hayaku | ナノ
 確か第一印象は、"鈍そうなヤツ"だった。
へらへらとした呑気な笑顔が印象的で、きっと彼女は明るく穏やかな性格なのだろうと感じた覚えがある。だけどそんな笑顔を見えにくくさせていた長い前髪がひどく鬱陶しいとも思った。たまに前髪を伸ばしっぱなしにしてほとんど目が隠れている人を見かけるが、彼女もその一種なのだろうか。いつになっても短くなることのない前髪に僕は正直かなりもどかしい思いをしていた。別に彼女の顔をちゃんと見たかったわけじゃあないが、それにしても、妙に彼女のことが気になって仕方なかったのだ。



「前髪、切ったらどうですし」


それは僕が初めて彼女一人に対して投げかけた言葉。それを聞いた彼女は驚いたように僕を見て、何だか微妙な反応を見せた。僕を見上げたせいでハラリと分かれた前髪の隙間から、丸く大きな瞳が覗いている。素直に綺麗だと思った。
結局、嫌ですとも分かりましたとも言わずに彼女との会話は成り立たぬまま終わったのだが僕は彼女に声を掛けたことをほんの少しだけ後悔した。おそらく先ほどの僕の発言はあの場で言うには不自然な内容だっただろう。驚いた顔を見せた彼女がその証拠だ。
僕は柄にもなく深い溜め息をつき、気晴らしに商店街へと向かった。


 そう、全てはそこから始まったのだ。
僕の言う通りに前髪をばっさり切った彼女が、きらきらと輝くような瞳でピン留めを見つめていた彼女が、やけに可愛いと感じてしまって。自分は思っていたよりも単純な人間なのかもしれないと初めて思った。女子が好きそうなものがズラリと並べられたテーブルで他の商品に負けじと輝くそのピン留めは、きっと彼女にとてもよく似合う。あのピン留めがあれば、彼女の顔はもっとはっきりと見えるようになるだろう。そんなことを考えながら僕は彼女にピン留めを買ってやったのだ。

初めて触った彼女の髪は思っていたよりも柔らかくさらさらで、とても触り心地が良かった。戸惑うように僕を見る彼女がとても可愛いくて、なぜか心が満たされるような気がした。
ずっと彼女のことが気になっていたせいか、ピン留めを髪に飾った彼女の笑顔に僕の心は全部持って行かれてしまったのだ。彼女の笑顔を見ると指先がこれ以上になく熱くなるようで、これが恋なのだと自覚する。
生まれて初めて恋をした相手は、僕のタイプとはかけ離れた能天気そうな女子。だけど彼女の笑顔を見る度に僕の中の「理想」は「名字名前」へと変わっていった。そういえば、恋は人を変えるのだとでろ美が力説していたことがあったような気がする。あの時は何を言ってるのかイマイチ意味が分からなかったが、今の僕にはその意味が嫌というほど理解できた。

(……"寝ても覚めても"とはまさにこのことですし…)

頭を抱えながら部屋を出れば、自然と彼女を探してしまう。用もないのに構いに行ったら不自然かもしれない。それでも彼女の声が聞きたくなった。



 しばらく彼女を探して歩いていたのだが、アジトのどこを探しても彼女の姿は見当たらない。諦めて部屋に戻ろうか、それとも商店街に行こうかと悩んでいた時だった。
(!…あれは……)
僕が向こうから歩いてきたダビデに気付くと、どうやらダビデも廊下で立ち止まっている僕に気が付いたらしい。僕のすぐ前まで来て足を止めたダビデは不思議そうな顔で「何こんなとこで突っ立ってんだべ」と首を傾げた。
そうだ、ダビデはよく彼女にちょっかいを掛けているからこいつなら彼女の居場所を知っているかもしれない。そんなことを思い付いては少しばかり胸が痛くなったような気がしたがそんなの無視ししてダビデに問う。

「名字名前を見なかったですし?」
「あ?名前…?見てねーけど」

(ってことは……)
これだけ探しても見当たらない、そしてダビデも彼女を見ていないのなら彼女はアジトの外へ出掛けているようだ。僕は少し残念な気持ちになりながらもダビデにお礼を言ってその場を去ろうとした。しかし、

「ああ、そーだ祠堂ちゃん」
「…? 何ですし」

ダビデに呼び止められて振り向けば、そこには楽しそうに笑うダビデの顔。僕はその笑顔に嫌な予感がして眉間に皺を寄せる。

「名前なら俺の部屋にいるべ」
「……は…?」
「昨日の夜俺の部屋に泊まってったの、すっかり忘れちまってたわ」
「…な、っ……」


言葉が出なかった。
僕は何も言えずに目を丸くしてダビデを見つめる。

――昨日の夜?泊まって行った?なんで?
溢れんばかりの疑問と戸惑いが僕の頭を埋め尽くした。しばらくしてから僕はようやく震えた声で口を開く。

「……ダビデと名字名前は…つ、付き合ってるんですし…?」

情けない声だ。