、ずっとずっと大人になって、すごくすごく大きくなって、立派になって強くなってて。

私はそんな海士の手を、優しく振り払った。すると海士の目が大きく開かれて、私を見る。

「なまえ…、」
いつもの明るい海士からは予想もできない悲しそうな声に、涙が滲んだ。

(こんなの、望んでいなかった)

「す、き」
ぼろぼろに泣いてそう訴えながら私の肩を掴んだ海士に、私は言う。

「もう、だめだよ、」

(いつか貴方が幸せになって、私のことなんか忘れて、)

「触ったら、だめ」

(誰かと幸せそうに笑い合う海士を、私はただ寂しく見つめていたかっただけなのに)

海士の目から涙が止んだ。ただじっと、「ああこの日が来てしまったか」とでも言わんばかりに目を丸くして私を見つめる。やけに、苦しそうな瞳だった。そうあの時海士が言ったワガママは、きっと私がこうして海士を拒絶する日が来るのを阻止しようとしていたのだ。

(そんな悲しい結末を、貴方が辿ってしまった)

 海士の頬に痛いくらい浮かぶ涙の跡。私はそれを見て見ぬ振りをして、無理矢理笑った。

「もう遅いから、寝ないと」

海士は決して返事をしようとしなかった。まるで死んでしまったかのように何もせずに、気付けばまた涙を零す。



(いつか私に触れなくなる日が来ることを)


 20130826