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※真波とヒロインが報われているのか報われていないのかよく分からない微妙なエンドです。優しいハッピーエンドではないことは確かです。苦手な方は観覧をお控下さい。荒北さんは登場しません。




「先輩は、優しすぎるんだと思う」

山岳は無表情のままそう言った。埃臭い昇降口で蹲る私を見下ろして、何かを言うわけでもなくただ黙り込んでいる。静かな昇降口には、私と山岳の二人しか居なかった。
 私は去年、山岳がこの箱根学園に入学してくるずっと前から、一人ぼっちの昇降口で泣くことが多くて。理由は、いじめというにはあまりにちっぽけで、嫌がらせというには少し過激な、一部の女子からの"攻撃"だった。

「一人で抱え込まなくても、あの人は先輩のこと嫌いになったりしないよ」

山岳の言う"あの人"とは、自転車競技部の部長であり私の一つ上の先輩――荒北先輩のこと。私は荒北先輩に想いを寄せていて、こんな攻撃を受けるようになる前は告白だって考えていた。

 この攻撃は、別に精神が壊れてしまうようなものじゃない。確かに傷付くし嫌な気持ちにはなるけれど、決して耐えられないわけではなかった。だから私は荒北先輩にこのことを話していない。知っているのは山岳と、本当に一部の人だけ。私が荒北先輩と仲良くしている限りこの攻撃が止むことはないけれど、荒北先輩の傍に居られるならこんなのどうってことないんだ。
そして何より、私に攻撃をしてくる女子たちも、荒北先輩のことが好きだという事実。だから私は余計に荒北先輩に告げ口ができずにいた。普段から私に良くしてくれる荒北先輩は、きっとこのことを知ったら黙っちゃいない、と思う。気が強くて暴力的な荒北先輩だからこそ。私に攻撃をしてくるとはいえ、あの子たちだって乙女なんだ。だからこれは、仕方がないことなんだ。あの子たちの気持ちも、少しは大事にしてあげたい。恋敵とはいえ、同じ人を好きになった"仲間"でもあるのだから。
そんな甘い考えを山岳に話したことはなかったのだが、いつの間にか気付かれてしまっていたらしい。山岳は私がいつも昇降口で泣いていたのを知っているかのような口調で言った。

「毎日泣いたって何も変わらないのに。荒北さんなら、きっと何とかしてくれる、先輩のこと助けてくれるよ」

そんなの、とっくのとうに分かってる。それでも私には、告げ口なんて出来っこないのだ。私は、お人好しだから。私が告げ口をしたせいで荒北先輩に怒鳴られる彼女たちを、可哀想だと思ってしまうから。

「私は、大丈夫だから」
「じゃあ何で先輩は泣いてるの?」
「辛いからに決まってるでしょ」
「ほら、辛いんじゃないか。大丈夫なんかじゃないくせに、嘘つき」
「……山岳が何でそんなに突っかかってくるのか分かんないよ」

そう言うと山岳は黙ってしまった。さっきまであんなにべらべら喋っていたのに、こうも急に黙られると調子が狂うからやめてほしい。私が頬にできた涙の跡を拭うようにして擦り、立ち上がる。今までずっと山岳に向けていた背中をくるりと正面に変え、今日初めて真正面から山岳を見つめた。

「…先輩は馬鹿だよね」
「!」
「さっさと荒北さんと付き合っちゃえば良いのにさ」
「…そんな簡単なことじゃないよ」
「だったら、簡単なことにしちゃえば良いじゃない」

(……じゃあ、教えてよ)どうしたら、どうやったら簡単なことにできるのか。私には分からない。分かろうとも思わない。だって私は馬鹿で弱虫だから、自分一人じゃこうして攻撃を耐えることしかできないのだ。それなら二人なら何かできるんじゃないのかとも思うが、私にとっての"二人目"は荒北先輩しかいない。でも荒北先輩を"二人目"にすることは自爆を意味するだろう。私に攻撃をしてくる彼女たちが黙っちゃいないよ。

「単純なことだよ」
「、え」
山岳は笑顔でそう言うと、私の腕を強めに引っ張って引き寄せた。それにより私は山岳に抱きしめられる形になってしまう。突然のことで頭が回らないのに、抵抗しようという本能はすぐに働いた。

「や、やだ、」
「あの人を諦めれば良いんだ」
「ッ、ふざけないで!」
「だって」
「!!」

山岳の口角が綺麗に釣り上がる。そんな笑顔に、恐怖さえ感じた。いつもの優しい声じゃない、低い男の人の声が耳元で響く。

「代わりならここにいるんだから」
「、」
「俺が代わりじゃあ駄目なの?」
「……何言ってるの、山岳」

冗談きついよ、と私はそう言い放った。しかし山岳はどうやら本気らしく、少しだけ目元を歪めて私を見つめる。おかしいな、私の知っている山岳はこんな余裕のない表情を見せるような子じゃないのに。いつも先輩先輩と私に構ってきた山岳は、もっと、可愛い後輩だった。だけど今私の目の前にいるのは後輩ではなくて、悔しそうに私を見つめる一人の男の子。初めて山岳のことをそういう風に見たと思う。複雑な気持ちはやがて私のこれまでの涙と傷付いた心を無駄にさせた。

 ゆっくりと山岳の背中に手を回すと、すぐに細くてしっかりした腕が抱き返してくれる。温かくて、強くて、私とは正反対のその体に私は少なからず溺れていってしまった。甘くもなんともないキスのはずが、どこか甘く感じるし。私から"荒北先輩への想い"を奪ったその残酷な掌は、とても優しく感じるし。
何もかもを心から捨てて山岳に身を委ねてみたら、少しだけ心が軽くなったような気がした。

「山岳なんか大嫌い」
「俺も嫌いになっちゃいそうなくらい先輩のこと好きだよ」
「荒北先輩を返してよ」

そんな私の汚い言葉は、山岳の胸の中に溶けて消えていく。諦めるなんてそんな難しいことができるなら最初から悩んではいない。きっと山岳は私から荒北先輩を奪ったことを後悔するだろう。でもきっと、それで良いんだ。これが良いんだ。
 これでもうここで一人で泣くことはなくなるのかなとか、もう上履きを汚されたりしなくて済むのかなとか、隣に荒北先輩はいないけど山岳がいれば幸せになれるのかなとか、そんなことを考えたら涙が滲んできてしまった。

「ほら全部解決したでしょ」


ごめんね先輩。俺は先輩から荒北さんを奪ったんじゃなくて、荒北さんから先輩を奪ったんだよ。


 20140513