bookshelf | ナノ
 付き合いたいって、私が言った。巻島君はきっぱりと「寂しい思いさせるから、無理だ」と断ってくれたけど、それでも良いと私が強がったからそれなら付き合おうと巻島君も笑ってくれた。
 暇な時だけ相手してくれれば良いよ、デートの約束をした日に乗りたくなったら自転車を優先して良いよ、私より自転車が大切で良いよ。色んな気づかいをしたつもりだった。少しでも「面倒だ」と思ってほしくなくて、私なりに努力した。だから今こうやって、付き合って半年の記念日が来たのだ。
先に記念日に気付いたのは巻島君で、記念日だから会おうとメールをくれた。私も会いたい。その時初めて、巻島君に本音を言えたと思う。

 巻島君は優しいから、半年も私を振らないでいてくれた。ずっと私と付き合ってくれて、私より自転車を優先する時も目立つけど、それでも私にとっては幸せなことなのだと自分に思い込ませる。わがままは言っちゃいけない。困らせちゃいけない。もっと構ってなんて、口が裂けても言っちゃいけない。そんな誰が決めたわけでもないルールを、私はずっと守ってきた。


「なまえ」
待ち合わせ場所で待っていると、後ろから久しぶりな声が聞こえたから思わずバッと振り向いた。そこに立っていたのは、初めて見ると言っても過言ではない、巻島君の私服姿。私服の配色が、とても彼らしくて少し微笑ましく感じた。

「ごめん、待たせたっショ」
「う、ううん。ぜんぜん、待ってないよ!」
「…あー、その」

行くか、と。不器用に私の手を握って歩き出す巻島君に、心臓が高鳴った。私よりもずっと大きくて、細い手。前を歩く巻島君の背中を見ていると、すごく安心した。今は、今だけは、私が巻島君を独り占めしている。今は、私が自転車よりも優先されてる。
すでに彼女としての幸せの基準感覚がおかしくなってしまった私は、巻島君の声だけでも幸せで一杯になった。もうこれ以上、いらないくらい。本当はもっと求めたい。だけど、きっとそうしたら巻島君がどんな顔をするかわからなくて怖い。
 そう、今は。今は、これでいい。

「そ、そういえば、さ」
「なんショ?」
「自転車、どう?変わらず、たのしい?」
ぎこちない口調でたずねてみれば、巻島君は微妙な顔で答えた。

「いきなりそんなこと聞いて、どうしたんだヨ」
「え?あ、い、いや…なんとなく、気になって…」
「…楽しいっショ、フツーに」
「そ、そっか」

会話が続かず、気まずさに思わず目を逸らしてしまう。楽しい会話が苦手な巻島君の性格は、分かってるつもりなのに。楽しくないな、なんて思ってしまう自分に嫌気がさした。巻島君が悪いわけじゃないのに、どう言ったら良いのか分からない不満が胸を包む。
 そんな私を見て、気まずそうに口を紡いだ彼を横目に、私はあることを思い出した。付き合う前に一度だけ見せてもらった、巻島君の「ダンシング」。私は自転車、というかロードについて全然詳しくないからよく分からなかったけど、それでも巻島君が見せてくれたその「ダンシング」だけはしっかりと記憶に残っていた。
あれを、もう一度、見たいな。そう言ったら、巻島君はどんな顔をするんだろう。

「あ、の…巻島君、」
「んー?」
「ずっと前に、見せてくれた…あの、ダンシング、」
「…ああ、そーいえば見せたっけなァ」
「あ…覚えて、なかった?」
「記憶にはある。ただちょっと、忘れてただけ」
「そ、そっか」
「ンで?俺のダンシングがどォかしたか?」
「…ま、また、見たいなって…思って」

私がそう言うと、巻島君がぴたりと止まって私を凝視した。その視線に耐えきれず思わず「ご、ごめんなさい!無理だったら、い、良いから…!」と声を張ってしまう。巻島君は驚いたように目を見開いた。

「お前…何かあったショ?いきなりそんなこと言って」
「ち、違くて、ただ、」
「なんショ?」
「あ……、え、っと…」

「あー」だの「うー」だの声をもらしながら、必死に言い訳を考えた。
――だって見たくなったんだから、しょうがないじゃない。それ以外に理由なんてないわよ。
ただそんな思いが浮かんできては、罪悪感がまた生まれて。何も言えなくなって、きつく口を紡いだ。巻島君が私を凝視してる。きっと、変なやつだって、思ってる。面倒なやつだって、ハッキリしないやつだなって、迷惑してる。
ぐるぐるとマイナス思考ばかりが働いて、涙が滲んできた。

