sinkaron | ナノ
深化論







 隣の家に済む男の子は、たまに痛々しい怪我をして帰って来ることがあった。とても釣り上がった目付きは彼が成長するにつれてどんどん悪くなっていき、私もまた成長するにつれて彼を怖いと感じるようになった。お隣さんだけど、声を交わしたことはない。目を合わせたこともない。もっと言うと私の部屋には窓が二つあるけれど、一つは彼の部屋の窓と隣接しているため何年か前からその窓のカーテンを開けたことはなかった。とにかく私はお隣さんの彼と関わることが怖かったのだ。

それなのに。

決まってしまった運命から逃れることはできないということだろうか。家の門扉に手を掛けたまま動けない私の手から落ちた鞄の中で携帯が震え、私はようやく現実へと引き戻される。






 それは、わずか五分前のことだった。
いつもと同じ、いつものように家の門扉を開けようと手を伸ばした時、突然「え、」と隣から声が聞こえたのだ。その声に吃驚して横を見ると、そこには、私と同じ高校の制服に身を包んだ彼が立っていた。

「え」

私も彼に釣られて短く声を漏らしてしまう。どさりと音を立てて私の手から滑り落ちた鞄など気にならず、頭の中は「信じられない」という言葉で一杯だった。今まで避け続けていたお隣さんが、実は同じ学校で、しかもそれに気付かず過ごしていたなんて。

 はじめて真正面から見る顔。はじめてその鋭く目付きの悪い瞳に私が映った。彼の瞳はまるであり得ないものを見るかのように私を映している。私と同じだ。

「……雄、英…」

彼の低い声が、ぽつりと"私たち"の学校名を口にした。もちろんガラの悪い目付きはそのまま私に向けられている。いよいよその視線に耐えきれなくなって目を逸らせば、少しの沈黙のあと、彼は何も言わずに家の中へと入って行った。
彼の雑な仕草のせいで荒々しい音を立てたドアに呆然と目をやれば、耳の奥にはっきりと残った彼の声を思い出す。


雄英高校に入学して二週間。学校帰りの、午後五時二十七分。何とも言えない気持ちのまま、私はその場に立ち尽くした。

(声……はじめて、聞いた…)

恐怖か緊張かは分からないが心臓がどきどきとすごい音を立てている。怖かった、というか、吃驚した。だってまさかあんな、あんなにガラの悪い彼が雄英高校のヒーロー科に通っているだなんて。
そんなことを考えてはまたあの鋭い目付きを思い出して体を強張らせる。今まで彼から逃げるような、彼を避けるような生活を送ってきたというのに学科が違うとはいえ同じ学校に通ってるんじゃ意味がない。私はゆっくりと息を吐き出しながら鞄を拾い、家のドアを開けた。


 私が通っているのは普通科、そして彼が通っているのはヒーロー科。なんというか、複雑だ。

(ヒーロー科…かぁ……)

心のどこかでは素直にすごいなあと彼を尊敬してしまうが、その裏で本当に彼はヒーローを目指しているのかと疑ってしまう。さっきまで私を見つめていたその目付きは、ヒーローというには少し、いやかなり物騒で。
人を見かけで判断するのは良くないことだとは分かっていても、幼い頃からずっと一方的にだが彼を知っていた身としては彼に対する恐怖心というのはなかなか抜けないものである。

 脱衣所に入り、脱いだ制服を見つめながら私も先ほどの彼と同じように小さく呟いた。

「……雄英………」

それは今まで関わることのなかった私と彼の、唯一で初めての共通点。
しかしそれを喜ぶわけでも大袈裟に悲しむわけでもなく、私はただぼんやりと制服を見つめていた。


20150212