sinkaron | ナノ
 帰宅後、部屋着に着替えてから仮眠をとった私は昨日彼に借りたものを返すため、傘とハンカチを持って"爆豪"と記された表札の家の前に立っていた。本当は学校で返すのが無難かとも思ったが、ヒーロー科の教室は何だか異様な空気を放っていて近付くのに躊躇ったため今に至る。緊張のせいかぎこちなくインターホンを押すと、ピンポーンと小さく音が鳴った。聞き慣れていないわけがないそのの音を聞いて、私は思わず顔を強張らせる。


しばらくするとガチャリと音を立ててドアが開いた。心の準備はできていたはずなのに急に変な緊張感に襲われて一歩下がってしまう。しかも中から出てきたのは彼の親ではなく彼自身。

「!」
一瞬驚いたように目を開いた彼は、学校から帰ってきたばかりなのかまだ制服のままだった。私は何か言うよりも先に傘とハンカチを差し出してから「こ、これ…」と小さく口を開く。どういうわけか声が震えてしまったが彼は何も言うことなく受け取ってくれた。気のせいかいつもより表情が穏やかに見える。いや、気のせいだろうけど。

「貸してくれてありがとう。…あ、ハンカチはちゃんと洗ったから安心し
「ひでえ顔」
「えっ」

じっと目を細めてそう言った彼の言葉に驚いてぎくりと顔を引きつらせると、彼はしばらく私を見つめた後にまた続けて口を開いた。

「今日それで学校行ったのかよ」
「だって別に具合が悪いわけでもないし…」
「………」
「……そ、そんなにひどい?」

片手を顔にやりながら苦笑いを浮かべれば彼は黙ったまま私から目を逸らして微かに頬を緩ませる。それを見た私は目を丸くして短く「え」と声を零した。(いま笑っ……た?)

「あ、あの」
「寝癖」
「寝癖?」
「ちげーの?コレ」

彼はそう言うと私の髪に手を伸ばしながら小さく息を漏らす。やっぱり、とでも言いたげな顔で私の髪をつまんで軽く引っ張ると、ゆらゆら揺らしながら「コレだけ不自然」と言った。その声はやっぱり前より穏やかで、というかそれより彼の笑った顔があまりにも意外すぎて私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「え……、え?」
「つーか普通気付くだろ…ふッ」

抑えきれなかったのかさっきよりも大胆に笑ってみせた彼の顔を見て、私は顔が熱くなるのを感じた。じんわりと肌が熱を持ち、思わず顔を伏せてしまう。
(わ、笑った……)
今日は機嫌が良かったのだろうか。そんなに私の寝癖が面白かったのだろうか。っていうかそもそもこの人、笑うんだ。初めて知った。しかも初めて見る彼の笑顔は私に向けられている。他にもたくさん色んなことをぐるぐると考えた。彼の笑い声を聞きながら私は赤くなった顔を必死に隠している私に気付き、ようやく彼の笑い声が止む。

「んだよ顔上げろって、別に寝癖なんて誰でも……」
「……、…う」
「あ?」

眉間に皺を寄せながら私の顔を覗き込もうとした彼に、私は大きく肩を揺らして顔を上げた。するとそこにはもう彼の笑顔ではなく、ただ私をどこか心配そうに見つめる顔があって。

「おい…―――」
「っ……」

再び大きな手が伸びてきたかと思えば、それは今度は髪ではなく私の頬に触れようとした。何とも言えない空気と彼の表情に全身が痺れるような感覚に襲われる。彼の手がぎりぎり触れるか触れないかまで近付いたところで、低く掠れたような声が耳に響いた。

「名前」






違う。







「っあ、オイ…!!」

彼の掌が私の頬に触れるより先に全速力で彼から離れ、自分の家に駆け込んだ。
ばたんとドアが大きな音を立てた後に、私はドアに寄りかかる。乱れた呼吸を整えながら、私はぎゅっと服の胸のあたりを掴んできつく目を閉じた。

「っ……」

違う、あんなの全然違う。昔からずっと抱いていた彼へのイメージは、もっと怖くて喧嘩っ早くて、優しくなんかないただの"不良"だったのに。彼は私に傘とハンカチを貸して、可笑しそうに笑顔を浮かべて、急に俯いた私を心配した。優しくなんてないはずなのに笑顔なんて見ることがないと思っていたのに私を心配するなんてありえないはずなのに。

私の名前なんて、知らないはずなのに。



昔、個性のせいで二年分の記憶を失くした私に親が何時間もかけて教えてくれた私の"二年分"が、大きくざわついたような気がして頭が痛くなる。

「っ……なんで…」

出久君に再開した時に覚えた"懐かしい感じ"と同じような、けれど随分違う感覚に襲われた。
私が彼と初めて話したのは数日前のあの日じゃないの?
どうして私の名前を知ってるの?


どうして




「名前」




あんなに苦しそうだったの?


20150222