「……お前、さァ」
「、え?」

 ぽん。
優しく撫でるように頭に乗せられた大きな手。あったかくて、不器用な巻島君の手だ。
巻島君はバツの悪そうな顔で、私と同じように視線を泳がせながら言葉を選んでいた。しばらく「えっとな、その」だなんて繰り返して、また口を閉じて。なんだかそれが私のモノマネをしてるように感じて、少し笑えた。

「ま、巻島君…」
「とりあえずよォ…その、名前で呼ぼうな?」
「名前…?」
「俺達、付き合ってんのに、苗字で呼ぶとか可笑しいっショ」
「え、あ」
「裕介。ホラ、呼んでみろヨ」
「…ゆ、裕介…」
「そ」

ぎこちない笑顔を向けられて、肩から力が抜けていく。
 ――裕介。
その名前を呼ぶと、どうしてか心が満たされるようで、すごく安心した。ただ、彼の名前だというだけで、こんなにも愛しくなる。
裕介。もう一度心の中で彼を呼んで、あったかい気分になった。

「よォやく、笑ったな」
「へ?」
「お前、ずっと下向いてるし目合わせねェし…なんか、こっちまで気まずくなるっショ」

わしわしと自分の髪を乱暴にかき混ぜながらそう言った裕介は、すごく色気があって、格好良いなと感じた。裕介の髪の色は、すごく、好き。珍しくて派手で、はじめて見た時はびっくりしたけど、裕介にすごく似合ってるし、綺麗で格好良い。だから好き。
 出会ってから、今まで。裕介の長くのびた髪とか、いつまでも変わらないぎこちない笑顔とか、そういうの全部、私の幸せだった。裕介と付き合った初日だって、幸せで一杯だった。たとえそれが肩書だけの恋人だったとしても、私はそれだけで幸せだったんだ。それなのに何時の間にか、わたしは、そんな小さな幸せさえも忘れてしまっていた。


「あ、あのね…裕介、」

ずっと言いたかった本音を言ったら、裕介は受け入れてくれる?
こんなわがままな私を、嫌いにならない?
もっと、自転車よりも私を、愛してくれますか?
 色んな思いと不安が入り混じる中、私は必死に裕介の手を握った。ぱちくりと唖然な表情を見せる裕介なんか気にせずに、震える唇を開いて、声帯を震わせた。

「もっと、…もっと、愛してほしい、よ…」

言ったと同時に溢れてくる涙なんて、もう、気にならなかった。

「自転車、より…っ私のこと、好きになってほしいよ…!」
「ッ、なまえ…!」
「ゆ、っ…!?」

もう一度裕介の名前を呼ぼうとしたのと同時に、強く、きつく抱きしめられた。ハッと見開いた目から零れ落ちた涙が、裕介の服にしみ込んで、そのまま消えていく。あたたかい。あたたかくて、やさしい。裕介の匂いは、すごくすごく久しぶりで。一緒にいる時間は、本当に少なかったんだなと実感した。こんな私を、半年も隣に置いてくれたのだと、心から裕介を愛しく思った。
 裕介との距離がゼロになって、柔らかな髪が頬に当たる。さらさらしてて、ふわふわしてて。まるで女の人の髪みたいに、綺麗だな、とか。色々考えたらもっともっと裕介のことを知りたくなって、もうどうしようもなかった。
 今まで抑えていた反動は、思っていたよりも大きくて、深い。

「なまえ、お前さァ…勘違い、しすぎっショ」
「、っえ…?」
「俺がいつ、お前のこと愛してないって言った?自転車よりも、お前のこと愛してるに決まってンだろォ」
「で、でも…裕介、いつも私といるより、自転車のこと優先するし、」
「それはお前が本音隠して俺に気ィ使うからっショ!!」

頭に手を置かれ、そのままわしゃわしゃと髪をかきまぜられた。
 こんなにハッキリと人を責める裕介は初めてだし、私が裕介に気を使っていることに気付かれていたのも、はじめて知った。

「俺はさァ、ハッキリ「私を優先して」って言ってもらわねェと、そうできねェんだよ…」
「っ、じゃあ、裕介、」
私は裕介の手に自分の手を重ねて、真っ直ぐに裕介を見つめた。

「私のこと、優先してください」

はじめて裕介に言い放った本音を、裕介は嫌がったりなんてしなかった。
ただ黙って私を再度抱きしめてから、「もっと早く、こうしたかった」とだけ、私の耳元で囁いた。
耳に裕介の吐息が当たって、背筋が痺れるような感覚に襲われる。それがむず痒くて目をつぶれば、裕介は「隙アリっショ」と呟いて私にキスをした。


「やっぱ俺、お前じゃなきゃ駄目っショ」


ハート貫いて溢れたら
(もう、わがまましか言わないよ?)


 20130504
タイトルサンクス ごめんねママ