sinkaron | ナノ
「名前ちゃんはかっちゃんのこと、どこまで知ってる?」




その質問を耳にした時、一瞬だけ呼吸が止まるのを感じた。
はっと息を吸い込んで瞬きをしてから、私は真剣な出久君の表情にぴたりと口を閉じる。どうしてそんな質問をされたのかなんてじっくり考えるほどの余裕はなかった。ただ必死に、彼に返す言葉を探す。
しばらくお互いに黙り込んだまま見つめ合っていたが、今度は私が真剣な表情を浮かべた。

「……知らない」

できるだけ柔らかく言ったはずなのに、きっと口から零れた四文字は思ったよりも冷たく彼の耳に届いただろう。出久君は驚いたように、だけどそれをなるべく顔に出さないように唇を噛んだ。それを終始見つめながら、私もまた唇を噛み締める。
(彼のことなんて…なにも)
心の中で言いかけてから、ぎゅっと両手に拳を作った。痛いくらいに噛んでいた唇をうっすらと開けた私は途切れ途切れに言葉を続ける。

「…家が隣で、同じ学校に通ってて、ヒーロー科で、……あとは」
「……」
「…見かけによらず、優しいところ」
「……!!」
「それしか知らない」

最後に少しはにかみながらそう言えば、出久君は大きな目を真ん丸にして言葉を失くした。
思い出したのは、あの雨の日のこと。いつもみたいに目付きが悪くてすごく怖い顔をしていたし、言葉遣いも動作も荒々しくて怖かった。だけど、彼は私に優しくしてくれた。それを伝えたかっただけなのに出久君は戸惑ったような顔をする。薄く開かれた唇が、微かに震えていた。

「……出久君…?」

どうしたのだろうと心配になって少し上にある肩に触れようとした時、布が擦れる音が耳元に聞こえて私は思わず一歩退いてしまう。しかし出久君の顔はさっきよりも随分と近くなっていて。声を発する余裕もないまま両肩に鈍い痛みが走った。
出久君が私の両肩を強く掴んでいたのだ。

「い……っ」
小さく声を零せば、出久君の手が震えていることに気付いて私はゆっくりと顔を上げた。するとそこにあった出久君の顔に、私は思わず眉を顰めてしまう。

「…――」
「…え…?」

出久君が消えそうな声で言ったその内容を聞き取ることができなくて、私は掠れた声で聞き返した。切羽詰ったような、まるで強く何かを訴えかけてくるようなその顔に私はまた目を見開く。ひどく悲しそうに、歪んだ顔だった。

「かっちゃんは…――!!」
「……!」
「ッ、あ……」


"かっちゃんは"


出久君はそう言いかけて、急に我に返ったかのように口を閉じた。戸惑ったように私の肩から手を離すと、その顔はいつもの控えめな出久君に戻っていて私は何だか唖然としてしまう。出久君はそんな私の視線に気付くと、困ったように頭を下げた。

「ご、ごめん…!痛かった、よね…?」
「…あ…ううん、大丈夫、だけど…」

なんだか上手く言葉が出てこない。
少し乱れたブレザーを直してぎこちない笑顔を向ければ、出久君はまるで自分を責めるかのように息を零した。それが何故か見てられなくて、私はスッと視線を落とす。

(……かっちゃん…)
何度か心の中でその名前を口にしてみたけれど、胸が締め付けられるような違和感を覚えるだけ。何も浮かんでこないし、何も分からない。だけど、彼の態度とか、出久君の態度とか、私がそれを理解できない理由とか。それら全てを繋ぐものがあるのだとしたら。私はきっとそれに、心当たりがある。


「……名前ちゃん、昔のこと――」





「ねえ、出久く
「今日は家まで送って行くよ」
「!………」
「ね?」


言いかけた言葉は出久君に伝わることなく消えていく。まるで出久君が、私の言葉を拒絶したように思えた。
私はさり気なく引かれた手にまた言葉を失くして出久君を見上げる。昔よりも少し大人っぽくなった笑顔。大きくなった優しい手。昔の出久君はちゃんと思い出せるけれど、ぽっかり空いてしまった"二年分"の彼の姿は、どうしても浮かんでこなかった。


「帰ろう、名前ちゃん」



何でかな。



「…待って」


私は歩き出そうとする出久君の制服を掴んで、呼び止める。驚いたように振り返る出久君の顔はぼやけてよく見えなくて。あれ、何でこんなに視界が滲んでいるんだろう。そんな疑問を抱いた瞬間に、頬に何かが伝うような感触がして私は思わず息を止めた。ようやくぼんやりと出久君の顔を捉えることができて、出久君がひどく驚いているのが分かる。
あの時の彼の言葉とか、悲しくて悔しそうな顔を思い出すと無償に泣きたくなった。

「名前、ちゃん……」
一度だけ弱弱しく私を呼んだ出久君だったが、今度はきゅっと顔を引き締めて口を開いた。私が言いたかったことを察したかのように、出久君ははっきりと言う。

「…名前ちゃんは優しくて頑張り屋で………ずっと、僕の憧れだったんだよ」
「!」
「僕が知ってる名前ちゃんは、いつも笑顔だった。小さい頃から僕にたくさん笑い掛けてくれたんだ」
「……出久、くん…」
「だから、これからも笑っててほしいな」

その笑顔があまりに優しくて、だけどやっぱり少しだけ悲しそうで、私は何も言えなくなってしまう。きっと今のが、この笑顔と優しさが、私が彼にした質問の答えなのだろう。
(…出久君は、ずるいなぁ)
私の不安も悩みも、笑顔ひとつで忘れさせてしまうんだ。


「さっきは肩…ごめんね、ホントに」
「大丈夫だよ。……あのさ、出久君」
「ん?」

隣に並んで歩きながら、私はふと出久君を見上げた。それに気付いた出久君もこちらを見て、ぱちっと音を立てるように視線が交わる。再会したあの日よりは、何だか自然な表情になったななんて。微笑ましく思う反面、また私の頭に浮かぶ彼の姿。

「…どうしたの?」
「……ううん、やっぱり何でもない」

昔のことを、私が失った二年間のことを知りたいと思えば思うほど、そんな気持ちとは裏腹に知るのが怖いと怯える自分がいる。
私はそんな恐怖と緊張を誤魔化すように笑うことしかできなかった。


20150306